第六話:映画の楽しさなんていらない




 週が明けた月曜日の放課後、教室で凪沙を待っていた。日直の彼女は担任のところに当番日誌を渡しに行っている。

 この後、凪沙の「やりたいこと」を手伝うことになっている。展望台で話した時は方向性しか決まっていなかったそのやりたいことも土日の間に具体的に決めてきたらしい。


 ただしまだその内容を俺は知らない。自殺に関係しているということしか伝えられていなかった。

 机に頬杖をつきながら一体何を言われるのだろうかと考えていると「入野」と声をかけられた。顔を上げると紙とペンを持った花村が前屈みに笑顔を浮かべていた。小柄な彼女がやや首を傾けると首の後ろの二つのお下げが重力に従って垂れた。

 丁度同じ高さに合った視線に「どうかした?」と返す。花村は持っていた紙を俺の机において聞いてきた。


「次の席替えの希望ある?」


「あぁ、何かと思ったら席替えか」


「そっ。再来週には替えるからそろそろ決め始めなきゃ間に合わないから」


「なるほど」


 席替えは教師によってやり方が変わる。分かりやすくくじ引きで決めるのか、それとも生徒が好きなように決めていくかのどちらかで、うちのクラスは自由度の高い後者だった。


 生徒側がそう要求したわけではなく担任が仕切って決めるのが面倒くさいという理由で生徒に一任されていた。生徒達で決めるのが嫌なら別に席替えはしなくてもいいとまで言っている。


 それもあって、希望を集めて全体の調整して新しい席を確定させるまでの全てが委員長である花村の役割になっていた。


「まぁ、前から二列目のどこか空いているところが第一希望と言うことで」


 どこかの席を指定する人もいるし、俺みたいに列で希望する人もいる。大体の生徒は後ろの二列か、廊下側もしくは窓側の列を希望するけど、友達と結託して近くの席になりたい人たちはあえて真ん中から前あたりを選ぶ人もいる。


 とはいえもちろん席の数には限界があるわけで、同じ席に希望者が二人以上いた場合は花村の作った抽選で決まることになる。それに敗れた人は必然的に不人気の前方に回されることになる。三十五人編成の俺のいるクラスでは最前列は廊下側だけ一人分空けて五人の、以下最後列まで六人で揃えている。サッカーみたいに前は二人で後ろと中盤は四人ずつ、とか大幅に変更することは出来ない。


 希望を伝えると、花村は簡素な教室の見取り図が描かれた紙の隅の方に「入野、二列目」と書いた。他にもすでに指定されたであろう席にはその人の苗字が書かれている。


「いつも通りか。でもそれでいいの? みんな後ろの席希望しているけど」


「だからだよ。後ろの方狙って外れた時に一番前になるのが嫌なんだ。そうなるなら最初からある程度の無難なところを選んでそこになった方がいいだろ」


「毎回それじゃつまらなくない? 折角の席替えなんだからもうちょっと欲張れば良いのに。いつも前から二列目じゃ代わり映えしないでしょ」


「下手打って一ヶ月間先生の間近な圧にさらされるよりはマシだよ。それともどこかって席指定して希望出した方が決める側としては楽?」


「そうでもないよ。入野みたいにある程度柔軟に変えてもいいって人がいてくれた方が穴埋めしやすいし。荷造りの時の緩衝材みたいに」


 花村は言いながら「入野、二列目」の横になぜか「=緩衝材」という言葉を書き加えた。花村の愛嬌のなせる技だろう、楽しそうにそうされると嫌とは感じられない。もし俺が誰かに同じ事をしたら絶対渋い顔をされる。


「花村は凄いな」


「なに、急に?」


「後期が始まってこれからは勉強も本腰入れろって言われ始めたのに部活やりながらクラスのために席替えの調整もちゃんとやってくれるなんて、大変だろ。三十五人分聞いて回るのは面倒くさいだろ」


