第一話:時間跳躍なんていらない




「──なさい」


 朧気に声が聞こえた気がした。

 耳に膜でも張られているのかはっきりとは聞こえない。サイレンのように遠くから何度か繰り返される言葉が、何を意味するのかはよく分からない。


 なんとなく自分に向けられている呼びかけなのだろうとは感じたがやけに濃い眠気に支配された身体では返事の一つもできなかった。瞼は重く開く事はできず、同じように重力に縛られる身体も起こせない。


 何度と繰り返される呼びかけの声にドンドンと何かを叩くような音が加わった。その音の組み合わせがどこか懐かしい。何度となく聞いた覚えがあった。それも数十回という話ではなく数百回という単位で。それは頭にだけある記憶ではなく全身ですら覚えているのか、なじんでいくように徐々に身体が動き始める。


 まずは声帯が震えてわずかに開いた自分の口から「うぅぅ」唸り声が漏れ出て、目に力が入った。もう少しすれば開けそうだ。

 その間にも響いてくる音は大きくなってきて、とうとうバンッ!と一際近くで破裂するような音が聞こえた。それのおかげか耳に張られていたような膜は消え去り、


「早く起きなさい! 遅れるわよ!」


「うわぁぁぁっ!」


 耳元の叫び声に鼓膜と意識を激しく揺さぶられて俺は飛び起きた。

 開かれた目に入ってきたのは俺の部屋だった。それと寝ていたベッドのすぐ横には母親が眉間にしわを寄せて立っている。

 記憶にはある何度も見た光景でありながら、訳が分からない状況に俺は母親を見返した。


「な、なんでここにいるの?」


「わざわざ史仁を起こしにきてあげたに決まってるじゃないの」


「というか、そもそもなんで実家の俺の部屋に?」


「そりゃ寝てたからに決まってるじゃないの」


「いやまぁ、そうなんだろうけど……」


 前提が違うみたいにまるで話が噛み合わない。

 俺は確かに自殺したはずだ。三〇歳になる誕生日、十一月四日に一人暮らしをしている自分の部屋の浴室で手首を切って死んだはず……いや、少なくとも死のうとしたはずだ。その記憶が濃くはっきりと頭の中にある。

 なのに俺は生きていて、しかも高校生まで過ごしていた実家の自室で目を覚ました。


 いや、訳が分からない。どう考えたってそういう流れにはならない。

 惨めにも自殺を失敗したのなら生きている事も納得できるけれど、実家の部屋にいるのは明らかにおかしい。


 目覚めるなら見知らぬ天井──緊急搬送された病院か、それとも思った以上に出血が大したことなくて病院に行くまでもなかったのなら一人暮らしの部屋のはず。

 というか起こし方もおかしくないか。手首を切った息子の耳元で、まるで朝起こす時みたいに不機嫌そうな声でがなり立てるのはいくら何でもあり得ない。


 親からすれば育ててきた命を平気で投げ出すような行為をされて怒っていたとしても、いくら俺が自殺を図った愚かな息子だとしても、もっとこう、涙目になって訴えるような湿っぽい声で名前を呼びかけてくれてもいいはずだ。

 ともかくもいまいち釈然としない状況を整理するために前提を確認する。


「……死ななかったってこと?」


 意識がある以上少なくとも生きているというわけで、生きているということは自殺は失敗したということだろう。

 これが死の間際に見せられる走馬灯のようなものでなければ、そういうことになる。だからまずはそこをはっきりさせるために問いかけてみた。

 しかし答えは予想もしていないものだった。


「なんでいきなり史仁が死ぬ事になってるの?」


「死にかけたところを助けられたんじゃないの? というかそうだ。ほら、傷がここに……あれっ?」


 そういえば手首を切ったんだから傷があるはずではないかと左手を掲げてみた。

 しかし半袖に隠されもしていない俺の左手首は傷一つない綺麗な肌をしていた。中央に伸びる二本の筋に沿うように伸びる青い血管がドクドクと脈打っている、何の変哲もない至って健康的な手首だった。


 思わず手首を返して何度も見てみる。しかし変わったところと言えば手の甲側は腕時計の跡なのか、一部白く空けて日焼けしているくらいだ。裏側にはやはり傷一つなかった。そもそも傷なんて一度も付いた事がないみたいにまっさらだった。  


