第九話:打ち上げなんていらない



 何事もなく無事進んだ体育祭は俺たちの属する紅組がわずかに点数が低いまま最終競技の紅白・教員対抗リレーを迎えた。紅組と白組それぞれのクラスから代表を一人ずつ集めたチームと教員の作った選抜チームが男女別で競う。


 一チームは六人で紅組と白組は全学年二人ずつ、学年の低い順にトラック一周を走ってバトンを回していく。学年をまたいでの順番変更はできないけれど同学年の二人はどちらが先に走るかは当人たちで決めていいことになっている。


 アナウンスによると、紅組が男女ともに一位をとれば白組を上回って優勝、どちらか一方でも一位を取れなければ優勝は白組になるらしい。たまたまそういう点数になっていたのかそれともクイズ番組の最後の一問のように点数調整されているのかは分からないけれど、盛り上がる展開ではあるようだ。

 

先に女子のレースを行ってその次に男子のレースを行う順番のため、紅組の女子が負けたらその瞬間に白組の優勝が決することになる。


 そんな大一番となったレース、うちのクラスからは男子は陸上部の渡辺が、そして女子は凪沙が選ばれていた。

 男女ともに走者は全員トラック内に集められ、男女、先生ともに六人が一列ずつに並んで立っている。その順番を見ていると、凪沙は二年生のうち二人目に走って三年生へとバトンを繋ぐ役割のようだ。


 普段は髪を下ろしている凪沙も走る時は後ろで一つに縛っていた。ポニーテールを風に揺らしながら空を見つめる様子はまさに走る前の競走馬みたいで美しかった。細い無駄のない体躯が余計にそう見えさせる。


 グラウンドには紅組、白組をそれぞれ応援する声や「紅白の戦いに水差さないでよ先生~!」とヤジが飛んだりしている。これにはグラウンドに集まる先生達は苦笑いを浮かべていた。

 その様子を眺めていると雄斗がニヤニヤしながら隣に来て肘で小突いてきた。


「とうとう史仁に懐いた入月の最後の出番だな」 


「なんだその懐いているって言い方」


「だって、最近史仁と入月仲いいじゃん? 一体どうやったんだよ?」


「どうもしてないよ。ただちょっと話をするようになっただけで」


「そのちょっと話をするってのが前代未聞レベルなんだよ。入月が誰かの隣にいて話をしているだなんてそんなん今まであり得なかったじゃん。しかも今日一日ずっとだぜ? なに、二人付き合ってんの?」


 楽しそうに見当違いの推測を披露されてため息が出る。


「凪沙とはそんな関係じゃない」


「出た出たそれそれ! 名前で呼び合ってるとかもう付き合ってるとしか思えないって」


「なら俺と雄斗も名前で呼び合ってるけど」


「バーカ、俺と入月相手じゃ意味合いが変わるだろうが。それともなんだ? 俺たち付き合っちゃう?」


「……それも、良いかもね」


 雄斗の眼を真っ直ぐ見つめて言ってやると、雄斗はうへぇ、と顔を歪めた。


「待て待て待て、冗談で言ったんだよ俺は。だからそんなマジな顔すんな」


「俺も冗談だよ」


 笑って言うと雄斗はわざとらしくほっとしたように息を吐き出した。


「にしても雄斗もゲーム以外の話に興味あったんだな」


「おいおい、俺はゲーム好き以前に高校生だぞ? 男子高校生はゲームとソシャゲとアニメと恋愛とエッチな話が好きって決まってるだろ。今から走る女子も楽しみの一つ。それだけは譲れない」


「下衆が過ぎるな」


 苦笑しながらも、それはそうな気がした。高校生の時はそんなことばかり話していたのかもしれない。きっと他の男子高校生もまた、同じなんだろう。興味のない振りをしても目がいってしまうことはどうしてもある。特に走っているところを見るとなると、なおさら。

 もっとも、今の俺がそんなことを言うのは犯罪的な臭いがしてならないけど。


 そんなことを考えていると、興奮に満ちたグラウンドが静かになった。紅組、白組の一年生と教員チームの第一走者がスタート位置に着いたようだ。熱気の凝縮した静寂が彼女たちへと向けられていく。


 三人がクラウチングスタートの構えをするラインの延長上、トラック内に立った生徒がスターターピストルを上に向けた。

「オン、ユア、マークス」と日本語発音でなされた開始合図の後、一呼吸おいて「セット……」そして同じ程度空いた間の後、パンッ!と乾いた音が響くと、ほぼ同時に三人が走り始めた。


