第十話:家族愛なんていらない
「そんなに急いでどうしたの?」
「そりゃ、凪沙を追いかけてきたんだよ」
息を整えながら半歩分遅れて歩き出す。息が落ち着くのを待っていた様なタイミングで凪沙が口を開いた。
「どうして?」
「賑やかなところが苦手なんだよ、カラオケとかさ。それならまだ凪沙といる方が落ち着く」
その言葉自体に嘘はなかった。ただ根っからの本心というわけでもない。俺個人の目的のためにしかここにはいないのだから。
「……史仁君は優しいのね」
「そんなんじゃないよ」
囁くような声に言い返すと、凪沙は顔を背けた。斜め後ろからではその表情は完全に見えなくなった。見せたくないという無言の意思を感じて半歩遅れたまま着いていく。薄らとした罪悪感を腹に抱えた俺としても、真っ直ぐに彼女の顔を見たくはなかったから助かる。
「さっきはごめんなさい」
風にさらわれてしまいそうなほど頼りない声だった。凪沙への意識がなかったら聞き逃していたかもしれない。
「謝るようなことじゃないだろ、少なくとも俺には」
「でも、私は史仁君に謝りたいの」
「どうして?」
「本当は史仁君にはちゃんと私の口から言いたかったから。あんな形でいうことになってごめんなさい」
言われて少し考えた。
他の人の前で独白をしたこと以上に伝え方を気にする凪沙の本意。人気女優と元オリンピアンの間に生まれたからこそ生じた孤独の訴え。
「愛してくれない両親が嫌いだっていうことを?」
少しだけ間を置いて凪沙は小さく頷いた。
「いつどう話そうか考えているうちにこうなってしまったの。でも今日、体育祭の時にきっかけができたから終わった後言おうと思っていたの。本当よ」
「そんな風に思ってくれているだけで俺は嬉しいから謝るなよ。俺はただ、凪沙の事を知られればそれで十分だからさ」
声色から少しだけ必死さを感じて慰めが先に出た。そこまで誠実であろうとされると俺の方が決まり悪くなる。慰めは受け取ってもらえていないのかそれとも足りなかっただけなのか、凪沙は静かに俯いたままだった。
要不要か迷いながらも「それに」と付け足す。
「誰にだってあるだろ踏み込まれたくないラインみたいなの。今回は花村が不用意にそれを超えてきた。だから仕方ないよ」
特別、という言葉が凪沙の中の譲ってはいけないものを超えた。嫌いでしかない親からもたらされる家柄という特別性は凪沙にとっては忌むべきものだったのだろう。入月家という一括りで特別に見られることは、物理的にも精神的にも乖離している両親と同一視されることと同義だからだ。
「……うん、ありがとう」
やはり間を空けてようやく凪沙は小さく言った。
そして一度ため息を吐いて空を見上げた。俺もつられて見上げてみる。九月も下旬の空は六時を過ぎた今でも糠星が見え始めている。
その小さな細かい光に語りかけるように凪沙は言った。
「私は私を産んだ二人が嫌い。憎くなるくらいあの二人が嫌い。こんな風に愛の一つも感じさせてくれないなら私なんか産まなきゃよかったのに。どうして産んだんだろう」
その問いには俺は何も言えない。凪沙の両親にどんな想いがあって凪沙を産むことにしたのかは知らないし、もしかしたらあまりよくない経緯で産むことにしたのかもしれないからだ。きっと凪沙もその可能性を考えているから無理に取り繕った言葉を並べ立てたところで何の意味もない。凪沙自身も優しい言葉を待っているわけでもないはずだ。むしろそれをかけてしまうことは彼女に対しての侮辱にすらなる気がした。
「それが凪沙が自殺したい理由につながるんだな」
何も言えない代わりに問いかける。
言葉を発しながら誕生日に自殺をする理由を聞いた時にあてつけだと言っていた事を思い出した。それは両親に対してのものなのだろうと思った。産まれた日に死ぬことで二人に、自分を産んだ意味と理由を考えてみろという強いメッセージを残せると考えているのかもしれない。実際にやられたら親の立場とすれば相当なショックを受けるだろう。
「……そう」
頷いた凪沙の手は硬く握られ震えていた。俺は見ていない振りをして言葉を重ねた。
「でもそれが理由の全てじゃない」
「……そうね」
両親との関係が劣悪なことは放たれた言葉でよく分かった。当然愛を与えられてこなかったということも浮き彫りになった。
ただ、それだけが凪沙を自殺に駆り立てているとするには不十分なように思う。