 思わず呆然と自分の手首を見つめていると、母親が怪訝そうな顔をして追い打ちをかけてきた。


「いつまで寝ぼけてるのよ、今日始業式なんだからしっかりしなさいよ」


「始業、式……?」


「夏休みは今日で終わりでしょ」


「夏、休み……?」


 自分には関係が無くなって久しい二つの単語に舌の回りがぎこちない。外国人が発音した日本語のようにたどたどしい言い方に母親はそうよ、とうんざりしたように頷く。段々とそのこめかみに青筋が浮かび上がり始めている。


 噛合わない会話に機嫌が悪くなるのも分かるけれど、俺も状況が分からないのだ。

 あるはずの傷が無く、何年かぶりにがなり声で起こされたと思ったら、今度は夏休みが終わるのだから始業式に行けと言われる。


 全てが記憶の中にありながら、しかしどれをとっても死ぬ前の俺の状況とかけ離れている。

 夏休みは大学生の頃もあった。ただ、始業式なんて節目に行う式は高校までしかなかった。そして社会人になってからはどちらも無くなった。

 それが両方あるだなんて……。


「そんな高校生じゃないんだから」


 思わず呟くと、今度こそ青筋を盛り上げきった母親が掛け布団の端を引っつかんだ。


「いい加減怒るわよ。いいから早く朝食食べて、制服に着替えて、学校に、行きなさい!」


 言いながら怒った母親によって勢いよく取り払われた掛け布団の風圧が全身を打った。母親の視線と同じくらい冷たくて痛かった。

 しかしそれよりも冷たいものが背筋を凍り付かせた。


 布団に飛ばされて落ちたスマホは俺の使っているものよりも大分世代が古く、上向いた画面に表示された日付は九月一日だった。


「ねぇ、今日って何年の何月何日?」


「はぁ? 今日は──」


 母親が口にしたのはやはり九月一日だった。

 俺が自殺したはずの年より十三年も前の、九月一日だった。






 何があったのか分からないままではありながら母親の眼力に屈して学校へと向かう。


 世間的には約一ヶ月ぶりの、体感では十三年ぶりの登校に懐かしさと疑念を抱きながら記憶をたどりつつ通学路を進む。石を入れた容器の隙間に砂を流し込んでいくみたいに、細かすぎて欠落した記憶の端々を視覚情報が埋めていく。

 困惑の渦中で気分は重いはずなのに、踏み出す脚は感動するほど疲労感がなくて何度かよろけてしまう。歳をとって意識に身体がついていかず転ぶことはあっても、その逆を体感することになるとは思わなかった。意識以上に動けすぎるのも考えものらしい。


 疲労感がないのは脚だけではなく全身にまで至り、肩も腰も張った感覚がなく気を抜けば宙に浮いてしまうんじゃないかと怖くなるくらいだ。寝起きのせいなのかまだ若干頭がボーッとしているが頭痛は全くなく、重くもない。後数分もすれば問題なく働き始めるだろう。


 身体の変化……少なくとも三十歳だったはずの俺との違いはそれだけではなかった。

 今朝、家を出る準備のために鏡を見て驚いた。身長こそあまり変わっていないながら、肌の張りが全然違った。目元に刻まれ始めていたシワも綺麗さっぱり無くなっていたし目つきも少し柔らかくなっていて、さらには起き抜けに伸びた髭も薄く少なかった。


 自分のものとは思えないような健康体が、若い身体が鏡の前に立っていた。三十路の片鱗なんて一切ないピチピチの自分が自分を見つめていたのだ。

 様々な身体の状態をこうもありありと突きつけられてしまうと、ますます自分が三十歳であるという記憶が嘘としか思えなくなる。


 そもそも今日の年月日と自分の生まれた年を照らし合わせればまだ十六歳なんだから当たり前だ。でも、ならこの三十歳としての記憶は何なんだという話になる。

 夢で見た、というにはこの先歩むであろう十三年間がハッキリしすぎている。


 入学する大学の名前と学部、入学と共に始めた一人暮らしで住んだマンションの場所と、それぞれの最寄り駅。調理台はIH式のコンロが一口着いているだけの簡素で使い勝手の悪いキッチンだったが、風呂とトイレは別で温水便座も付いていたことも覚えている。一人用の家なのに無駄に靴箱が大きく、本棚に入らなくなった教科書や授業で使う資料をしまっていた。