 少なくとも俺には出来ない。部活を何もやっていないから時間はあるけど、クラスのために責任を持って尽くす協調性は持ち合わせていない。そんな相手にさえ友人にするように同じ顔で接する花村は偉いと改めて見ても思う。大人でも出来ない人は出来ないことだ。


「ありがとう。でも、私は私がやりたいことやっているだけだし。ダンス部だって委員長だって同じ。やりたくなければ誰か他に出来る人に押しつけてるよ」


 褒めれば素直に受け取りながら、その後に謙遜も付け足す。それも嫌味に聞こえないとなると何度も褒めてあげたくなる。そうやってみんなからも好意を惹き付けているのだろう。


「あっ、でも、私のありがたみが分かったならこれからは毎日感謝して崇め讃えてくれてもいいよ? 週一の貢ぎ物は甘いものでいいから」


「残念だけど花村教に入信するつもりはないよ。俺は無神論者なんだ」


「じゃあファンクラブはどう? 会員募集中なの。週一の会費は甘いもの」


「結局甘いものが食べたいだけだな」


「あっ、バレた?」


 花村はそんな下らない冗談を言って笑った。自然な可愛らしい笑顔だった。

 もちろん花村教なんて無い。ファンクラブは……もしかしたら実はあるのかもしれない。うっかりそう思えるくらい、花村は人気だった。小柄で可愛らしくて誰とも分け隔てなく接して、さらには委員長という役柄でみんなに尽くす。本人に聞いたことはないけれど好きな言葉は「平等」なんだと思う。好かれるのも納得の理由だ。


 そんなアイドルとの会話の中に「史仁君」俺を呼ぶ声が入ってきた。俺の待ちわびた透明感のある声だった。

「へっ?」と驚いたように花村が振り返ると凪沙が普段通りの感情の分かりづらい顔で立っていた。


「待たせちゃったかな」


「大丈夫、話していたから」


「そう」


「凪沙は席替えの希望、花村に伝えた?」


「まだ」


「なら今伝えなよ」


「そうね」


「あの、ちょっといい……?」


 興味なさげな凪沙の首肯に、ためらう様子で花村が言葉を挟んだ。俺と凪沙を交互に見て眉をひそめる。


「いつの間に二人は名前で呼び合う仲になったの?」


 戸惑い半分、興味半分というような顔だった。

 きっと花村は単純に驚いたんだろう。自分でも打ち解けられていない凪沙が、まさか俺と距離を詰めているだなんて思ってもいなくて。


 それと同じくらい、もしかしたら年相応に恋愛脳をこじらせて面白そうだと思っているのかもしれない。彼女の言う呼び合う仲という言葉には前向きな意味合いが込められているような響きが感じられた。


 俺と凪沙は互いに死を追いかけるだけの関係でしかないのに。

 ただそんなことを言えるはずもなく、さてどうしようかと考えていると先に凪沙が口を開いた。


「いつでもいいことよ、そんなこと。花村さんには関係無いことなのだから」


「気になっただけよ。特に入月さんはあまり誰かと仲良くしていないみたいだから余計にね」


「そうね。でも気にする必要も無いはずよ?」


「クラスメイトのこと、気にしちゃダメなの?」


「ダメとは言っていないわ。でも時間の無駄とは思わない?」


「……それは失礼したわね」


 淡々と話す凪沙に、花村は少し声を荒立てた。


「それで席はどこがいい? 今までと同じでいい?」


「えぇ」


「少しくらい入月さんの希望はないの?」


「別に、席くらいどこでもいいもの」


 花村は入月の名前を紙に書くと睨むように凪沙を見やった。花村がそんな風に人を見るのは珍しい。凪沙くらいにしか向けていないと思う。


「入月さんいつもそうだよね。自分の意見を全く言わない、主張しない。興味もなさそうに適当に話すだけ。そういうのあんまりよくないと思う」


「私の意見や興味が花村さんに何か影響するのかしら?」


「せめてクラスで決めることくらいは興味を持てって言ってるの。席もそうだし、この前決めた体育祭の出場競技だってそう。一つも入月さんはどれがやりたいとかやりたくないとか、言わなかったじゃない」


