第四話:優しい話なんていらない




「今日もここ、いい?」


 放課後、いつも通り図書室の窓際席にいる入月に声をかけた。

 俺を一瞥した入月は「えぇ」と小さく頷いて読んでいた本に視線を戻した。

 俺はまた正面に座って、今日は芥川龍之介の短編集を鞄から取り出して話しかけた。


「杜子春、読んでみたよ」


「そう」


「俺はとても優しい、いい話だと思った。少なくとも無慈悲さはどこにも感じられなかった」


 そう言うと、入月は顔を上げて見つめてきた。


「素直なのね」


「頭が悪くて読み取れていないだけかもしれない」


「そんなことないわ。きっとそれでいいんだから」


「ならどうして入月は杜子春を無慈悲だと言ったんだ?」


 入月は瞳の奥をのぞき込んでくるみたいにじっと俺を見ていた。

 やがて深く低く、ため息を吐いて本を閉じた。


「答える前に私にも一つ聞かせて」


「いいよ」


「どうして私につきまとうの?」


「えっ?」


 怒気のない落ち着いた声だった。

 その真っ直ぐな視線に射貫かれて俺は息をのんでいた。


「そんなつもりないよ。入月さんに教えてもらって杜子春を読んだから今日はその感想を言いに来ただけ。金曜日はたまたま見かけたから声をかけてみただけだし」


「誤魔化さなくてもいいわ。金曜日、あまり図書室に来ないって言っていたけど、後期からはずっと来ているはずよね?」


「……バレてたのか」


 ため息の中に「やっぱり」と聞こえた。


「もしかして鎌かけられた?」


「いいえ、いたのは気付いていたから。入野君が私を見ていたように私も入野君を見ていただけ」


「深淵みたいだな」


「面白いこと言うのね」


 そう呟く入月はつまらなさそうだった。


「それで、私に何か用なの?」


 最短距離に俺を捉える綺麗な瞳に言葉につまった。

 もう誤魔化せない、か。

 苦笑して、諦めを息と共に吐き出した。

 そして入月を見つめ返す。できるだけ彼女と同じくらい真っ直ぐに。


「ただ入月の事が知りたいだけだよ。入月凪沙っていう女の子とのことを」


「知ってどうするの?」


「別にどうもしない。ただ、個人的に知りたいだけ」


「なら、どうして知りたいの?」


「それは……君が何か大きな不満を持っているから。たぶんこの世界に」


 少しためらうようになりながら考えた答えを紡ぎ出した。流石に『君が自殺をするから』とは言えなかった。『俺が自殺するためだよ』とも言えなかった。

 代わりの返答に入月は少し目を見張って「どんな?」と口元を緩めながら首をかしげて見せた。


「それが分からないから知りたいんだ」


「分からないのに言ったの?」


「分からないから言ったんだ」


「……面白いのね、入野君は」


 今度は薄く笑っていた。


「いいわ。少しだけ話しましょう、私のことも含めて。その代わり場所は変えさせてもらうけど、それでよければ」


「こっちこそいいの?」


「えぇ」


 頷いた入月は本を鞄に入れて立ち上がった。

 願ったり叶ったりの状況だからこそ、それでいいのかと思ってしまう。どうやって入月に近づこうかと考えていたというのに、むしろ相手から俺の方に歩み寄ろうとしている。


 それが何かの罠のようにすら思えてしまうくらい都合よく物事が進んでいる。本当に着いていってもいいのだろうか、そんなことさえ思ってしまう。

 逡巡して座ったまま見つめていると、入月が見返してきた。


「行かないのかしら?」


「ごめん、すぐ行くよ」


 俺も頷いて立ち上がった。

 考えすぎてこの機会を逃す訳にもいかない。罠だったとしてその意味が分からないし、引っかかったところで別に失うものがあるわけでもない。なら行くしかないだろう。


 静かに歩き出した入月に続いて図書室を出て、並んで廊下を進む。

 並んでみると入月凪沙は背が高い事が分かった。男子の平均より少し上くらいの俺との差は五センチ程度しかないように感じる。

 すぐ横を歩く凜とした表情を見ていると、どうかした、と聞かれた。取り繕うようにふと思ったことを口にする。


