第二話:会話なんていらない



 最後の授業を終えると、教室内はすぐに賑やかになる。我先にと教室を飛び出して廊下を駆け抜けていくのは運動部の生徒だ。一分でも長く練習がしたいのか、それとも先輩が引退して間もない今、自分たちが最上級生だという自覚と自尊心の両方に胸を躍らせて力が入っているのだろうか。ちなみに帰宅部の雄斗もゲームのためか、そこに混ざって教室から消えている。


 対して文化部の面々と未所属の生徒は取り切れていない板書をノートに写したり、夏休み明けだからか決まって「授業ダルかったー」という言葉から始まる会話に笑みを交わし合うグループが形成されたりとゆっくりと流れる時間に身を置いていた。


 特に委員長兼クラスの中心にしてスクールカーストの頂点にいる花村由美はなむらゆみの周りでは他よりも賑やかな空気が形成されている。ダンス部の現副部長でもある彼女は身長こそあまり高くないものの腕と脚は背の割に細長くスタイルがよく見え、愛嬌の良さもまた拍車をかけて男女問わず人気だった。


 高嶺の花タイプの入月凪沙と誰にでも親しみを持つ会いに行けるアイドル的存在の花村由美。そのどちらかに恋愛諸々の感情を抱く男子は多いが、二人は特定の誰とも付き合ってはいないようだった。


 そんな花村を中心に校内ではケータイの使用禁止の校則はどこへいったのやら、スマホの画面を見せ合ってはSNSに投稿された写真などで盛り上がっているようだ。とはいえバレないように校則を破ることも高校生の特権であり誰もが通る道。実に高校らしい光景だった。


 そんな高校生色の濃い場所から離れた教室の隅、一番前の席に入月凪沙はいる。どの部活にも所属していない彼女は授業後もややノートに何か書き加えた後、一人静かに鞄に教科書を詰め始めた。


 そして同じく未所属の俺はというと、すぐ後ろの席からその様子を眺めている。小さな頭から垂れる黒い髪が動きに合わせてサラサラと揺れていた。絹束のように綺麗でありながら、ヴェールのように俺の視線を妨げているようだった。


 今度こそ死ぬために入月凪沙を理解する。

 そうライフワークを設定してから一週間が経った。


 正直学校に来るのは面倒くさかった。それでもわざわざ通っているのは、一つはいきなり不審な行動を起こして親や教師など誰かからの余計な干渉を受けないようにするためだった。いきなり不登校なんかになったら怪しまれて変な探りを入れられるかもしれない。

 自由だけを求めるよりも多少不自由な方がかえって動きやすくなることもあるということくらいは俺も知っている。それに授業でやったことはもう忘れていることも多く、受ける分にはそこまで退屈ではないのも助かっている。


 そしてもう一つは単純に校内で入月を観察出来るからだ。

 現状俺は凪沙が死にたがっている特別な少女であることしか知らない。だから得られることはわずかだとしても、見られる時間は長い方が断然良い。


 そうやって過ごした一週間、彼女を観察していて分かったことがある。

 入月には少なくとも学内に友達はいない、ということ。記憶の中でもあまり話をしている印象はなかったけれどその通りに、いやそれ以上に彼女が言葉を交わす回数は少なかった。一日の間に朝の何気ない挨拶と放課後の別れの挨拶をしていれば多いほうで、彼女の声を聞けるのは授業中のみと考えた方がいいくらいだった。


 確かにこれなら誰も彼女が死んだ理由を知らなかったのも不思議ではない。

 見ている限りクラスの人間が入月を敬遠しているというよりは、入月の方が周りと距離を置いているように見える。話しかけられた時も「そう」とだけ頷いてあしらっている。


 それは俺にとってはありがたい状況だった。

 誰か仲の良い友達がいるとそこに俺が入って行きづらい。もしいたら入月だけじゃなくそちらの方にも気を裂かなきゃいけなくなる。その存在は厄介なことこの上ない。

 普通の人間ならまだ死んでもいない友人の自殺について話を聞こうとしてくる人間を寄せ付けようとは思わないだろう。もしその友人に警戒されてしまえば入月本人との十分な接触はやりにくくなり、今回も何も分からず終えてしまう可能性が高くなっていた。


 だから入月に友達がいなくて良かった。

 かといって、俺と入月の仲が全く良くないというのも一つ問題だ。

 少なくともあと三ヶ月で理由を聞けるくらいには仲を深めなければならない。その時に仲が良いという表現が出来なくても構わない。何より自分が満足して死ぬために入月凪沙という少女を理解して死ぬ。それだけが重要なのだから。


 考えているうちに、鞄に荷物を入れ終えた入月が動き出した。立ち上がって音を立てずに椅子を最後までピッタリと机の下に入れると静かに教室の前のドアから出て行く。


 少しだけ待ってその後を追う。真っ直ぐに伸びる廊下の先、髪の毛とスカートを揺らめかせながら誰にも合わせる気のない早い足取りで進んでいく。


 おそらく今日も図書館だろう。先週ずっと放課後入月は図書館に直行している。そして閉館時間まで本を読んでいる。

 彼女は決まって窓際に並ぶ四人がけのテーブル席のどこかにいた。一人席はいつも受験生が占領していて空きがないからだろうか。


 入月に遅れて図書館に入ると館内に染みついた本の香りと特有の圧力のある静寂が身を包んだ。耳の奥に突き刺さるような、形もないはずなのに後ろ斜め上から覆ってくるような圧のある静けさを感じながら窓際の席を探す。