 卒業後配属された市役所近くに引っ越して住んだアパートは家電付きだった。そこは壁が薄くて隣の住人の騒がしい声に夜は何度も起こされた。特に入居した時は隣が学生だったようで週末ごとに三、四人のものらしいドンチャン騒ぎが開催されていた。備え付けの冷蔵庫は小さくて食品のまとめ買いもし辛く苦労した覚えがある。


 耐えられなくなって三年後には新築のマンションに引っ越して家具家電から全て自分で揃えてそこそこ快適な生活は送ったが、三十歳を迎えた日にその浴室で俺は手首を切って死んだ。


 間違いなく、そこで命を絶ったはずだ。設定温度は四十四度、湯量を二五〇リットルで入れた湯船に左腕を浸したところまでしっかり覚えている。それは感覚としてなら数時間程度前の出来事でしかないのだ。


 それら全ての記憶が夢の中だけの設定というには作り込まれすぎている。たった一晩で見るものにここまでの情報量が詰め込まれることはまずないだろう。

 俺は今までこんなに濃い夢を見たことがない。


 一体俺はどうなっているのだろうか。今流れている高校二年の時間を過ごす俺の方こそが正しいのか、それとも三十歳の記憶を持つ俺の方が正しいのか。物理的な正当性を持つ十六歳の意識と、精神的な説得力を持つ三十歳の意識。そのどちらも間違いだと否定しきることは出来ない。

 あるいはその両方ともが正しいとしたら。

 つまり三十歳の意識が過去に戻って十六歳の身体に宿ったのだとしたら、それは。


「……タイムリープ?」


 頭を掠めた現象の名前に鼻から乾いた笑いが漏れた。

 フィクションや物語の中でしか聞いたことのない架空の現象にすぎない。

 でも今はまさにタイムリープしたような状況だった。逆にタイムリープ以外の説明の方が拙く感じてしまうくらい何かしっくりくる気はする。

 そうは思いながらも馬鹿馬鹿しい事には変わりない。

 それなら設定に凝った夢を見ていたんだと言われた方が現実的ではある。タイムリープなんて超常現象よりも辛うじて信憑性は高い。


 考えていくうちに現実感を失っていく思考が混迷を極めて自分が今どこに立っているのかさえ分からなくなってきた。

 たまらず頭の中に溜まったモヤモヤを吐き出すようにため息を吐くと「はよっ、史仁」肩を叩かれた。

 声の方を向くと目の下にクマを作った川島雄斗かわしまゆうとが一度大きく欠伸をしていた。

 その声に、顔に懐かしさがこみ上げてくる。

 ボーッとしてしまったせいか「どした?」と顔を覗き込まれる。


「なんでもない。おはよう、朝から眠そうだな」


「へへ、昨日で夏休みも終わりだからな。ラスト三日間、ゲームのやり納めをしてたんだよ」


「そっか」


 雄斗は記憶の中の雄斗と同じくゲームが好きらしい。授業終了すると即家に帰ってはゲームをし、もちろん休日は一日ゲーム、学校の休み時間もスマホで何らかのアプリゲームをしている。そんなゲームのことしか考えていない奴だったけど、俺の高校生活の中の数少ない友人であり親友だった。


「そんなんで大丈夫?」


「余裕余裕。どうせ始業式なんて校長と教頭の馬鹿みたいに長いだけのありがたい話聞かされる睡眠時間なんだから」


「言っていること、ちぐはぐだけど」


「そう? つか史仁こそ大丈夫か? 夏休み明けだってのに、なんかすげー疲れた顔してるけど」


「まぁなんというか、大丈夫であって欲しいな」


「なんだよそれ、他人事かよ」


 おかしそうに笑った雄斗はもう一度大きく息を吐きながら細めた目に涙を溜めた。

 なんというかさ、と笑って誤魔化しながら返す。


「変な夢見たんだ、今日」


「変? 包丁持った誰かに追いかけられる感じの怖い系?」


「いや、もっとたち悪い。未来の自分っぽい夢」


「うわっ、そりゃ状況によっちゃ悪夢だわ」


「だよな」


 夢とは思えないし、仮にそうだとしてもぽいではなく完全に自分だったけれど別にそこは重要じゃない。

 やんわりとでも誰かに話してみたかった。自分の中だけでうだうだ考えたところで答えは出るものでもなさそうだ。雄斗に話したところで結論にたどり着くとは思えないけれど、少しくらいは気持ちが軽くなるかもしれない。