「いや、そういえばさっき入月は俺のことを見てるって言ったけどどうしてかなって」


「それは少しだけ入野君には期待しているから」


「期待?」


「そう。あなたには見えているものがある」


 見透かしてくるように目を細めた入月は前を向き直した。

 その一瞬向けられた笑みに少しだけゾクッとした。本当に全て、考えていることが知られてしまったような気がした。





 入月に連れられて来たのは展望台だった。

 もちろん学校の施設ではなく、電車で三十分ほどにある誰でも入れる公共の展望台だ。地上百十メートルの高さで入場は無料。小遣い制の学生の財布にはありがたいなんて気にしてしまった自分がいた。時間の問題なのか常にそうなのか利用客は他に四組ほどだけだった。


 その最上階はエレベーターを中心にドーナツ状に広がっている。四方全面ガラス張りとなっていて三百六十度見渡せる。そのせいなのかぼんやりとした熱がこもって少し暑かった。

 どこを見ても眼下には街が広がっていて、方角によってその先に山があるのか電波塔があるのか街が続くのか、それとも海につながっているのかが変わる。


 夕刻に入った今は刺さるような西日が眩しい。その光に照らされた西側は奥の奥まで街の景色が伸びていた。

 入月はその西日に向かって歩くように端まで歩き銀色の手すりを掴んで身を乗り出した。

 その横に並んでボーッと街を眺める。

 ポツリと感情の薄い声で入月が呟いた。


「ここから飛び降りたら楽に死ねるかしら」


「飛び降りはやめておくほうが良いと思うよ」


「どうして?」


「人は死にそうになると脳が覚醒して五感を鋭くさせるらしい。中でも視界はスローモーションになるみたいなんだ。陥った危機から生き延びるための情報をできるだけ多く見つけるためにね。だから落下時間よりももっと長い間落ちている感覚に襲われるようになる。となると死ぬにしても楽とは言えなくなるんじゃないかと思う」


 一応自殺する前、その方法についていくらか調べてはいた。その時に飛び降りに関して書かれていたことだ。実際本当にそうなるのかは分からないけれど飛び降りは選択肢から外された。


 結局調べることも、自殺の方法から入月の自殺の仕方を探り当てることに変わっていったためその知識も無駄になってしまったけれど、まさかここで役に立つとは思わなかった。いや、役に立っているとは言えないか。

 そんな俺の説明に、入月は小首を傾げてまじまじと見つめてきた。


「もしかして入野君って飛び降り経験者?」


「だったらここにはいないはずだけど」


 入月は「それもそうね」と淡々と言って聞いてきた。


「なら私がここから突き落としてって頼んだら、入野君はそうしてくれる?」


「そう、だね。入月が望むなら。ただしその前に聞きたいことを全部聞いてからにするけど」


 なにがどうつながって「なら」で話が進められたか分からないながら答えると、珍しく少し目を見開いて驚いたような顔をした。

 いきなりそんなこと聞かれた俺も似たような顔になっているかもしれない。


 ただ、すでに死ぬことは頭にありその方法は模索中らしいことは分かった。この時からすでに彼女は自殺に導かれていて死に向かうしかなくなっていることに安心した。俺の求める答えはちゃんと彼女の中にあるのだ。

 そんな心境を押し殺していると、入月は少し顔を傾けて聞いてきた。


「入野君って変わってるって言われたことない?」


「一度だけあるな。たった今だけど」


「そう。周りの人の見る目がなさ過ぎるのね、きっと。まぁ人なんてそんなものよね」


 入月は吐き捨てるように言ってごく小さい笑みを浮べた。嘲るような笑みだった。

「いいわ、私ももっと入野君と話がしたくなってきた。でもいくつか条件がある」


「なに?」


 入月は真っ直ぐ俺を見つめてきて言った。


「まず最初に、私は今年の十二月十日、誕生日に自殺するつもりなの。それでも入野君は私の事を、入月凪沙のことを知りたいと思う?」


 とんでもない告白にもかかわらず、この後暇かどうか聞く時くらいさりげない口調だった。一瞬聞き間違いかと思うほど冷静な声だった。それでも答えは決まっていたからすぐに頷けた。