 前から紅組、白組、そして教師と続いた。一時の静寂から解放された声援がその背中を押していく。

 走る彼女たちの間はスタート時の微妙な差が出ているだけで、走り始めてしまうとほとんど離れることも縮まることもなかった。第一走者は最初に生まれた身体一つ分程度の差を保ったまま最終コーナーを曲がって次にバトンを繋いだ。


 次の走者になると半周するまでリードを保っていた紅組のランナーに白組が並んだ。拮抗したのもほんの数秒、興奮に支配された歓声が力になったのかすぐに白組が前に出て、バトンを渡す頃には身体五個分ほどの差に開いていた。その後ろをさらに遅れて教員チームが追いかけている。


 バトンが二年生に渡った、その一人目。やはりそれぞれのクラスから一番足の速い人間が選ばれただけあって全走者あまり実力差はない。目の前を通り過ぎるランナーは一瞬にして見ているだけの俺たちの目の前を駆け抜けていく。


 観客席からの応援は走者が変わる毎にどんどんボルテージを上げていた。バトンを握り走っている間に、そのバトンが受け継がれていく度に見ている側の生徒の声には期待と祈りが混ざり込んで大きくなっていく。


 その一心のこもった声援は、ギリギリの力を振り絞って走るランナー達にどれほど力を与えているのだろうか。そもそも走者は聞こえているのだろうか。

 そして凪沙はこの声援を必要としているのだろうか。それともこれだけの気持ちの集積体でさえ自分に向けられた瞬間には時間の無駄だと思ってしまうのだろうか。

 俺はそんなことを考えながらレースの行方を見つめる。


 三人目の走者が最後のカーブを曲がり、四人目を前にする頃には紅白のランナーは少しだけ差が縮まっていたかもしれない。分かることはもう教員チームはこのレースではどちらにも追いつけなさそうだということだけだ。

 とうとう走者がバトンの受け渡しゾーンへと踏み込んだ。凪沙の番が回ってくる。見ている俺の方がなぜか緊張して彼女を見つめる。


 紅白での差はあまり変わらず身体五個分程度だった。前の走者が近づくのを確認しながら凪沙はゆっくりと助走をつけ始める。段々とスピードがつく時には白組はパスを終えて勢いよく飛び出していた。


 その様子にどちらかが焦ったのかもしれない。三人目の走者と凪沙は互いのリズムを崩して手から手へと渡るはずのバトンが宙を舞った。遠くから見ていても「あっ」と呟いたような凪沙の顔がよく見えた。バトンを待っていた教員も、渡し終えた白組の走者も嬉しそうな顔を浮かべていた。


 しかしそれもすぐに塗り替えられた。

 バトンは地面に落ちる前に低い姿勢になった凪沙に掴み取られ、弾かれた様に走り出した彼女に連れ去られた。グラウンドを貫いた悲鳴と歓喜の声は称賛一色に変わった。


 体勢を崩しながら走り出した凪沙の速さは圧倒的だった。

 力強く地面を蹴った足はふわりと優しく着地して再び身体を前へと跳ばしていく。馬のように軽快に駆けていく凪沙は一人だけ空気抵抗がないような加速をしていた。バトンパスのミスで空いた前の走者との距離も四分の一周で完全に取り戻した。


 全力で走っているはずなのに浮かんでいるのはいつも通りの無表情。そのギャップに思わず笑ってしまう。ただ顔は少し赤くなっていた。

 凪沙の加速は止まらず、半周を切ったところでとうとう白組の生徒に追いつき、そしてそのまま競り合うことなく追い抜いた。

 今日一の歓声がグラウンド内を包み込む。うちのクラスもみんな言葉にならない叫び声を上げて飛び跳ねている。


 自分たちの前を過ぎていく凪沙は、なびく髪が作る一筋の黒い残像と切り裂かれた空気を置き去りにしてその背中を小さくしていった。

 その一瞬の凪沙はとても美しくて、息をするのも忘れて見とれてしまった。活力に満ちて堂々と駆け抜ける姿を美しいという言葉以外で俺は表現することができなかった。直前まで雄斗と話していた事が頭から抜け落ちてしまうくらい、走る凪沙は美しかった。