「夢では浪人せずに大学入学して、そのまま就職までは上手くいったんだけど毎日がつまらなさすぎて腐ってた」


「でも就職まですんなりいったのは凄いじゃん。ちなみに仕事は何やってたの?」


「市役所の役員。受付窓口担当」


「公務員か、いいじゃん。史仁にあってるし残業少なくて楽そうだし」


「そうでもなかったよ。残業ないなんて幻想だった。窓口閉まる時間になっても次から次へと人来るし、大抵はこっちじゃ何も出来ない事ばっか相談って名目でわめき散らしていくだけでさ。なんとかそれを終わらせたら後は書類整理が待ってたし」


「まるで経験してきたみたいに言うじゃん」


「そこなんだよ。やけに一つ一つが鮮明すぎてとても夢には思えなかった。それこそ言ったとおり経験したとしか思えないくらい細かいところまで覚えている。なんなら今から市役所に行ってもなんとかなりそうってくらい」


「即戦力ルーキーじゃん」


 話しながら思い出して胸に鬱屈とした泥が流れてきた。夢での体験程度で生まれる泥にしては粘性が高すぎる。べっとりとへばりついて簡単にはとれそうにない。


「だからそんな疲れた顔してんのな」


「夜勤の後そのまま来てるみたいな感覚だ。しかも三十歳までのそういう記憶、細かいとこまで見せられたみたいで頭がごちゃごちゃしている」


「そりゃご愁傷様……」


 どう反応するべきか困っているのか、雄斗は苦笑いを浮かべてふぅっと長く息を吐

き出した。


「でも、そうなると三十歳の史仁らしき人の記憶が、今の史仁の中に入ってるようなもんか」


「イメージとしてはそう。夢なんだろうけど気持ち悪いよ」


「なんかタイムリープしたみたいだな」


「タイムリープ……」


 再び出てきた非現実的な言葉を舌の上で転がす。やはりリアリティはないくせにしっくりはきてしまう。 

 簡単に話しただけにせよ雄斗も俺と同じ結論にたどり着いていた。そう聞こえるように話してしまっただけかもしれないけれど他人から見ても今の状況はそう思えるらしい。


「参考までに聞くけどタイムリープなんて出来ると思う?」


 そんな概念を持ちだした雄斗だからこそ聞いてみた。

 雄斗は間髪入れずに首を横に振る。 


「将来的には奇跡的に出来るようになるかもしれない、としか言えないだろうな」


「だよな……」


「過去や未来に個人の意識だとか記憶を転送するなら、脳内情報をスキャンしてデータとして送らなきゃいけなくなる。けど今のところ脳の機能や動きを読み取るところまでは出来ても記憶そのもののデータ化は出来ていなかったはずだし。仮に出来たとしても今はそれを送受信する術もない」


「だから将来的にしかできないと」


 雄斗は、はっきりと頷いた。


「そもそも、いつか出来るようになったとしても受信機がないこの現代には送れないしな。特に記憶と感情なんてどれだけのデータ容量になる分からないものを今の環境で受けようってのが不可能だ。過去へのデータ送信方法の確立って壁もあるし。残念だけど俺たちが死ぬまでにはできないだろうな」


 その通りだと俺も首を振った。いくら科学の発展が著しいとはいえ時空を超えるのがそう簡単に行われるようになるとは思えない。


「でも史仁はタイムリープしてたりして」


「雄斗が出来ないって言ったばっかだろ」


 雄斗はケラケラと笑って楽しそうに続ける。


「でも、気にはなってるんだろ?」


「まぁ、そりゃあ……」


 気にならないと言ったら嘘になる。

 今の自分の気持ち悪い状況は、タイムリープなんて非現実的なものを疑ってしまうほどには不可解を極めている。雄斗も同じ結論に至ったせいで疑いの種に芽が出そうになっているくらいだ。