「あぁ、もちろん」


「私が死んだら知ったところで意味なくなるかもしれないのに?」


「そんなことはないよ。入月が死にたいっていうならその理由も含めて全て知りたいんだ。入月凪沙という女の子のことを」


 むしろそれこそが本命だから。

 そこは隠して見つめ返しながら言うと入月はゆっくりと瞬きをした。


「やっぱり入野君は変わっているわね。こんな話をしていても全く驚きもしない」


「驚いた方がよかった?」


「別に驚いて欲しいわけじゃないの。ただ、普通は同級生の自殺願望なんて聞かされたら驚くものだと思っていたから」


 なるほど、それもそうだ。

 死ぬことが前提になっていたせいで普通らしい感覚を忘れていた。

 でもそれを言うならさも当然のように自殺予告をした入月だってまともじゃない。きっと俺たちの間には普通なんて価値観が入る余地はないのだろう。


「でもその方が私も話しやすいから助かるわ」


「そっか。ちなみにどうして自分の誕生日に自殺することにしたの?」


「その方があてつけになるでしょ」


「あてつけ」


「そう」


 何に対するあてつけなんだろうと聞くよりも先に、入月が続きを口にした。


「それより二つ目の条件だけど、これから私はいくらかやりたいことができたの。入野君にはその手伝いをして欲しい」


「それは自殺に関係していること?」


「……そうね、関係しているわ」


「そっか。まあ出来る限りのことはやらせてもらうよ」


 答えると入月は「そう、ありがとう」と薄い表情のまま言った。あまり感謝されている気にはならない。


「ちなみにやりたい事って具体的にはなに?」


「詳細はもう少し考えさせて」


「決まってないの?」


「方向性しか。でも安心して、無茶なことをお願いするつもりはないわ。少なくとも入野君に命をかけろとか、私を殺してとか、そういう犯罪臭のするものではないから」


「分かった。後はある?」


 入月は「そうね」と頷いて続けた。


「これが最後の一つなのだけど、これから私と話す時、私の事は名前で呼んで。入野君のことも名前で呼ぶから」


「いいけど、なんで?」


「名字が嫌いなの。それだけよ。あと申し訳ないのだけど、入野君の名前はなんていったかしら?」


「史仁」


「そう、ありがとう史仁君」


 今度は微笑んでみせた入月だったけれど、それでも瞳の奥はどうにも笑っているようには見えなかった。 

 しばらく見つめていると、笑みを崩した入月が「でも不思議ね」と呟いた。


「なにが?」


「てっきり史仁君は私の事が好きなのだと思っていたの。図書館まで着いてきて隠れて見てきた上に私の事を知りたいだなんて言ったから。でも違うみたい」


「別に嫌いだといった覚えはないよ」


「好きだって言うなら自殺を止めるんじゃないかしら。でもそんなこと、一切しないから」


「どんな意見だろうと尊重するのも好きって形の一つだと俺は思うけど」


「そんな上辺の意見は聞いていないわ。本心はどうなの?」


「そう、だな……」


 観察するような瞳から目をそらす。

 以前、同じように十六歳だった時、俺は入月に恋をしていたと思う。あのクラスに、学校にいた男子生徒なら誰もが通るであろう彼女への一目惚れ。例に漏れず俺もしていた。


 けど十三年も熟成されたその想いは好きという感情からずいぶん変わってしまっている。身勝手な怒りと嫉妬がくすぶって純粋な好きという気持ちは原型を失っている。カビの生えてしまったパンのように元の綺麗な状態には戻らない。


