第三話:トシシュンなんていらない
「杜子春って読んだことある? 芥川龍之介の」
「トシシュン?」
図書室で話をしてから土日を挟んで月曜日の昼休み、俺は雄斗の席で弁当を食べていた。
広げた弁当のウインナーを箸でつまみながら問いかけると、雄斗は昨日の俺みたいにとぼけた声で復唱した。
そして、
「ト・シシュン? トシ・シュン? トシシュ・ン? アクタガワリュウ・ノスケ?」
発音を確かめるように何度か切り方を変えて呟いた。
「芥川は分かるだろ。とりあえず読んだことないんだな」
「……シュン」
「うるせぇよ」
雄斗は高くか細い声を出して肩をすぼめた。
勝手に凹んでろと言うと、ぶふぉっと吹き出した。
「で、そのトシさんが気落ちしそうな話がなんだって?」
「話としては優しい終わり方だし、トシさんは出てこない」
「あら、そうなの」
雄斗はわざとらしく頬に手を当てて首を捻った。
あの日の帰り、俺は本屋で杜子春が入った芥川龍之介の本を買って家で読んでみた。
入月の理解への一歩として、気に入っているといったものを知りたかったからだ。そうすればあの冷ややかな笑みの意味が分かるかもしれないという狙いもあった。
土日を挟めたこともあり何周かその話に繰り返し目を通した。死に向かう入月の進んでいる道をたどるように、十五ページ程度に綴られた文字を目で追った。何を思いながらこれを読んでいたのだろう、この話のどこに無慈悲さを感じたのだろうと考えながら読んでみた。
しかし、結局俺には入月の言った無慈悲さは感じられなかった。感性の問題なのか、それとも無知で気付けていないだけなのか、いい話なんだなという感想以外には俺の中には浮かばなかった。
「俺も人に勧められて読んだんだけど、その人が言ったような感想とは噛み合わなくてちょっと他の人の意見も聞きたいなって思っただけ」
「そりゃ話知らない相手じゃなきゃ聞けないわ。俺は専門外だから他を当たんな。ところでどんな話なんだ、杜子春って」
嘘交じりの説明にも興味を持ってくれたのか、一度食べる手を止めて聞いてきた。
話の変わらない「ところで」を挟んでの問いかけに咀嚼のタイミングがずれてワンテンポ遅れて答える。
「家族愛の話」
「これまた俺たちには馴染みのないテーマだな」
確かに、と笑って話し始める。
「唐の洛陽に住んでいた杜子春は金持ちの家に生まれたけれど、その金を使い果たして貧乏になる」
「おっ、とうとう出たか杜子春。唐だけに」
「上手くないしまだ始まったばっかだろ。で、あまりの生活の苦しさから自殺をも考え始めていたある夕暮れ時に片目が不自由な老人が現れて言った、この夕日の中に立って出来た影のうち頭に当たる部分を夜掘り起こしてみると黄金が埋まっているからやってみろって。それで掘ってみると実際に黄金はあって、杜子春は洛陽一の金持ちになる」
「うわっ羨まし。人生イージーモードすぎるじゃん」
「ところがそう上手くはいかないんだ。出てきた黄金のおかげで金持ちにはなったんだけどそっから馬鹿みたいに贅沢な暮らしを始めた。そのうち金遣いの荒さのせいか有名になって、友人から都中の権力者まで多くの人が集まってきて毎日酒盛りをした。結果、三年程度で貧乏暮らしに戻って、自分の周りにいた人は離れていっていなくなる」
「金の切れ目が縁の切れ目ってやつか」
「そう。でも杜子春はもう一度同じ事を繰り返す」
「えっ? また黄金を掘り返すの?」
ブロッコリーを挟んでいる箸を止めた雄斗に頷く。
「貧乏になったところにまたあの老人が来て同じ事を言ったんだよ。ただし二度目の掘り起こした陰の場所は胸の位置だったけど。それでまた金持ちになって人に囲まれながら豪遊する内に、再度貧乏になった杜子春は気付くんだ」
「老人のRINE聞き忘れてたって?」
「人は薄情だって事にだよ。唐代にスマホはないだろうが」