 口にはしないけれど花村の言いたいことも分かる。

 先週のホームルームで俺たちのクラスは体育祭についての話い合いで誰が何に出るかや当日の時間の流れの確認を行った。その時も凪沙はほとんど何も口にしなかった。クラスメイトから推薦された競技に出るかの確認をされた時に「はい」という以外、声を発していなかった。結局、足の速さと身長の高さから凪沙は紅白・教員対抗リレーと騎馬戦の騎手役に推されて出場することになった。

 その様子は端から見ていてもあまり良い印象は受けなかった。


 ただ、今に関しては凪沙の気持ちの方が理解できる。

 後三ヶ月で死ぬのだから、わざわざクラスのことなんか考える必要は無い。むしろ考えるだけ無駄だ。それは俺も同じで、体育祭の出場競技とか席替えの希望も内心どうでも良かった。もっと言えば生きようとしている他のクラスメイトのこともどうでもいい。凪沙の事を知られるわけじゃないのならわざわざクラス行事に参加する必要はないとさえ思っている。


 ただそれはそれ、これはこれで、残りの三ヶ月間で参加させられるなら変に思われない程度に意欲は見せておいた方が無難だ。

 そう割り切れていないのかそれとも前から一貫した態度を崩す気がないだけなのか、凪沙は淡々と普段通りの声音で言った。


「私はできることをやるだけ。私がやる競技は、みんながクラスの中では私が適していると思っていたから選んでくれたのよね? みんながそれでいいと思って決めたならそれでいいわ」


「そうじゃなくて、入月さんの希望が一つも反映されていないのはどうなのかって言いたいの」


「みんなが良いなら良いって言っているでしょ。それだって立派な意見よ」


「だからっ」


「二人とも一旦落ち着いて」


 自分の席で繰り広げられている舌戦に割って入る。早く話を終わらせてほしかった。でも、平等にみんなの意見を聞きたい花村とどうでもいいと切り捨てる凪沙とではこのまま話を続けていても平行線をたどるだけだ。第三者が介入してまとめないと話は終わらない。

 それに周囲からも不安げな視線が向き始めていた。その視線が煩わしい。


「私はずっと落ち着いているよ」


「それは分かっているよ」


「ん……」


 じゃあなに、と言いたげに目を細めた凪沙に肩をすくめて花村に向き合う。


「凪沙も俺と同じで緩衝材として扱ってくれればいいんだよ。それが自分とみんなのためだと思っているから」


 眉間から力を解いた花村は「入野」と見つめてきた。こちらはこちらでどうして、とでも言いたそうだった。

 凪沙を緩衝材として扱うのが勿体ないというか、そんな扱いをしていいのかと感じるのかもしれない。その気持ちは俺も分からなくもない。


「でも、納得できないよ。入野はちゃんと狙いがあって席は私に任せてくれているけど、入月さんはそれすらなくて完全に人任せだもん。あったとしても何も言ってくれないし」


「その方が居心地いいと感じる人もいるんだよ。でもそれは自分の意見がないんじゃなくて他の人の意見を大切にしたいってだけなんだ。凪沙の言う通りそれも一つの意見だと思うよ」


「そうかもしれないけど」


 花村は言い淀んで悔しそうに顔をしかめる。責任感が強い分、自分の意見を持っていない人がどうしても無責任だと感じてしまって許せないのだろう。その真面目さは美徳だと思う。


 けどみんながみんな常に自分の意見を持ち続けているわけじゃない。こだわりのないことに関しては意見を一つ用意するにも相当な体力とストレスを要することもある。凪沙にとってクラスでの取り決めがそれに分類されると言うだけの話だ。