 今彼女を求めているのだって、それは彼女が行き着いた死に共感したいだけなのだ。

 加えて言えば、中身三十の俺が十六、七歳の少女を好きだというのは流石に問題しかない。

 そんな理性と醸成された感情が入月への無垢な好意を否定する。


「俺は好きか嫌いかでいえば入月の事は好きな方だと思う。でもそれはあ

「凪沙」


「えっ?」


 途中で言葉を遮られて顔をしかめてしまう。入月は冷たい声で続けた。


「名前で呼んでって言ったはずよ。もう破る気? 私の名前は知っているはずよね?」


「あぁ、ごめん、慣れていないから」


「そう。次からは気を付けて」


「うん。それで、俺の入づ……凪沙に対する気持ちは好意よりもどちらかというと憎さと苛立ちと、共感の方が強い。だから好きというのは少し違う」


 続けざまに間違えそうになりながら伝えると、凪沙は少しだけ面白そうに聞いてきた。


「私、史仁君の恨みを買うようなことしたかしら?」


「していないよ。俺が勝手に押し売っただけ。とても安っぽいやつをね」


「酷いのね、史仁君は」


「惨めなだけだよ」


「なにそれ」と、凪沙の口の中で転がしたような小さな囁きは愉快げな微笑の中に消えた。

 俺の凪沙への感情はどう取り繕ったって逆恨みでしかないのだから惨めとしか言いようがない。しかも過去に戻ってきた理由をそこに結びつけているのだからなおさら救いようがない。

 自覚しながらもその考えは変えられなかった。

 手すりにもたれかかって景色に目を向けながら凪沙が言った。


「それでも好きじゃないっていうのはありがたいわ」


「どうして?」


「その方が信用できるからよ」


「そう?」


「えぇ、少なくとも初めての会話で告白してくる人たちよりはね」


「一目惚れは仕方ないだろ」


「私はそれが嫌いなの」


「それは大変そうだ」


 確かに、凪沙は告白されるなら基本的にはよく知られる前になるだろう。少なくともクラスメイトになった男子は日を追う毎に告白しようとする気力を失っていっているようだった。どう話しかけても短い一言二言であしらわれるのを繰り返せばそうなっていくのは当たり前だった。だからこそ高嶺の花という存在なのだ。


 それを思えば今普通に会話できているのは奇跡といってもいいだろう。それだけ凪沙は「やりたいこと」をやるための人員を必要としていたのかもしれない。丁度良いタイミングで話しかけられてよかった。

 ふと思い出したように凪沙が言った。


「そういえば今日は何の話をしていたんだったっけ」


「凪沙が自殺するっていう話だろ?」


「違うその前。図書室でのことよ」


「あぁ。杜子春の解釈の話だった。悲惨な話だっていう」


「そうだったわね」


 どうでもよさそうに長く息を吐いた凪沙は街を眺めたまま、何から話そうかしら、と呟いた。そして眼下を行き交う人や車に蟻でも見るような目を向けた。


「この景色の中に人はいると思う?」


「もちろん街が広がっているんだから誰かは絶対にいるだろ」


 関係性の見えない話に首を捻りながらも答えた。

 頷いた凪沙は表情を変えないまま、同じ調子で聞いてきた。


「なら、洛陽には人がいたと思う?」


「……いなかったらあの話は成り立っていないだろ」


 杜子春が人に愛想を尽かす事で鉄冠師に修行を請うのだからいることが前提だ。そしてそこで学んだ愛を人々に伝えていこうと思い直して終わる以上、人はいるに決まっている。いくら俺の読解力が低かったとしてもそこは間違えようがないはずだ。