 彼女がバトンを渡す時には、一周前とは逆に白組の走者と身体五つ分ほどの差をつけていた。

 走り終わった彼女は普段は透き通った白い肌の顔を真っ赤にしてトラックの内側に入ると、何度も整えるように大きく息を吐きながら空を仰いだ。その拍子に顎から汗が滴ったのか手の甲で拭う動作をした。


 俺は呼吸を止めたままその姿をずっと見つめていた。教室にいる時のような透明感のある作品みたいな美しさではなくて、凪沙の内側に眠る生命力の美しさを垣間見たような、そんな気がした。

 紅組がレースを制したと知ったのは「入月すげぇな」と雄斗が肩を叩いてきてからだった。




 凪沙が席に戻ってきたのは、男子のレースも終えた後だった。男子の結果は序盤で一年生が作ったリードを最後まで守り切って紅組が勝ち、それによって総合得点で上回った紅組が逆転優勝した。


「お疲れ様」


「うん」


「思わず見とれてた」


「そう」


 戻ってきた凪沙に声をかけると相変わらず興味なさそうに頷くだけだった。

「流石入月さん!」「凄く速いんですね!」「かっこよかったです!」などなど、クラスメイトはもちろんのこと、隣にいる同じ紅組のクラスの生徒からも逆転優勝へ導いた立役者への賞賛は止まらず、凪沙はその全てに無関心な塩対応で返していた。


 求められるハイタッチ、向けられる祝福と歓喜の笑顔に褒めちぎる言葉と羨望の眼差し、その全てを見事なまでに「そう」の一言で片付けきっていた。


 その様子にはクラスメイトはここでもか、と失笑して諦めていたけれど慣れていない他クラスの生徒は驚き半分不満半分に呆然としながら自分たちの席へと戻っていった。あくまでもクールを貫き通す落ち着きが素敵だと盛り上がっている生徒もいたけれどそれは少数派だった。


 それでもやはり優勝の仕方が劇的だったせいか、クラスの盛り上がりは教室に戻っても続いていた。

 そうなると当然出てくるのが、


「クラスで打上げしよっか!」


 という話だ。

 話を切り出したのはもちろん花村と彼女と仲の良い生徒だ。

 三〇分ほど後の六時半に花火がグラウンドから上がる予定がある。五分ほどの小規模なものではあるがうちの学校では体育祭の恒例行事となっていた。それを教室で見た後にカラオケに行こうというのが花村の提案だった。


 来年は受験シーズン真っ只中で打ち上げなんてできなくなることも踏まえてその分も今年やっちゃおうという尤もらしい宣伝文句もあって否定的な意見は出ない。賛同が積み重なって行くのが当たり前のような空気が流れ始めている。雄斗までも首を縦に振っていたのは意外だった。


 よっぽど用事があったりカラオケのような雰囲気が苦手な人は辞退していたけれど、盛り上がりムードを削がないよう気を遣ってか申し訳ないと少し大げさに身体の前で両手を合わせるくらいには配慮している。

 その流れに冷や水が差されるのは必然だったのかもしれない。


「ねぇ、よかったら入月さんも行こうよ」


 いつも通り花村が凪沙に声をかけた。きっと花村も断られるとは分かっていたのだろうけれど声をかけないという選択肢はどうしても彼女の中には無かったらしい。特に最後、凪沙が活躍を見せてしまったこともあって、本人を差し置いて自分たちだけ盛り上がるのも違うと感じていたからかもしれない。


 俺からすれば余計なお世話としか言えないけれど花村は誘うことを選んだ。そんな花村の美徳とも言える正義感を俺は否定できないし止めるつもりもなかった。

 ただ、どんな時でも凪沙は凪沙だった。


「私は行かない」


「どうしてもダメ? 入月さんがいないのは寂しいよ」


「そう。でも私は興味ないから」


「そんなこと言わないで今日くらいさ」


 凪沙は普段通りつまらなさそうに返すだけだったけれど、体育祭の余韻にあてられて興奮していたのもあるのか花村は上機嫌で誘い続けている。もしかしたらダンスを褒められたことが思いのほか嬉しくて今なら仲良くできると思えたのかもしれない。

