第五話:嫌悪感なんていらない





 マンションの一室、玄関を開けて家に入った。部屋の中は暗く、私含めて誰の声も聞こえない、いつも通りの室内だ。靴を脱いでスリッパに履き替える。目の前にあるドアの向こう側、電気をつけて踏み入れると現れるのは四十畳ほどの無駄に広いリビング。


 入ってすぐの右手には四人がけのダイニングテーブルが、その奥の壁にあるスライドドアの向こう側にはキッチンがある。テーブルの上にははがきサイズの紙が置いてあった。清掃サービスが家に来て仕事をしたことを伝えるための置き手紙だ。


 部屋の正面左手奥の壁には大型テレビが壁に掛けられていて周りには多種多様なスピーカーが設置され、それの前には四人がけのソファが置いてある。ソファを挟んでテレビとは反対側の壁からは一面ガラス窓のインナーテラスが設けられている。ただしそこで何かをした記憶はない。


 広い上にあまり家具を置いていない事もあって余計にその広さが際立って感じられる。

 そんな部屋であるから、一人で暮らす私は当然のように持て余していた。もちろん一人暮らしが前提でこの部屋に住んでいるわけではない。この部屋を購入した人達がほとんど家にいないからこうなっているだけだ。


 私を産んだ人は人気女優で、ずっと撮影に追われて家を空けている。日本だけではなく世界にも飛び回っているようで、今年になって家で姿を見かけたのは二回程度だった。どちらも彼女の部屋で寝ていたため交わした言葉は一言二言程度しかない。


 その夫と呼ばれる人もまた、家には帰ってこない。元体操競技の日本代表でオリンピック金メダリストの彼は去年からずっとカナダでコーチをしていた。その前からも他国でのコーチを引き受けていたためもう何年も顔を見ていない。


 関係上は家族でありながら、そうだと感じたことは一度も無い。二人の肉声よりも彼らからのRINEの通知音の方が多く聞いている。私にとっての両親と呼ばれる二人の声は無機質な機械音かマナーモード時のバイブ音だった。きっと二人も私の声を忘れているだろう。


 その二人が購入したこの部屋は酷く静かで、普通の家庭にあるらしい温かみがない。生まれてからずっと住んでいるこの家が自分の居場所だと言えるほどの自信が私にはなかった。たまたま用意されていただけの住めるだけの場所、それ以上の認識はどうしてもできなかった。


 二人が私に与えたものはそんな冷たいだけの家と金、そしてこの身体だった。

 入月の娘ともてはやされる上辺の身体と、気にされることのない中身の心。十六年の人生を過ごすうちに二つの間には膜が張っていた。最初は蜘蛛の巣のように薄く、なんでも無いような膜でも、気が付けば反対側を見るのも難しいくらい分厚くなっていて、いつしか心は誰の目にも触れられることはなくなっていた。反対にきっと私も世界を上手く見ることが出来なくなっている。

 そんな風になった自分と、自分を産んだ二人が私は嫌いだった。


 一度リビングを出て自分の部屋に鞄を置いて手を洗い再び戻ってきてソファに腰掛けた。落ち着かない思いを忘れるため息を吐く。

 慣れてしまったこの空間に普段は寂しさを感じないはずなのに、今日は話をしすぎたせいかいつもより少しだけ静かに感じてしまう。

 目を閉じてソファに背中を預ける。


 入野史仁。

 始業式の朝、目が合ってから彼のことが忘れられない。

「君は何なの?」という問いと共に向けられた彼の追いすがってくるような視線に思わず私は立ち止まっていた。


 彼の視線はしばらく何も透過させなくなっていた膜を通り抜けて私の心を捉えようとしていた。いや、確かにその奥にある一端を垣間見られた気がした。

 その瞬間、恐怖と共にジンワリとした滲むような温かさが胸に広がった。怖いはずなのに妙に心地良い、そんな不思議な感覚が私の中に満ちた。そんなのは初めてだった。


 そして今日、彼は私を知りたいと言った。もうすぐ自殺するつもりだと伝えたにもかかわらず、その上で私という存在を知りたいと言ってくれた。まるで私の事を分かっているかのように動揺の一つも見せず、真っ直ぐ私を見つめてそう言っていた。


 ただ浮かべる笑顔はどこかぎこちなくて何かを隠しているようにも見えた。その意図は分からないし、どれだけ信じて良いのか私には分からない。それでも私の表面しか見てこなかった人達の言葉よりはよっぽど信じられる気がした。


 そしてそのせいで思ってしまった。

 彼なら私を理解して受け入れてくれるのではないかと。そしてそうなったなら私はこれからも生きていてもいいのではないかと。


「史仁君」


 その名前を呼ぶ度に胸が少し熱くなる。

 彼はきっと私の希望になる。私が生きても良いと思える可能性を残した、とても頼りないけど最後の希望に。


 私はほとんど反射的にそれに手を伸ばしてしまった。彼と今日話をしたことで、その希望に縋って、彼を利用して、生きようと期待してしまっている。

 そんな砂糖一粒程度の甘い思いのすぐ近くには、簡単にそれを溶け消えさせられる現実が広がっている。それでももう、自殺の覚悟がわずかでも揺らいでしまった今、引き返したくはなくなっていた。

 迷いに混乱する思考を落ち着かせるように呟く。


「私は、嫌悪感」


 それが私だと知ったら、彼はどうするだろうか。嫌い、嫌われるだけの嫌悪感という存在を受け入れてもらうことなんて出来るのだろうか。

 知ってほしい気持ちと知られたくない気持ちがせめぎ合う。

 もし受け入れられなければ私はこのまま死ぬだけ。それだけなのに、わずかにも拒否感が生まれてしまった。


 どうして今になって私の前に現れたのだろう。改めて名前を聞くまで名字しか思い出せない程度の関係だった彼が、どうして私を知ろうとしているのだろう。

 なんでもっと早く声をかけてくれなかったの?

 悪態をつきそうになって、口をキツく結ぶ。そんな八つ当たりをしようとした自分がやっぱり嫌いだ。


 私は嫌悪感。嫌悪感。嫌悪感、嫌悪感。

 胸の中で何度も何度も繰り返す。

 回数を重ねる度に心は冷えて落ち着いていく。

 いつもならそれで何も感じなくなれていた。

 それでも今日は、心の奥底に点いた灯火が消せなかった。


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