「どうしてまた? 二度も助けてくれた金蔓がいるのに」
「自分が金持ちになったら近寄ってきて調子のいいことを言うくせに、金が無くなった途端冷たくなるなんていくら何でも薄情だろって」
雄斗は呆れるみたいに唸った。
「うーわ杜子春、自分勝手な奴だな。逆の立場でも同じことしているだろ、これ。そもそも自分のお金って訳でもないし」
「そうかもしれないけど、少なくとも杜子春は薄情だって思ったんだ。そんな杜子春の元にもう一度老人が現れて、また黄金の掘り起こし方を教えてくれようとした」
「うわっ、老人とのエンカ率高すぎっ。杜子春チート使ってんの?」
「でも杜子春は断って、代わりにその老人の弟子にしてくれと頼む。その老人が仙人だと勘付いたから」
いちいちボケを拾うのが面倒くさくなってスルーしたまま続ける。
「本当に仙人だった老人は自分のことを
「いきなり山に連れて行って一人きりで座らせたまま喋るなとかどこのドS? さっきまでの聖人力全開の仙人はどこ行ったんだ……」
西王母のところ、とあまりに下らないことを思い付いてしまい、誤魔化すように一つ咳払いした。
「仙人がいなくなるとすぐに試練が襲いかかってくる。返事をしないと殺すって脅しが聞こえたり、虎とか巨大な蛇が襲いかかってくる幻影を見せられたり、あとは雷に打たれる幻にあったり。全部黙って耐えていたけど、その次に出てきた神将に対しても返事をしなかったことで杜子春は殺される」
「えっ、死ぬの? 杜子春死ぬの?」
「あぁ、死んで魂が地獄に降りていく」
「仙人……。殺しちまうとか、そりゃSの風上にも置けないぜ……」
正確には殺したのは仙人ではなく神将だし、仙人は別にSとは言っていない。
「降りていった先で閻魔大王に焦熱地獄とか極寒地獄とか、いろんな地獄巡りをさせられるけど、その間も杜子春は黙ったままなんだ。まだ修行が続いていると思っていたから」
「もうなんでそこまでして黙ってんだよ。どんだけ仙人になりたいんだよ杜子きゅん……」
「トシキュン言うな。でも、そこまでやっても何も言わない杜子春に業を煮やした閻魔大王は、鬼達に命じて二匹の馬を連れてこさせる。それはただの馬じゃなくて死んだ両親の顔をした痩せた馬だった。鬼達が連れてきた馬を鉄の鞭で打ち始めるとどんどん馬はボロボロになっていく。血まみれになった馬はとうとうその場に倒れて動かなくなって、それを見た杜子春は──」
「母さん!」
「……本当に読んでないんだよな?」
途中で遮った雄斗の言葉に、俺は思わず顔をしかめた。
「今が人生初鑑賞中の原作未読勢だけど?」
「……杜子春も叫ぶんだよ、お母さんって。私たちがどうなってもお前が幸せになれるのならそれだけでいいからこのまま黙っていなさいって母親の声が聞こえたから。金に集まってきた薄情な人間達とは違って自分のことは二の次に杜子春のことを心配してくれた母親の愛に心打たれて、泣きながら馬を抱きしめて叫んだんだ」
「あぁ、それで家族愛ね。で、どうなんの?」
「気付いたら杜子春は元いた洛陽の西門、仙人と出会った場所にいた。そこで仙人から、もしあのまま黙っていたら私は本当にお前を殺していた、改めてこれからどうしたいって聞かれる。対して杜子春は仙人にも大金持ちにもなれなくていいから、これからは人間らしく正直な暮らしをするつもりだと答えた。すると仙人はもう二度と会わないことを告げて、最後に一件の家をあげるとその場所を伝えて去って行く。ちょっと長くなったけどそんな話だよ」
話し終えると雄斗は「はぇぇ」と、感心とも退屈とも取れるような声を息に混ぜて吐き出した。途中に茶々を入れてくるくらいには聞いてくれていたから感心の方なら嬉しい。
しばらく考えるように箸の先を唇に当てながら唸っていた雄斗はなんとも言えない顔で言った。