この世界にどこにも居場所を見つけられない人が自殺をする。人とのつながり、関係性があるところは社会が形成されていて、そこで生きる限りは、その社会の中に居場所を持っていることになる。人間社会で生きる以上、その仕組みから逃れることは出来ない。そこでの居場所と呼べるものを全て失った、もしくは失ったと感じた時、人は絶望して死を選ぶ。
それは死んだ俺が一番分かっている。それに即せば凪沙はまだ死ぬ必要は無い。両親からの愛が得られずに家庭に居場所を作れないのなら、外の社会の中に作ればいい。それこそ学校という分かりやすいコミュニティがある。
なのに凪沙はそうしていない。どころか人形という言葉を使うことで自分から周りを遠ざけている。それは家に居場所を見つけられないだけの人がする行動とは結びつかない。ちぐはぐな行為といったほうがいい。
そこには必ず何か理由が存在している。愛を与えられず育ったという小さくない要因は、それでも彼女を死まで追い詰めきるほど大きくもないと思えた。
考えながら俺は頭の片隅に杜子春を思い出した。杜子春にとっては人としてのあり方を教えてくれるという良い意味で影響した母親という存在が、凪沙にとっては何らかの理由で彼女を苦しめる存在になっている。何も知らない他人からすれば羨ましく思える容姿と運動センスという財産を授けた親が、本人の眼には憎む対象に映っている。
その両親は凪沙の見た無慈悲な話の中では鉄冠師の方にあたるのだろう。財産の形をした記憶や感情を失わせて杜子春を苦しめる悪魔。
そうやって当てはめてもやはり分からない事が残っている。洛陽に人がいないといった理由は愛の有無だけでは説明しきれない。
どちらにせよそれは『人形』という単語に集約されているような気がする。そしてそれは瓦礫の海に浮かぶ月の梓ともまた繋がっている。
知りたいのはそこだ。
「史仁君の言うとおり。あの二人が私を見向きもしていないことはもう慣れたわ。いまさらそれを寂しいとは思わない。だから死にたいって思った理由の全てじゃない」
「うん」
そう話す凪沙の拳からは力が抜けていた。
「史仁君には私が何に見える?」
足を止めた凪沙は不意に振り返ってきた。いつもの顔になっている。
その動きと問いに「えっ?」と声が漏れていた。
「それが答え」
「どういう……」
「それは史仁君に考えてほしいの。見て、考えて、気付いてほしい」
少し赤くなった両目に射貫かれる。
「……分かった」
そんな風に見詰められては首を縦に振らざるを得なかった。それが分からないから聞いているんだと言いたくなりながらもそれはできなかった。結果としてながらちゃんと話をしてくれている凪沙に文句は言えない。
もどかしく感じつつ自分を納得させていると、凪沙がためらうような声で「ねぇ」と聞いてきた。
「どうして史仁君は私の事を知ろうとしているの?」
「前も言ったけど凪沙は自殺を考えてしまうくらいこの世界にどうしようもない不満を持っている。それがなんなのかを知りたいんだ」
「知ってどうしたいの?」
展望台に行った日、図書室で聞かれたことと同じ質問だった。その時と同じように、今度はためらわずに答えると今日はさらに一歩踏み込んできた。
静かに詰め寄るような声に俺はすぐには答えられなかった。取り繕った答えはここでは出してはいけない。そんなわずかな強制力を感じて自分の中を探っていく。自分が自殺に至るために、凪沙の死ぬ根拠を知りたいと思った、その理由を。
「知って……きっと共感したいんだと思う。完全に理解するのは出来ないかもしれないけれどそれでも凪沙と同じ気持ちになりたいんだ」
やがて取り出せた答えに凪沙は「同じ、気持ちに?」と少し驚いたように目を瞬いた。
俺は開閉する眼を真っ直ぐ見つめて「うん、そうだよ」と頷いた。
「なれると思う?」
「なりたいと思ってる」
「……そう」
視線を下げて呟いた凪沙の薄く戻った表情の中には少しだけ安堵のような色が映っているように見えた。しかしそれも気のせいだったと思えるくらいすぐにかき消え、目は赤色ながらいつもの調子に戻った。
「遅くなってしまったけれど一緒に花火を見て欲しいの」
「いいけど、学校から離れちゃったけどよかったの?」
「えぇ、学校だと周りに人が多すぎてそっちの方が気になってしまうから。それに流石にもう戻れないわ」
「でもどこで見るつもり?」
「そうね……」
凪沙は考えるように目を伏せて言った。