「なら確かめてみれば?」


「確かめるって、どうやって?」


 気楽な調子で言ってのけた雄斗を見返す。

 手軽に確かめられるなら、俺だって一応しておきたい。

 でもタイムリープなんて非現実的な事が起きたかどうかなんて、科学の実験みたいに部屋と器具さえあれば誰でも実証できるようなものじゃない。リトマス試験紙に浸せば結果が出るみたいに変化の過程と必然性が保証されているものじゃないし、そもそも測定用の道具も存在していない。


 これから起こる出来事を予言みたいに言い当てれば納得できるかもしれないけど、それには例えば自然災害や首相の交代などある程度大きな出来事が起きるのを待つ必要がある。記憶が俺の主観かつ限りがある以上、「これから数分後の何時何分に誰々と会う」みたいな日常の些細なことまでは覚えていない。


 受け身になってしまう以上確かめようと思って気軽に出来ることではない。探せば素直に出てきてくれるものじゃないのだ。

 訝しんで見つめ返すと雄斗は確信めいた口調で問いかけてきた。


「大学時代か社会人時代に住んでいたらしい建物の記憶ってあるか?」


「ある。それで?」


「行ってみて、もしその建物がなければ記憶はただの夢なんだろうし、逆にあればタイムリープしている可能性が高くなる。いくら史仁の見た夢が精巧に出来ていたとしても、完全に現実に即していることはまずあり得ないだろうからな。あっ、もちろんそこが今現在建てられているって前提だけどな」


「……なるほど」


 言われてみれば驚くほど簡単な話だった。

 この先起こる出来事を待つのではなくて、現時点で存在しているけれどこの時間にはまだ見ていないものを探しに行けばいいだけだった。それには動くことがなく、そうそう形が変わることもない建物が一番適切だ。

 ただし大学やスカイツリーみたいな誰にでも接点を持ててテレビにも取り上げられるようなランドマークじゃなく、より個人的でほとんどの人は存在すら知らないものの方が良いだろう。テレビやネットニュースでちらっと見た記憶から構成された夢だった場合があるからだ。


 そうなった時、この先の未来に自分が住むことになるであろうマンションならその条件に当てはまる。

 移り住んだ三棟のうち大学時に在籍していた住居は築五年くらいだったはずだ。

 そしてそこはこのまま記憶通りに沿って時間が進んでいけば二年後から住み始める予定の物件だから、今日の時点ですでに建っていなければおかしい。感心して笑ってしまう。


「よく思いつくな」


「ゲームやってればいくらでもこんな方法出てくるもんだよ。なんなら時間停止系の

超能力者との戦いを優位に進めていく方法も伝授してやろうか?」


「それはいいよ」


「あら残念」


 ちょっと面白そうだけど今のところ誰とも戦う予定はないから断ると、雄斗はそっか、とつまらなさそうに口を尖らせた。昨日までやっていたゲームに出てきた展開で、それを誰かに話したかったのかもしれない。


 その横顔に感謝しながら、初めて一人暮らしを始めたマンションのことを考える。

 ここからなら片道二時間弱で着く。行って帰ってくるだけだったら半日あれば全然足りる。そして今日は始業式。授業はないから午後には解放される。

 雄斗じゃないけど、今日が始業式であることに感謝した方が良いかもしれない。迷うまでもなく、今日確認しに行くことが出来るのだから。


 突然たった午後の予定に楽しみ半分、恐れ半分を抱いた時だった。

 ふわりと、視界の端に光が揺らいだ。

 見慣れない煌めきに視線を向けて、俺の脚は固まった。

 曲がり角から姿を現した少女の姿に視線が釘付けになる。


「入月……」


 思わず口からこぼれた声が届いてしまったのか、目の前を歩き出したばかりの少女が振り返った。回る身体に遅れて広がる髪を透過した光が雅に映した。

 俺とほとんど変わらない背丈に細いシルエット。二重の端からつり上がっていく大きな両目、その中に収まる吸い込まれそうなほどに澄んだ黒い瞳。透き通る白い肌に物静かに収まる小さい鼻と薄紅色の唇。そしてサラサラと元の位置に落ち着いていく艶やかな真っ直ぐの長い黒髪。