 しばし言葉を探すように俯いていた花村がため息を吐いた。


「分かった、そういうことにするね」


「そう言ってくれて嬉しいよ。気分悪くさせてごめん」


「ううん、入野が悪いわけじゃないし。こちらこそごめんね、二人のこと聞こうとしちゃって。とりあえず席のことは分かったからあとはこっちでやっとくね」


「何から何まで助かるよ」


「私がやるべきことだから」


 それじゃあね、そう俺に手を振った花村は凪沙を一瞥した。苛立ちと悲しみが混ざったような目を向けて、すぐに顔を背けて自分の席へと戻っていった。

 ──何でも出来るくせに。

 振り返った時にそんな言葉が聞こえた。


 花村の声で紡がれた呟きは、かつて何度も自分の中から溢れた言葉だった。凪沙の自殺を考える時にべったりとくっついてきた悪意と羨望の入り交じった恨み言。

 やっぱり普段の考え方に関しては俺は花村の気持ちの方が分かるのかもしれない。少なくとも、嫌味一つ言われても無関心そうな顔を浮かべ続ける少女よりは。


「そろそろ行きましょう」


 その少女に言われて頷いた俺は一緒に教室を後にした。

 一応下駄箱まで離れてから問いかける。


「さすがに時間の無駄っていうのは酷くないか?」


「だって事実だもの」


「もしかして花村のこと嫌い?」


「特別花村さんのことが嫌いというわけではないわ。けど基本的に他人は嫌い。そういう人達と話すのは時間の無駄になるの。でもそれは相手も同じよ」


「相手も同じ? 花村も凪沙と話すことが時間の無駄だったって言いたいの?」


 凪沙は囁くように「えぇ」と言った。


「別に花村は時間の無駄だなんて思っていなかったと思うけど」


「花村さんの意思は関係ないの。私と話をしている時点でもう無駄になるから」


 誰かと話をすることが時間の無駄かどうかなんて、それこそ本人が決めることだろう。話している人がその時間をどう思っているかという問題であって、なにか明確なルールによって全員が平等に時間を無駄にするわけじゃない。いくら平等が好きそうな花村が相手だからといって互いの感情まで同一になる事はまずあり得ない。

 どんな原理が働いて凪沙と話をすることが時間の無駄になるのか全く俺には見えなかった。


「一応聞くけど俺も嫌われていて、こうして話すのも本当は時間の無駄になる?」


 凪沙は首を横に振って答える。


「この先もしかしたら全て無駄になってしまうかもしれない。けれど今は無駄じゃない」


「どうして?」


「史仁君は少し特別でしょう」


「なにが?」


「史仁君は私を知ろうとしていて、私は史仁君に手伝ってもらおうとしている。お互いに目的があるのだからそれは時間の無駄にはならないわ」


「さっきの花村にも目的はあったよ。席の希望を聞くっていう」


「それは二人の見ている相手が違うから」


「どういうこと?」


 思わず顔をしかめてしまった。

 見ている相手が違う。それは比喩的な意味だろうか。それとも物理的な意味だろうか。考えるまでもなく比喩的な意味なのだろう。さっきと今では凪沙はなにも変わっていないのだから。