 そのせいでいつも以上に熱心に──悪い言い方をすればしつこく誘いを重ねていた。


「みんながいた方が楽しいし、それに」


 続きそうだった花村の言葉に、とうとう凪沙は小さくため息を吐いて立ち上がった。


「花村さん達が盛り上がるのは勝手だけど、私を巻き込むのはやめて」


「えっ」


 普段と同じような無感情に近い声に花村は固まった。それを中心に広がるように教室が静かになっていく。談笑が静寂に変わり視線が二人に集まる。


「花村さんは私を誘い続けるのが時間の無駄だと思わないの?」


 続いた致命的な拒絶に固まっていた花村の表情は険しくなった。

 そして耐えるように噛んだ下唇から歯を離して、低い声で問いかける。


「入月さんは私と話すのがそんなに嫌なの?」


「嫌とは言っていないわ。けれど、このまま花村さんが誘い続けたって私が頷くことはないって花村さんは分かっているわよね」


「だとしても誘いたい時があるの」


「そう。なら改めて言うけれど時間の無駄だからやめて」


 いくら興奮で熱せられていたとしても花村の気持ちは人形となっている凪沙には届かない。

 それがいつなったのか、どんな人形なのかは感情の薄い表情と声からは分からない。やっぱり俺と話している時と何が変わっているのか分からなかった。

 花村にも目の前の少女は人にしか見えていないはずなのに、何をもって凪沙は時間の無駄の一言で片付けてしまうのだろう。今この瞬間に何を否定されている気になっているのだろう。


「入月さんって何でいつもそうなの?」


 絞り出すような花村の声だった。


「そうやって私を見下すように話すの? ううん、私だけじゃない。みんなに対して突き放すような言い方してさ」


「そんなつもりはないわ」


「ならどうしていつもそんなに冷たくするの?」


「何度も言っているけどお互いに時間の無駄だからよ」


「別に私は時間の無駄だなんて思ってないんだけど。勝手に入月さんの気持ちを押しつけないでよ」


「現に時間の無駄になっているわよね。この時間がまさにそうよ、花村さんにとってね」


「それは入月さんのせいじゃない」


「花村さんが自分の気持ちを押しつけようとしているからこうなっているのだと思うわ」


 花村は口を閉じて凪沙を睨んだ。奥歯を噛みしめているのか口周りに力がこもっているのが見て取れる。自分の言葉をそのまま送りつけられてなにも言えなくなったのだろう。


 俺からすればどっちもどっちだ。言葉が少なすぎてなにも伝えられていない凪沙と善意の押しつけをする花村。どちらも人形と正義感という、自分の中にある絶対的な基準に従って主張し合っているからその意見は交わらない。

 二人の言い争いが酷く滑稽に見えた。凪沙の言うままの意味ではないだろうけれどまさに時間の無駄でしかない。


「そんなに人のことを馬鹿にして楽しい?」


 花村は強く細めた目を向けたまま凪沙に問いかけた。


「そのつもりはないって言ったはずなのだけれど」


「自覚がないならもっと質悪いって分からないの?」


「それはよく分かっているわ。ただ私は事実を言っただけ。それで馬鹿にされたと言われても困るの」


「その言い方が上から目線だって言っているの。どうしてそれが分からないの? それとも入月さんは特別だから私たちの感覚は分からないってこと?」


「特、別……?」


 その声は何かが軋むような音に聞こえた。

 やや目を見開いた凪沙の声は普段通り伝わる感情はほとんどなかった。ただ、ほんの少しだけいつもよりも低く、籠もった呟きだった。

 花村はいっそ嘲るように笑った。


「だってそうでしょ。母親は女優で父親は体操の元オリンピックチャンピオン。そりゃ綺麗で運動も出来るよ。おまけに頭まで良いんだから自分のことを特別だって言いたくもなるよね」