 記憶と寸分違わない姿がそこにある。どう探したってケチのつけようがない綺麗な顔が静かに俺を見つめている。

 見つめ合う瞳から入月が俺の中に流れ込んできた。流れ込んだそれは勢いよく俺の中の彼女と混ざり合って膨れ上がっていく。


「入月、凪沙……」


 もう一度、俺はその名前を呼んでいた。膨張する彼女は一瞬にして俺の身体を隅々まで隙間なく埋め尽くし、入りきらなくなったそれが口から溢れ出たみたいだ。

 その響きに心は凍り付き、反対に身体は燃えるように熱くなった。相反する体内の暴走が一つの感情を呼び覚ました。


 怖い。

 まるで恐怖そのものが輪郭を持って目の前に現れたみたいに、目の前の美しい少女が何故だかどうしようもなく怖く感じた。死んだはずの彼女がいきなり現れたせいだろうか。


「入野君、だったわね」


 見つめ合っていた入月は推し量るように目を細めた。あまり感情のこもっていない記憶通りの入月の声だった。

 か細くも芯のある声に呼吸が止まった。


「なにか用? 何もないならもう行くけど」


「あっ……えっと……」


「何?」


 暴れる恐怖が喉を締め付けて上手く声が出ない。なんとか絞り出せた声はひどく掠れて自分のものじゃないみたいだった。

 引き留めたいわけじゃなかった。それでも何か言わなきゃいけないと思って、すがりつくように問いかけた。


「……君は、なんなの?」


 何でそんなことをいったのかは分からない。ただその問いの意図が分からないまでも、この問いが今の自分の気持ちであることは分かった。

 入月も意味の分からない問いに警戒したのか、目を丸くして少し後ずさった。

 しかしすぐに普段通りの無表情に戻って言った。


「あなたは私が何に見えるの?」


「それは……」


 見た目だけなら入月凪沙という少女にしか見えない。ただ、感覚としては恐怖がそのまま目の前に佇んでいる。この畏怖をなんと言えばいいのだろうか。

 考えていると先に入月が口を開いた。


「聞きたいのはそれだけ?」


「……それ、だけ」


「そう。じゃあ」


 翻るギリギリまでこちらに視線を向けていた入月はそのまま足早に歩いて行く。

 硬直した頭のままその後ろ姿を見つめていた俺は、その背中が登校中の他の生徒に紛れて見えなくなるまで動けなかった。

 考えるまでもなく彼女と会うのは当然だった。今が三十歳の記憶の通り過ぎていく世界だとすれば入月凪沙はまだ死んでいない。それでも実際に見るまでは忘れていた、入月凪沙が生きているということを。


「おい、史仁ちゃん。おーい」


 呼びかけに気付いて見てみると、親友が俺の目の前で手を振っていた。その少しとぼけた動作にようやく一息吐けた。


「どうしたんだよボーッと突っ立っちゃって。そんなに入月の塩対応がショックだったか? 別に今に始まったわけじゃないんだから落ち込むなよ。今回はいきなり呼び止めたお前が悪いしな。てか話しかけるほど仲良かったっけ?」


「別に仲良くはないけど……」


「ふーん。まっ、元気出して早く行こうぜ? 新学期早々遅刻は気分悪いからな」


「あぁ」


 気を遣ってなのか大げさに肩をすくめて見せた雄斗に頷いて歩き出す。

 その歩調に合わせるようにゆっくりと、入月に抱いた恐怖が形を変え始める。

 俺の身体の内側を満たした入月凪沙が告げてくる。三十歳で死んだ記憶は本物なのだと、体内をなめ回すようにじっとりとした声で、笑うように告げてくる。

 その声で、嫌でも思い起こされた。意識させられた。


 入月凪沙という少女は三ヶ月後に自殺することを。彼女と同化しようとして自殺を図ったことを。かつて今と同じように彼女に対して恐怖を抱いたことを。そんな彼女を憎いと思ったことを。そしてどうにもならない劣情を彼女にぶつけた惨めな自分のことを。