 ただ、俺にはそれが何の例えになっているのかは分からなかった。

 まじまじ見つめていると、凪沙は少しだけ残念そうな顔をしてそっぽを向いた。

 そして少し黙り込んでから口を開いた。


「史仁君以外はみんな人形と話しているの」


「人形?」


「そう。みんなが勝手に作り出した人形と」


「なら俺は?」


「史仁君は私と話しているでしょ?」


 当然のように凪沙は言った。俺もそう思っていたから間違っていなくて安心する。

 見つめてくる凪沙に頷き返して続ける。


「でもみんなだって凪沙と話しているつもりのはすだよ」


「みんなが私を見ていないからよ」


 それが勝手に作り出した人形と話をしているという意味なのだろうけど、凪沙と話そうとするとなぜその人形が出てくるのか、聞きたいのはそこだ。

 聞いてみると、凪沙は同じように「みんなが私を見ていないから」そう言った。

 堂々巡りの問いになっていた。


「聞き方を変えるよ。なら凪沙と人形の違いはなに?」


「それは、私がけん……」


 何か言いかけた凪沙はビクッとして固まった。

 少しだけいつもより目を大きくした凪沙は小さく開いた口から低く抑えたような声で言った。


「なんでもないの。今のは忘れて」


「う、うん、分かった」


 無意識にぎこちなくなりながら頷くと凪沙は両眉の端を下げて俯いた。


「史仁君はもう少し私の事を分かっているのだと思ってた」


「ごめん」


 その八つ当たりみたいな言葉でも、分かりやすく悲しんでいるのだと気付いて思わず謝っていた。凪沙の感情がこんなにハッキリと分かったのは初めてだった。その感情が悲しさというのは少し虚しく感じた。


「史仁君は悪くないの。期待しすぎていた私が悪いだけ。上手く伝えられなくてごめんなさい」


「まぁ、まだ時間はあるからさ、ゆっくり教えてくれればいいよ、凪沙の事」


「うん、ありがとう」


 そう消え入りそうな声で頷いた凪沙は口を閉ざしたまま俯いた。まるで俺が聞きたいというよりも、話したい方が凪沙でそれを慰めたような形になったことに少し違和感を覚えた。凪沙は凪沙で彼女のことを教えようという気持ちが案外大きいのかもしれない。それは俺にとっては嬉しいことだ。


 だからこそ言葉とは裏腹に今すぐ全て教えてくれという思いもある。十三年間積み重ねた凪沙への疑問はすぐに爆発してしまいそうなくらいに俺の身体の中で煮えたぎっている。なのに話せば話すほどどんどん不可解なことが増えていく。遠回りしてしか聞けないものだと覚悟はしていたけれど、思いの外長い道のりになりそうだ。


 それでも彼女自身が上手く話せないというのならやはり俺は待つしか無い。いくらもどかしかろうが、凪沙のことを伝えられるのは彼女ただ一人だけしかいないのだから。

 気持ちを落ち着けるように深呼吸をしてから、努めて明るい声を心がけて問いかける。


「そういえば、凪沙の言っていたやりたいことってなに?」


「そうだった」


 顔を上げた凪沙はすでにいつものような感情の見えづらい表情に戻っていた。


「今から映画を見に行きましょう」


「映画を見に?」


「うん」


「分かった」


 それがやりたいことなの? そう思ってしまった。

 映画を見に行きたいというのは全く構わないし、それが単にやりたいことなのだと言われれば納得できる。放課後、学校帰りに友人と映画を見ていくというのは高校生らしいことではあるから。


 ただ自殺に関係しているやりたいこと、という条件で考えた時には、映画を見るという行為は的外れな気がしてしまう。それとも、死ぬ前にどうしても見たい映画があって、それを見なければ未練が残るとでも言いたいのだろうか。


 そう思って「何を見るの?」と聞いてみた。

 しかし凪沙は首を横に振って「特に決めていないの」見つめてくるだけだった。


「史仁君は何か今、見たいものある?」


「俺も特に考えていなかったな。まさか映画に行くことになるとは思わなかったから」


「そう。なら電車の中で考えましょう」


「そうだね」


 近場の映画館までは学校の最寄り駅から電車で十五分ほどかかる。降りた駅がそのままビルになっていて八階から一二階に映画館があった。映画自体あまり行かない俺はそこの映画館も一回か二回しか行ったことがない。このあたりに住んでいたのは高校までだったこともあり、もう十数年前振りに行くことになる。


 駅の改札を通ってホームに出ると、程なくして電車が滑り込んできた。降車する客と入れ違いに乗った車両はまだまだ空席が目立ち二人並んで座ることができた。どちらともなくスマホで上映スケジュールを確認する。