 でも凪沙は首を横に振った。


「いなかったのよ洛陽には。いなかったから杜子春はあんな目に遭わされて、最後にまた試されたの」


「……どういうこと?」


 ガラス張りの景色に映る彼女はいつも通り無表情だったけれど、いつもよりも少し冷たく見えた。


「史仁君は最後に杜子春がなんて言ったか覚えている?」


「人間らしい正直な暮らしをするつもりです、だったはずだけど」


「その人間らしい正直な暮らしってどういうこと?」


「自分から相手に愛を向けることで幸せを共有して生きていくことじゃないか」


 少なくともあの話から読み取れる杜子春の行き着いた答えはそのはずだ。

 しかし凪沙は意地の悪そうな冷笑を浮かべて問いかけてくる。


「なら、どうして誰も貧乏になっていく杜子春に手を差し伸べなかったの?」


「杜子春が金ばかりに頼って誰にも愛を向けていなかったからだよね」


「それは杜子春を中心に見ているからそう思うだけよ」


「えっ……?」


「もし洛陽にいるのが人間だったとしたら、誰かは一人くらいは落ちぶれていく杜子春に、杜子春よりも先に愛を与えて助けているはずだもの。だってそれが人間らしいんでしょ? なのになんで誰もしなかったの? それは人なんてそこにはいなかったから。違う?」


「あっ……」


 反論できなかった。「確かに違和感があるかもしれない」程度の事から凪沙は明確な答えを割り当てていた。突拍子もないのにその視点が正当性を持っているように思えてしまった。前提が揺るがされたことで自分の中にあった杜子春が崩れ始めた。

 言葉が出ない俺が面白いのか、凪沙は口元だけ緩めたまま続ける。


「そもそも史仁君はどうして杜子春が優しい、いい話だと思ったの?」


「……それは試練を乗り越えて愛を知った杜子春が救われる話だから」


「本当に史仁君は素直なのね」


 乾いた声で凪沙は頷いた。

 この後に否定が来るのは分かっていた。さっきの凪沙の話を否定でなかった時点で俺の中の優しい杜子春は形を崩してしまったのだから。

 予想通り、でも、と薄紅色の小さな唇が動く。


「杜子春は救われないわ、そこには愛は存在していないから。彼は鉄冠師を信じていたと思う?」


「うん」


「となると最後に与えられた家には行くことになるわよね?」


「きっと、そうなる」


「でもおかしいと思わない? 物質的な幸せはいずれは消えてしまう取るに足らないもので、愛こそが大切なんだって伝えたくせに、どうして人々が多く集まる洛陽から少し離れた場所にある物質的な家をあげたの?」


「それは……」


 答えられない。優しい終わり方という前提が崩れた杜子春を、俺は知らないから。


「あれこそが最後の罠だからよ。杜子春を苦しめるための最後の罠」


 感情の希薄な声で、それでも歌うように凪沙は続ける。


「行ったら杜子春は死ぬ。愛なんて幻想にそそのかされて向かった家で、地獄の中で殺される代わりにあそこで殺されるのよ、悪魔みたいな鉄冠師に」


「悪魔みたい……?」


「そう。あの仙人は悪魔よ。杜子春が金持ちから貧乏に落ちぶれたのは何回だった?」


「二か──」


「三回よ。二回じゃない」


 遮った言葉に「でも」と声を絞り出す。きっとこれも否定されるんだろうとは分かっていながらも無意味な反論を続けた。


「黄金を手にしたのは二回だよ。そしてそれを無駄に使って貧乏になったんだからやっぱり二回だ」


「そう。でも違うでしょ。杜子春は元々金持ちの家に生まれていて、財産を使い潰して貧乏になった。まずそこが一回目」


 言われてみればそうだった。その落差があったからこそ余計に貧困の苦しさに辛さを感じて自殺しようと思ったのかもしれない。


「その経験と苦しみを知っていたのに、どうして杜子春はその後に一回ならまだしも二回も同じ事を繰り返したのかしらね?」


「分からない……」


「鉄冠師がその記憶と苦しみを忘れさせていたとしたら?」


 おぞましいことを問いかけてくる彼女の瞳はただただ綺麗だった。


「……そんな記述はなかったはずだよ」


「うん、直接的に奪いました、なんて書いていなかったわね」


「ならどうして凪沙はそう思うの?」


「影を掘り起こさせたから」


「影を……?」


 訳が分からなかった。記憶や感情の消失に影が関係しているだなんて思えない。

 凪沙は自分の影を振り返って、そこに手を伸ばして続ける。


「影は人の後ろ暗いことを示すものでもある。そんな後ろ暗いことの頭と胸の部分を、記憶と感情を司る部分を自分の手で掘り起こさせることで黄金に変え、そして使わせて失わせたのよ。するとどうなると思う?」