 この記憶が、入月凪沙への気持ちが偽物であるはずがない。これでもかと言うほど惨めさを浴びてきたこの心が間違えるはずがない。

 首に絡まる後悔も今ならハッキリ感じられた。





「やっぱりある、か……」


 見覚えのあるマンションのエントランスを前に呟いた。

 入月と顔をあわせた時点で十中八九そうだと思っていたから「そうだろうな」としか思わない。でも物的証拠を得て十のうちの残りの一、二を補完できたことで懸念がなくなったのは喜ぶべきだろう。不確定のものを信じ続けることほどストレスのたまることはない。


 ただ、タイムリープをしたということは受け入れるとしても、そうなると今度は他の問題が出てくる。

 十三年前に戻ってきた俺はこれからどうしようか。

 真っ先にもう一度自殺することが頭を過った。このまま生き続けたとしても結局は十三年後に同じ道をたどるだろう事は容易に予想できるし、ただでさえ自分の居場所を作れなかった俺が、中身だけ十三歳も年が離れてしまった環境ではなおさら作れはしないだろう。周りに馴染めないまま苦痛な時間を過ごしていくくらいならさっさと死んでしまった方が分かりやすいし圧倒的にマシだ。


 ただ、ここでもう一度自殺したところでちゃんと死ねるのだろうかとも思う。変な話またどこかの時間に戻されないだろうか。

 そもそもの話だ、なぜ俺はこの時間に戻されたのだろうか。


 朝の雄斗との話の通り人為的に戻ってきたということはまずない。技術云々もそうだけど俺自身がタイムリープなんて単語そのものに関わるような生活はしていなかった。世界の裏で密かに技術と機械が開発されていて、被験者が必要になっていたのだとしても俺が選ばれるなんて事は一切ないのだ。


 人為的ではないのだとしたら神様のいたずらか何か?

 それはあまりに馬鹿げている。宗教家には悪いけれど馬鹿馬鹿しいとしか言えない。神を信じていない俺は初詣に行った記憶もないし、死の際の際まで一片たりとも頭の中に神は出てこなかった。

 そんな程度の認識しかしていない存在が信仰心の欠片もない俺をわざわざ意識だけでも生き返らせる義理はない。俺に力を割くよりももっと助けてあげるべき人がいるだろう。


 じゃあ、なにによって俺は戻されたんだろう。

 すぐに一つ思い当たることが出てきた。


「入月凪沙」


 仮に俺という人間の中に生への渇望があってそれに引かれて生き返ったとするなら、その要因は入月凪沙だけだった。神とは違い意識の途切れる瞬間まで頭の中を満たしていた想い人。

 抱いているのは少しの好意と共感、あとは憎しみと苛立ち、嫉妬が大半を占める自分勝手な醜い感情。人として空っぽだった俺の人生に唯一あり続けた入月に対する感情が俺をここに引き戻した。彼女が死ぬ直前の、この時代に連れてきた。


 少なくとも神が蘇らせてくれたというよりは紙一重で納得できる。

 そう思うと自ずとやることはハッキリしてきた。


「入月凪沙はなぜ死んだのか。その瞬間に何を思っていたのか」


 やけに久しぶりに口にした気がする。十六歳の表情筋が元気すぎるからだろうか、その問いは口に馴染んでいなかった。でも響きは心地よい。死ぬ前には苛立つしかなかったその問いが今は気分を高揚させる。

 まだ俺はその答えを知ることが出来る。いや、知るためにここに戻ってきたのだろう。

 違ったとしてもこの機会を逃したくはない。そして知って満足したら今度こそ俺は死ぬ。未練らしい未練を断ち切って、今度こそ居場所のないこの世界から消えていく。


「入月凪沙」


 俺にとって死への案内人となる名をもう一度呟くと胸の奥が熱くなった。もしかしたらこの胸の熱さを生きる希望というのかもしれない。

 死ぬことを想像した今が最も生き生きする瞬間だなんて、俺はなんて哀れな生き物なんだろう。そう思いながらもこの時間に戻ってこられたことを少なからず幸せに感じていた。


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