「凪沙は好きなジャンルある?」


「ないわね」


「なら苦手なジャンルは?」


「私はホラーと、あとは愛を語るような話は嫌いね」


「そっか。ちなみにどうして愛がテーマの話が嫌いか聞いていい?」


「見ていると気分が悪くなるの」


「そっか、ならそのあたりは避けないとな」


 どうして、と問いを重ねたかったけれど、言葉から拒むような圧を感じてやめておいた。


「史仁君は苦手なジャンルはあるの?」


「俺は特には無いかな」


「そう」


 短く交わしてそれぞれ探す作業に戻った。

 直近の時間でやっていて二人分の席がまだまだ空いていて、ホラーでも愛がテーマでもない話。


 探しているうちに一つの作品が目に入った。

 タイトルは『瓦礫の海に浮かぶ月』というアニメ映画。

 薄らと記憶の片隅にある程度のタイトルだったけれど、監督の古山絵空ふるやまえそらはとても人気で、以前時空を超えて繰り広げられる恋愛アニメ映画で売り上げ百億超えを達成していた。その監督の映画なら大きく外れることはないだろう。

 瓦礫の海に浮かぶ月の内容を見てみると、殺し屋として生きる女子高生と護衛も務める教師が主役の恋愛映画だった。


 これなら恋愛は出てきても、語るまで愛を説くような事は無いだろう。レビューを見てみても多数のコメント付の評価がありながら星四を超えていて人気もある。上演時間も十八時四十分からとそんなに待つ必要はなく、条件は良さそうだ。

 スマホを見せながら聞いてみる。


「これとかどう? 古山絵空が監督だから多分面白いだろうし。恋愛系は大丈夫そう?」


「えぇ、大丈夫だと思う。史仁君が言うなら私もそれでいいわ」


「そっか。ならこれにしよう」


 こくりと頷いた凪沙はスマホをしまって反対側の窓の外を眺め始めた。

 その横顔を見ながらさっき浮かんだ疑問を思い出す。

 どうして凪沙は愛がテーマの話を見ると気分が悪くなるのだろう。そんなに愛が嫌いなのだろうか。


 でも、それなら杜子春をお気に入りだと言った理由が分からない。杜子春はそれこそ愛がテーマの話じゃないか……と思ったけど、凪沙の解釈には愛が出てこないんだった。ならそこは矛盾していない。ただ、杜子春に愛はないというその解釈に至ったのは果たして偶然なのだろうか。


 そして、愛が嫌いだとしてその理由は一体なぜだろう。

 単純に考えるなら、愛を与えられずに生きてきたからだと考えたくなる。そしてそれが自殺する要因になっている。安直かもしれないけれど、そう結びついていくのが自然に思えた。


 そうだとしても疑問はまだまだ残っている。

 凪沙と話をすることが無駄になるという発言と、人と話す時に人形になるという意味。それは愛というものでは説明できない気がする。それともまた俺の想像もつかないようなつながり方をしているのだろうか。


 考えても分からない謎にまたもぶつかって思考はその場で足踏みを繰り返す。

 電車が駅に着いてもずっと、その足踏みは続いた。




『瓦礫の海に浮かぶ月』を見るにあたってポップコーンなどの食べ物はやめてドリンクだけ買ってシアターに入った。そして百三十分でクレジットまで見終えた今、俺たちは映画館の下の階にあるカフェに来ている。そこも凪沙が行きたいと言って来たところだった。