「この先に公園があるからそこでもいい?」
「うん、構わないよ」
「なら急ぎましょう、もうすぐ始まる時間だから」
「ちょっ」
腕時計に目をやった凪沙は走り始めた。急いで俺も追いかけるけれど軽やかに遠ざかっていく背中はどんどんと小さくなっていく。整って数分と立たない息を再び切らしながら追いかけると、その先に公園の入り口が見えた。それを視界に収めた瞬間に遠くの方で、爆ぜる音がした。
振り返って見上げると空に緑色の大きな花が開いていた。
一輪見届けて、遠くに上がる音と光を感じながら公園の中に入った。遊具はブランコと滑り台、鉄棒だけのどこにでもあるような小さな公園だった。今は一人しかいない。
二つ並んだブランコに座る凪沙に歩み寄って、その横に座った。
見上げながら呼吸を落ち着けていると凪沙がポツリと言った。
「こうしてみると花火って綺麗なのね」
「うん、そうだね」
夏祭りの花火大会と比べるとずいぶん小規模な一発ずつ上がっていく花火だったけれど、赤、青、緑、黄色と順々に咲いていく光の花は十分綺麗だった。周りが極端に静かで特別感の欠片もない公園だから、薄暗い空を彩る花火の特別性が際立って綺麗だと思えるのかもしれない。
それに照らされて色を変える凪沙の顔は相変わらず何を考えているか分からない。楽しんでいるのかもつまらないのかも、言葉の通りに感心しているのかもさっきの出来事を引きずっているのかも語られることはない。
その口が静かに問いかけてきた。
「普通の人は花火を見ている時ってどんなことを思うのかしら?」
「人それぞれだろうけど、ほとんどの人は綺麗だなって思いながら見ているんじゃないか」
中には花火を迷惑だと思う人もいるのかもしれないけれど、そう思いながら見上げ続ける人はそうそういないはずだ。
それこそきっと、凪沙を見る人と同じように。
「なら、綺麗に思えてよかった」
そう言うと凪沙の顔は少しだけ穏やかになったように見えた。
そして「本当に綺麗」と呟きながら花火に向けて手を伸ばした。まるで初めて光るものを見た赤ちゃんみたいに右手を高く、真っ直ぐと伸ばした。
花火を見ることそのものよりも花火が綺麗だと思えたことを喜んでいるような言葉の意味を、俺には上手く消化することは出来なかった。ただ、凪沙の気持ちが少し動いたのだろうということだけは分かった。
花火が五分程度打ち上がると空は静かに元の薄暗さを取り戻していった。火薬によって生まれた灰色の残滓が流されて散り散りになっていく。
しばらくぼんやりと余韻に浸りながら崩れていく雲を眺めていた凪沙はそれを吹き飛ばそうとするみたいに息を吐いた。
「こうして誰かと花火を見ることもやりたいことの一つだったの。初めてだったから」
「そうだったんだ」
意外な言葉に見つめ返した。うん、と小さく凪沙は頷いた。
映画とその直後のカフェに引き続いての三回目の「やりたいこと」の手伝いは開始の予告もやっている意識さえもなく終わっていたらしい。
「ならなおさら追いかけてきてよかった」
「えぇ。本当に来てくれて嬉しかった。手伝ってくれてありがとう」
「そんなつもり全くなかったけどね」
笑いかけた俺に凪沙はもう一度頷いて「そろそろ行こう」と立ち上がった。乗り手のいなくなったブランコが軋む音を立てて揺れた。静かな公園の中ではやけに響いて聞こえた。
俺は立ち上がって歩き始めた凪沙の横に並ぶ。
隣の凪沙は前を向いたまま言った。
「史仁君。もう一つ、手伝って欲しいことがあるのだけどいいかしら」
「今から?」
凪沙は横に首を振った。
「来週の金曜日。夜なのだけど、大丈夫?」
「夜ってどれくらいの時間?」
「十八時以降くらいからがいいと思う。日は跨ぐつもりないから安心して」
「分かった。今度は何するの?」
夜から出来ることに思いを巡らしながら聞いてみると、凪沙は一本調子で言った。
「一緒にご飯を食べるの」
「いいけどどこで?」
「私の家で」
「……凪沙の家で?」
「そう。一緒に作って食べるの」
「作って、食べるの?」
単調に重ねられた言葉に固まりかけた俺に、凪沙はなんともなさそうに続ける。
「史仁君は料理、できる?」
「まぁ、簡単なものなら問題なく作れるよ」
一人暮らしで最低限する料理レベルであれば、だけれど。
「それならよかった。あと作る前に買い物も一緒にお願い。うちには食材がないから」
「分かった」