「……破産するような金の使い方の記憶と、実際にそうなった後の苦しさが金と共に消えてなくなるって言いたいの?」


 問われてようやく思考が凪沙に追いついた。自分の中の杜子春が完全に形を変えて新しい色を見せた。そこには一瞬たりとも見えなかった杜子春が完成していた。

 凪沙は満足そうに目を細めて言った。


「だから杜子春は自分の記憶と感情の使い方を間違えて三度貧乏になった。仕組まれていたのよ、そうなることが。でもそんなこと知らない杜子春は自分のことを助けてくれたと思い込んで鉄冠師を信頼してしまった。最後の最後に罠を仕掛けられるとも知らずにね」


「だから、無慈悲なのか……」


「そう。杜子春は無慈悲な、愛なんて存在しない話なの。分かった?」


 返す言葉もなく首を縦に振ると「それはよかった」と凪沙は微笑んだ。相変わらず目だけ笑っていないせいかその綺麗なはずの笑みはどこか歪んで見える。

 あまりの衝撃に頭が思い。

 とても同じ話を読んだとは思えなかった。あんなに童話みたいに優しかった話が、今では人のいない世界で鉄冠師という悪魔に弄ばれた一人の人間の哀れな話になっている。


 悪意に満ちたような解釈ながら、それぞれの要素が綺麗にはまって間違っているとも言い切れない。同じピースを使って全く別の絵が表れたジグソーパズルを眺めているような奇妙な感覚になんとも言えない嫌悪感があった。

 だからなのか、やっと凪沙の言ったことが理解できたのに全くスッキリすることはなかった。


 優しい話だと思っていた杜子春が実はダークストーリーだったのだと言われたことは正直どうでもいい。そこまで杜子春に思い入れはないし、解釈に誇りを持っていたわけではないのだから。


 それでもどうしようもない引っかかりがあった。苺のショートケーキを三等分する問題で側面から横に二本切り込みを入れるのが答えだと言われた時のような、問題的には正しくても感情的には受け入れがたいしこりがある。

 一体これは何なのだろう。

 得も言われぬ不信感と対峙していると、凪沙がエレベーターへと歩き出した。


「今日はそろそろ帰りましょう」


「えっ、もう? 他にも聞きたいことがあるんだけど」


 去ろうとしていた背中に声をかけると、彼女は振り返った。


「私は史仁君の話し相手になることは出来る。でも勘違いしないで欲しいのは、私は根本的に他人のことを信じていないの」


 西日に照らされた顔は相変わらず感情は見えづらく、逆に見下しているようにも突き放しているようにも、そしてどこか悲しそうにも見えた。


「だから今私の全てを話しきることはできないわ。それに、先に話してしまったら史仁君が私の手伝いをしてくれなくなってしまうかもしれないもの」


 そんなことはない、と否定しかけて口を閉じた。

 現状、信用されていないのなら俺がいくらここで反論したところで何の意味もない。そもそもこれまで仲が良かったわけではないのだから当たり前だ。今日これだけの話を聞けただけでもよっぽのことだというのは忘れてはいけない。


「だからこれから一緒に話をしたりする時に、史仁君には私の事を知ってもらいたい。その間に、私もできるだけ史仁君を信じられるようになりたいから。それじゃいけない?」


「……いや、それで構わないよ。今日はありがとう、色々話してくれて。嬉しかった」


 俺は頷いて、努めて笑顔を作った。

 知りたいもどかしさはあるけれど、凪沙のペースに合わせるべきだ。


「そう、それならよかった。これからよろしくね、史仁君」


 凪沙も満足そうに頷いて歩みを再開した。

 名前を言い終えて緩んだ凪沙の唇が目に焼き付いて離れなかった。今までの中では一番自然な綻び方だった。


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