 いた。


 やはり窓に横を向くように二席ずつ向かい合った四人がけの席のうち一番奥のテーブル、その窓側に壁の方を向いて座っている。荷物は隣の座席に置けば良いのに自分の脚元に置いている。


 そして教室同様、背もたれにつけない伸びた背筋で身体を支えて本を読み始めた。

 昨日までは離れたところから見ていたけれど、今日はその後ろ姿に歩み寄って「入月」横から声をかけた。

 顔を上げた入月は「あっ」という小さな声と共に少しだけ目を見開いた。


「どうかしたの?」


「ここ、いいかな」


「……いいわ」


「ありがとう」


 警戒するように目を細めた入月に御礼を言って向かいに座った。送られてくる視線は、他にも席があるのにどうして、と言いたげだ。気付かない振りをして愛想笑いを返し、鞄から本を取り出した。


 カバーを掛けたなんでもないライトノベル。高校時代の俺の本棚にはそれくらいしかなく、懐かしさと共に呆れてしまった。空っぽな人間が完成する過程を見せられているような気分だった。もっと多種の本を読む習慣をつけておけば良かったかもしれないと思った。


 今回は読むことが目的ではなくて図書館で入月と行動を共にすることが目的だったので特に選ばず一冊を抜いてきていた。開くとシリーズものの五巻だった。細かいところまでは覚えていないけれど、将来的に九巻目で終わることは覚えている。

 適当なページを開いてしばらく読む振りをしていたところで何か視線を感じて見上げると入月と目が合った。


「どうかした?」


「……入野君がいるの、珍しいから」


「確かにあんまり来ないね」


 入月の方から会話のきっかけを作ってくれたことに感謝しながら答えた。


「ならどうして今日は来たの?」


「なんとなく静かなところに来たかったから、かな」


「……そう」


 下手な嘘だとバレて話す気が削がれたのか、それとも言葉を信じて気を遣おうとしたのか、入月は手元の本に視線を落した。

 つなぎ止めるように聞き返す。


「そういう入月はよく来るの?」


「えぇ、そうね」


「本、好きなんだね」


「別に。早く時間が過ぎてくれるから読んでいるだけよ」


 伏せられた目は無表情のままつまらなさそうに文字を追い続けている。


「ちなみに今は何を読んでいるの?」


「芥川龍之介の短編集」


「へぇ。芥川が好きなんだ」


「別に好きじゃないわ。読みたい話が載っているだけよ」


「分かるかも。好きな曲を歌っているアーティストそのものを好きってわけじゃない、みたいなもんだよね」


「…………」


「……その中では何の話がお気に入りなの?」


 生まれてしまった沈黙をなんとかしたくて口早に問い直すと、入月は逡巡することなく、でも気のなさそうな透明な声で「杜子春」と答えた。

 思わず俺は顔をしかめてしまった。


「と、トシシュン?」


「もしかして知らないの?」


「うん、ごめん」


 芥川龍之介の書いた話は羅生門や蜘蛛の糸の二つ、授業で取り扱ったものしか読んだことなかった。その二つにしてももう十年以上前に読んで以来触れていないから内容に突っ込んだ話が出来るほどの記憶はない。やはりもっと教養を身につけておくべきだった。そうすれば上手く話を広げられたかもしれない。


「なんでそのトシシュンが好きなの?」


「……さっきから聞いてばかりだけど楽しい?」


 再び上がった視線と見つめ合う。不思議そうでも不機嫌そうでもなく、ただ口を動かしただけみたいな顔だった。

 俺は努めて明るい声で答える。


「あぁ、ごめん。俺は楽しいけど迷惑だった?」


「気にするほどのことではないわね」


「そっか。それならまぁ、良かった……てことでいい?」


「あなたがいいならいいんじゃない?」


 投げやりな言葉に何も言えなくなった。感情の薄い顔のせいでそれが皮肉かどうかも掴めない。迷惑だったらもっと分かりやすく拒絶すればいい。なのにそうはせずにそれすらも俺に委ねようとしている。その意図が分からない。

 生まれた沈黙を肯定ととったのか、入月は読書を再開した。


「……それで、なんでトシシュンが好きなんだっけ?」


 俺は元の疑問に戻して問い直した。


「無慈悲だからよ」


 呟くように答えた入月の口元にはほんのりと笑みが浮かんでいた。初めて見せた真顔以外の表情はどこか自嘲気味に引きつった、とても好きなものを話しているとは思えない温度の低い笑みだった。


「あと、別に杜子春は好きじゃない。強いて言うなら気に入っているだけ」


「そこになにか違いがあるの?」


「えぇ」


 入月は薄い冷笑のまま頷いた。その冷たさの意味を考えながら見つめていると、入月は本を閉じた。


「そろそろ私、帰るわ」


「えっ、もう?」


 時計を見るとまだ閉館時間までは余裕があった。普段なら入月が帰るには早い。

 手にしていた本を鞄に入れて立ち上がった彼女は見下ろしてきながら首をかしげた。


「何かおかしい?」


「別に、おかしくはないけど……」


 いつもは最後までいるよね。そんなことは聞けなかった。

 やはり俺がいることを迷惑に感じていたのだろうか。それとも偶然今日、何か用事があるのだろうか。

 いずれにせよ引き留められる道理はない。


「じゃあね、入野君」


「うん。じゃあ、また明日」


 短く交わすと、くるりとこちらに背を向けた入月は足早に去って行った。

 振り向く瞬間、広がった髪の奥から「嘘つき」小さな囁くような声が聞こえた気がした。


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