「気分は悪くならなかった?」


 聞いてみると目の前でコーヒーにスティックの砂糖一本分入れてかき混ぜる凪沙は「えぇ」と小さく頷いた。


「気を遣わせてごめんなさい」


「ううん、せっかく来たのに凪沙が嫌な思いするのはダメだからさ。大丈夫ならよかった」


 恋愛映画で以上、どうしても主役二人が惹かれ合うシーンは出てきた。凪沙の言う「愛を語る」がどの程度の事を言うのか分からず心配だったけれど今回は大丈夫だったようだ。


「凪沙は甘い方が好きなの?」


「どうして?」


「砂糖、たくさん入れているから」


 凪沙は一口つけたコーヒーに、もう一本砂糖のスティックを投入してマドラーでかき混ぜていた。


「別に甘いものが好きって言うわけじゃないわ。ただ苦すぎるコーヒーが嫌いなだけ」


「そうなんだ」


 無表情で砂糖を大量に入れる姿がちょっと面白かった。高身長とクールな容姿から、苦いものが苦手というイメージがなかった。舌は案外子供なのかもしれない。


「そういえば凪沙は映画、つまらなかった?」


 肝心なことを聞いてみる。

『瓦礫の海に浮かぶ月』は人物背景共に絵がとても綺麗で、アクションシーンも派手ではないながら丁寧に描かれていて見応えがあった。


 殺しだけをして生きてきた女子高生の殺し屋、茅峰梓かやみねあずさは同一市内での要人六人の暗殺指令のためにその隣町に移り住み、そこにある高校に転校した。昼は女子高生、夜は秘密裏に動く殺し屋として生きていた彼女は周りと上手く馴染むことが出来ずに孤立してしまう。


 見かねた彼女の担任となった渡良瀬迅わたらせじんは面倒見の良さから彼女の話し相手になった。実は迅もまた裏の世界に身を落としているボディーガードだった。そんな彼もまさか梓が、自分の護衛対象となる要人達を次々と狙う殺し屋とは知らなかった。


 そして始まった暗殺計画。三度の夜、梓と命のやりとりを交わすうちに迅は彼女の正体に気付いてしまう。

 四人目の暗殺決行日、迅は暗殺を許しながらも逃走を図った梓を捉える。そこで自ら正体を明かして暗殺をやめるよう説得するも梓は聞かず、その場で二人は言い争いを始めてしまう。その動きを不審に思った迅の仲間は彼に梓引き渡すように言うも、迅は悩んだ末、命令に背き追われる身となり、梓を連れて逃亡生活を始めることとなる。


 その生活の中で梓は殺し以外の事も学びながら人として成長し、迅もまたそんな彼女を愛おしいと思うようになっていく。そうして惹かれ合っていく二人だったがそんな生活は長くは続かなかった。


 やがて裏切り者認定された二人の居場所を突き止めた殺し集団との戦いの果てに、彼らの放った爆弾に巻き込まれた梓と迅は完全に消息を失う。最後に画面に映ったのは梓が愛用していた二丁拳銃と、迅が腰に下げていた一振りの日本刀がボロボロになって寄り添う絵だった。二人はそのまま死んだのか、それとも逃げ延びたのかは受け手側に委ねられた。


 驚くような意外性はないながらテンポ良く進んでいくストーリーは世間知らずの梓の笑いを誘うシーンと息が詰まる戦闘シーンの緩急も上手く、綺麗にまとまっていて見やすいという印象だった。


 ただ、隣で見ていた凪沙はどのシーンにも特に反応はしていなかった。そればかりか、ちょっと寝そうになっていた。というか多分寝ていた。

 だから楽しんでいるのかどうかずっと気になっていたのだ。


「あまり面白いとは思わなかったわね」


 バッサリと言ってのけた。ほぼほぼ予想通りの感想にも申し訳なさが湧いてくる。

「寝てたくらいだもんね。ごめん、俺が選び間違えた」


「いえ、私もこれでいいと思ったから。それに寝そうになったのは映画がつまらないからじゃなくて、椅子がふかふかしていたから。寝てはいないわ」


「椅子がふかふかしていたから」


「……悪い?」


「悪くはないけれど」


 なんか、やっぱちょっと子供っぽい。いつも教室では背筋を伸ばして座っているから、椅子が原因で寝るなんて思いもしなかった。彼女のイメージがまた一つ崩れた。

 凪沙は甘さに満足したらしいコーヒーを啜ってから言った。


「あと一つだけ言っておくと、私にとっては映画の内容よりも今こうして史仁君と話していることの方が重要なの。こういうの初めてだから。だから何も気にしないで」


「そうなんだ」


 それはそれでフォローされている気にはならない。


 なら何のための映画だったのだろうとなってしまう。話すだけでいいなら最初からカフェに入れば良かったはずだ。なのに、その前に映画を見るという時間を入れた理由はなんなのだろうか。それも見るものも直前に決めるくらい適当な予定で。