言われてみれば凪沙のエナジーバーメインの昼食風景からなんとなく想像できた。
「詳しい時間はまた後で決めようか。なに作るの?」
「まだ考えていないからそれも一緒に決めて欲しいわ」
「そっか、分かった」
「ありがとう」
それだけ言うと凪沙は静かになった。言いたいことはもうなくなったのだろう。
そんな彼女に今度は俺が問いかける。
「凪沙のやりたいことって、結局なんなの?」
前回の映画とその後のカフェに続いて、今回の花火。そして次回の料理と食事。
そこにこれといった共通点は見当たらない。特に今回に関しては手伝ってと言っておきながら俺がその意識無く手伝い終えてしまっていた。
手伝いというのがその程度でいいのかという疑問と、単純にこれがどう自殺につながっているのかという疑念が生まれた。例えば未練を残したくないから、くらいの簡単な理由があるなら分かりやすいしそれならそれでいいと思った。
しかし凪沙は立ち止まって、じっと見つめてきた。少し熱っぽい視線だった。
「それも史仁君に考えて欲しい」
「どうして?」
「史仁君なら分かるって、そう……信じたいから」
視線と同様、その声には熱が籠もって感じられた。信じたい、という質量のある言葉をなんとか持ち上げて押し出したような懸命さが彼女の薄かった表情に表われていた。言葉にしてしまえば簡単そうな事も、俺が考えて答えを出すことが凪沙にとってはとても大きな意味があるのだろう。
こんなにも気持ちの分かりやすい表情をしたのは二度目だっただろうか。一度目は悲しそうで、今回は不安そうで。
いずれにせよ、そんな風に言われてしまったら拒否なんて出来ない。
「分かった。そうするよ」
そう答えると、凪沙は安堵したように微笑んだ。その笑顔はぎこちなくて、それでも目もしっかり笑っている初めて見るちゃんとした笑顔だった。
「ありがとう、史仁君」
名前の後に少しだけ歪められる口元が、その声が意識の深いところに溶け込んできた。
得体の知れない甘い感覚に俺は顔をしかめた。
* * *
やってしまった。
帰宅早々後悔を抱えながらベッドに倒れ込む。身も心もやけに重く、鈍い疲労感に包まれていた。沈み込んでいく身体の感覚に意識を手放してしまいたくなりながら、せめてスカートは脱いでかけておかないとという義務感と彼への罪悪感が目を開かせる。
迂闊だった。花村さんへの八つ当たりのような形で私の事を話してしまった。史仁君にはもっとちゃんと整理した言葉で向きあって話すべきだったのに。特に私の居場所を植え付けようとしている彼にはそうするのがせめてもの誠意なのだから。
悪いのは私の方だ。それは分かっている。
話し方に迷っている自分、自分のことを打ち明けるのが怖い自分、そして未だに彼のことを信用し切れない自分。
そうやってもたもたしていた自分が一層嫌いになる。
でも彼は来てくれた。来て、慰めて話を聞いてくれた。それが少し嬉しく思えた。さらに私と同じ気持ちになりたいと言ってくれた。そんなことを言う人は初めてだった。
それならもう信用していいのではないかという気持ちが強く出てきた。
そう思いながら、思ったよりも私の事を分かっているわけではなかった彼に少しがっかりしている自分もいる。作ったような少しわざとらしい笑顔は相変わらずで、時々なにか恐れるように顔をこわばらせる時もある。そんな彼を信用しきるのはまだ怖い。
ただ少なくとも他の人よりは信じていい、それだけは間違いない。私の中をのぞき込もうとする目は変わっていない。そのまま覗き続けて私という嫌悪感を知って、最後に受け入れてくれればそれだけでいい。
そのために彼と言葉を交わしている。普通の高校生ならするであろうことを、人らしいであろう行動に付き合ってもらっている。
その先に生きられる道があると信じて。
その期待は怖くもあった。彼が嫌悪感という正体に至った時に私を受け入れてくれるのか分からない。嫌い嫌われるだけの嫌悪感という存在は拒絶されないだろうか。不安は尽きない。
知って欲しいけれど知られるのもまた怖い。どっちつかずの思いが胸の中で蠢き続ける。
「史仁君」
見ない振りをして希望の名前を口にする。
どうか私を受け入れて。そして生きる事を許して。
嫌悪感であるこの私を、どうか受け入れて。
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