「違う」


「違うわけないよ。実際入月さんは特別なんだから。むしろ普通だなんて言われた方が不愉快。入月の娘であることが羨ましいよ」


「……そう」


 凪沙は消え入りそうな声で呟いて視線を下げた。何か諦めたようにも悲しそうにも見えた。

 下を向いたまま数秒、凪沙は小さく唇を動かした。


「そうね」


 そうしてゆっくりと上げられた顔からは表情は消えていた。その顔はいつもと違って見えてゾッとした。

 いつも通りの無表情。ただ、感情が見えないのではなくて「無」という感情を意図的に貼り付けているような不気味さがあった。


「私は特別よ。特別だからこうなったの。羨ましいなら変わってあげようかしら? 大丈夫よ、あの二人とは顔を合わせるわけではないのだから変わったところできっと気付かないもの。年に何度か連絡があったら私の真似をして返信さえすればきっと上手くいくはずよ。それさえすれば私でなくたっていいもの。いいえ、きっと私がいる必要さえないの。通知の一つあれば他はなにも気にしないのだから誰かが代わりにやってさえくれれば私は死んでいたって構わない。私じゃなくても構わない人生よ。だから変わってみる? 花村さんならもしかしたら私より上手く付き合えるかもしれないわね、この乖離した生活と。それに明るい人だからあの人達の娘として似合うと思うわ。でもあの人達にはなにも期待しちゃいけないから。ただ広いだけの部屋に寝泊まりするだけになるの。それでよければ入月の娘になってみたらいいわ。いいえ今すぐにでも変わってちょうだい、私と」


 感情の一切が排除された小さな声は、それでも全てを凍てつかせるように静かに教室の隅々まで広がった。凪沙の視線は真っ直ぐでありながらどこかここじゃないところを見ているようで、唇の動きもやけに少なかった。顔そのものが固まっているみたいだ。


 花村もその異常性を感じたのか開いた口を動かせないようだった。花村どころかクラス内、俺も含めて動けなくなった。始業式の日、久しぶりに凪沙を見た時と似たような恐怖を感じた。


 彼女を中心に闇が広がっていた。数年、十数年にわたって塗り重ねられた家族に対する不満が、それが彼女にもたらす悪感情が無機質な冷たい声で彼女を包んでいた。


 花村の言いたいことはそういうことじゃない。凪沙の話した内容をちゃんと聞けていれば誰でも言えたことだった。それでも誰もその致命的に噛み合っていない凪沙の言葉にも口を開けなかった。彼女の異様な雰囲気がそうすることを妨げていた。

 しばらく伺うように花村を眺めていた凪沙は、二度、三度と瞬きをした。


「話が終わったなら私はもう行くわ」


 そしてその凍り付いたままの教室に無を貼り付けた顔で言葉を残すと教室を出て行った。

 とりとめのない、並べられただけの凪沙の言葉が教室の空気の中に溶け込んで、本人がいなくなった後でも室内に冷気を止まらせていた。


 その自殺の手がかりとなり得る言葉をかき集め終えて飲み込んだ俺は、他に固まっている生徒たちより少し早く動き出して鞄を引っつかむとドアへと向かう。

 そして一応「ごめん、俺も打上げには行かない」とだけ言って教室を出た。


 死への渇望が他の誰よりも早く俺の身体を動かせるようにしてくれた。あの凪沙の言葉の中にはそういう死につながるような冷たさが籠もっていた。表情に一切出ていなかろうが……いや、出ていないからこそ、その空気に慣れ親しんでいた俺には分かった。今までの無表情とは似て非なる、無が張り付いた表情。それは死ぬ前何度も鏡で見たことのある自殺する前の人間の顔だった。


 その綻びを見せた今の凪沙と話がしたい。ハッキリと死を感じさせるような雰囲気を表に出したのは初めてだったから。展望台で自殺をするつもりだと言ったあの日ですら感じられなかったことなのだ。


 下駄箱に着いた時には凪沙のローファーは上履きに変わっていた。もう外に出てしまっているようだ。そんなに教室で固まっていた記憶は無いからもしかしたら凪沙は走っているのかもしれない。


 そうなると追いつける自信はなくなるけれどみすみすチャンスを逃したくもない。

 靴を履き替えて校門に向かって走り出す。花火を見ていく予定の生徒が多いのか、普段の下校時よりも歩く制服姿は少ない。

 凪沙を見つけられないまま門にたどり着いてしまった。どれだけ足速いんだよと悪態をつく。


 門を出ると道は左右、そして横断歩道を渡って真っ直ぐ進む道の三択になる。凪沙の家がどっちにあるのか俺は知らない。どうするかと迷ったけれど、すぐに凪沙が電車通学だったことを思い出して駅に向かって走り出す。映画に行った時に定期を利用していたのを見ていてよかった。

 まばらに歩く制服姿を五人ほど追い抜いた後だった。ようやく見慣れた綺麗な黒い髪が目に入った。


「凪沙!」


 呼びかけながら駆け寄る。


「追いついた……。足速すぎるんだよ」


 切れた息が邪魔して話しにくい。


「史仁君……」


 驚いたように肩を震わせて振り返った凪沙の声は湿っていて感情を抑えているみたいだった。

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