「史仁君はどうだった?」


「俺は結構楽しめたよ。人気なだけあるなって思えた」


「そう、それならよかった」


「ちなみに凪沙はどこが気に入らなかったの?」


「迅が梓を説得するシーン。そこが私は嫌いだったの」


「戦った後、正体を明かしたところの?」


「そう。迅は勝手すぎるのよ」


「確かにいきなり自分の名前出して梓を止めようようとするのは強引というか、ちょっと無理があったかもね」


 凪沙は「そうじゃないの」と首を横に振った。


「梓のこと、何も分かっていないのに自分の考えを押しつけようとするのは最低よ。殺す以外の事を知らない梓に殺すのをやめろ、なんていうのはほとんど死ねと言っているようなものじゃない」


「どうして?」


「殺す以外の生き方を知らなかった梓は殺すことが生きることになっていたわよね。だから何も差し出さないで殺しをやめろと言うことは、生きる術も方法も失わせるのと同じこと、人格否定と言ってもいい。なのに『君みたいな女の子に人を殺して欲しくない』なんて感情だけで止めようとするのは実質死ねと言うのと同じよ」


「……言われてみればそうかも」


 杜子春もそうだったように凪沙の着眼点は暗い方に引っ張られやすいみたいだ。特に死ぬ、という方向性に強く。


「けど逃亡生活を始めてからは迅も梓のことをちゃんと理解して接しているんだから結果としては良かったんじゃないかなって俺は思う。きっと梓もそれで変われたんだろうし」


「それでも」


 凪沙は揺れ動くコーヒーの表面に瞳を映して言った。


「梓が生き方を否定をされた事実は変わらないわ、例えそこに悪意はなくてもね。私はそれが気に食わない」


「……」


 言葉の中に生々しい冷たさを感じて言葉に詰まった。一瞬映画の話ではなくて現実の話をしているんじゃないかと勘違いしてしまうくらいだった。いつも通りあまり感情の映らない彼女の瞳からはその真意は汲み取れない。


 何かを伝えるように言われた気がしたからそう感じたのか、それとも何の意図もなく言っただけで俺が勝手に勘違いしているだけなのか。凪沙の口と目は語らない。軽率にどちらかだと決めてはいけないと感じた。

 できてしまった底冷えするような沈黙を埋めたくて口を動かす。


「凪沙は最後、二人は生き伸びたと思う?」


「あれだけ派手な爆発だったから死んだんじゃないかしら」


「そっか」


 凪沙らしい変わらぬ口調と、予想通りのバッドエンド思考に安心できた。現実と物語を切り分けられるような声だったから。


「でも」


 ボソッと、凪沙は付け加えた。


「二人には生きていて欲しいって私は思う」


 意外だった。

 杜子春ではとことんまで無慈悲な結末を見た凪沙が今回はハッピーエンドを期待している。それがなにか歪に思えた。どうでもよさそうな、特に何も思っていなさそうな表情をしながら言っているせいかもしれない。


「そうだね、生きていれば綺麗な話だって俺も思う」


 こういう話はきっと優しい結末を連想できるようになっている。少なくとも俺はそう思う。

 けれどそれ以上にさっきの彼女の言葉に引っ張られて俺は凪沙に同調していた。

『梓が生き方を否定をされた事実は変わらないわ、例えそこに悪意はなくてもね』

 そんな言われ方をした梓には、やはり生きていて欲しいと思った。


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