「なんかまぁ、普通に良かったなぁって話だな。初期装備と所持金ゼロの杜子春が仙人の教訓から人として成長してクリア報酬に家をもらって終わる。うん、分かりやすいハッピーエンドじゃん。童話みたいで」
「だよな。俺もそう思う」
「じゃあ勧めてくれたって人はなんて言ってたんだ?」
「無慈悲な話だって」
「無慈悲?」
雄斗は眉をひそめて黙り込んだ。その三文字に雄斗もピンとは来ないらしい。
自分の解釈が絶対正しいとは言わないけれど、その言葉がどうしても杜子春にはふさわしいとは思えない。この話は無慈悲とは正反対の場所にあるものだろう。
行き場所を失い自殺まで考えていた杜子春が最後に愛情を選びとって幸せになる話のどこに無慈悲なんてものがあるのだろうか。
むしろ選択肢を間違え続けて最後に死ぬことを選んだ俺からずれば幸せな話だとしか思えなかった。現実とは違って、杜子春には遠回しでも助けてくれる存在がいた。
それだけでも十分優しい世界だと思えた。それがない現実の方がまだよっぽど無慈悲だと思えるくらいに。
なのにどうして入月は無慈悲なのだと冷たく笑ったのだろう。
「……もしかして仙人との修行の前までしか読んでないんじゃね?」
雄斗は寄せていた眉の片方をピクリとつり上げた。
本気で言ったわけではないだろう的外れな意見に笑ってしまった。
「そこまでしか読んでいなくてお気に入りとは言わないだろ。それに杜子春って十五ページくらいの短編なんだよ。何度も読んでいたみたいだし、毎回そこまでしか読まないなんて事はないはず」
「そりゃそうか。じゃあ教訓を与えるためだとしても両親の顔をした馬を傷つけさせた閻魔大王に対して無慈悲って言ったとか?」
「かもしれない。そこを気に入った理由にするかな、とは思うけど」
「んー。まぁこればかりは本人に聞いてみないと分からんわな。少なくともその人と俺たちとは脳の構造が違うらしい」
食べ終わった弁当箱を片付けながら言った雄斗に頷き返す。
「そうだな。話に付き合ってくれてありがとう。参考になった」
「いぇいぇ~。俺も本の話なんて新鮮だからたまには良いと思えたよ」
ならよかった。
わざとらしくてからかうような言い方をする時もあるけど、雄斗はつまらなければつまらないと言う。好きなことにしっかり向き合って生きている分、下手に誤魔化すんじゃなくて白か黒かハッキリさせている。
そんな雄斗が少し羨ましかった。好きなことに正直な性格のおかげか三十歳の時の雄斗はゲーム会社で働いていて、結婚もしていた。杜子春なんて知らずにも人として正直に生きていたんだろう。そんな彼とも少しずつ接点を失っていった。話していると自分の惨めさを濃く感じてしまって、連絡するのが億劫になったからだ。
「それよりさ」
脳裏にちらついた顔より幼い表情の雄斗がいきなり右手をピンと上に伸ばした。
「そんな杜子春から愛情を学んだ史仁君に申したいことがございます!」
「なに?」
「今月末発売のゲームのプレゼントを所望します!」
「愛じゃゲームは買えないよ。代わりに杜子春貸すから学び直せ」
「……シュン」
「うるせぇよ」
肩をすぼめた雄斗に突っ込みを入れると、雄斗は笑ってスマホでゲームを始めた。
あぁ、やっぱり羨ましい。こんな風に出来ればどれだけ生きやすかったんだろうか。
考えるのも虚しくなって俺は入月の方を見てみた。
後ろからだから表情は見えないけど、静かに昼休みを過ごす彼女の机の上にはエナジーバーと野菜ジュースのパッケージだけが置かれているのは分かった。それは観察し始めてから一週間、ずっと変わらない寂しい食事風景だった。
そんな殺風景なご飯の方が杜子春よりもよっぽど無慈悲という言葉が似合っている気がした。
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