ハッピーエンドはいらない
秋波司
プロローグ:未練なんかいらない
なぜ
怒りと哀れみと憎しみと少しの共感を込めて問いかける。
死ぬ瞬間、入月凪沙は何を思っていたのだろう。
それはこれまで何十、何百としてきた問いだった。
温度は四十四度、湯量二五〇リットルに設定して入れ始めたお湯が少しずつ浴槽をせり上がる様子を眺めている今も、もちろん分からない。
このお湯が湯船が一杯になるまでにはたどり着くだろうか。それとも彼女と同じように、切った手首からあふれ出る血をそこへ注がなければ答えを知ることは出来ないのだろうか。
浴室の床に座ったまま、傍らに置いた新品のサバイバルナイフに指を這わせながら彼女に思いを馳せる。
入月凪沙もまた、俺みたいにこの世界に居場所を見いだせなかったのだろうか。なんでも持っていて、やろうと思えばなんだって手に入ったであろう彼女が居場所の一つも作ることが出来なかったのだろうか。
そんなわけないだろうと苦笑する。乾いた笑いは段々と高くなっている湿気に溶けていく。
容姿端麗、頭脳明晰、運動をやらせても常に輝いて見える。高嶺の花という言葉が似合う作り物のような誰も寄せ付けない澄ました表情と落ち着いたたたずまい。母親は日本を飛び出して世界を又にかけて活躍する大女優、父親は体操競技の元オリンピックチャンピオン。誰もがうらやむような家に生まれて、それこそ絵に描いたような特別な人間が入月凪沙という少女だった。
そんな彼女が居場所を作れないわけないだろう。どう考えたってこの世に絶望する必要なんか無かっただろう。世界を相手取ったって見放す側になったとしても見放される側ではなかったはずだろう。
だから自殺する必要なんて無かったはずだ。よりにもよって自身の誕生日である十二月十日に一人静かにこの世を去る必要なんて無かったはずなのだ。
なのに、なぜ。
彼女がこの世を去って十三年が経っても俺はその答えにたどり着けなかった。きっと誰一人として、彼女の両親さえたどり着けていないだろう。
彼女と俺は仲が良いわけではなかった。高校時代の出席番号が二番の入月凪沙と、三番の
それでも俺は入月凪沙に恋をしていた。年相応に好きになっていたんだろう。
彼女の凜とした表情に、透き通るような声に、さらさらと煌めく腰まで伸びた黒い髪に、背もたれを使わないピンと伸びた背筋に。その謎めいた寡黙な姿に惹かれて。
「どうして自殺なんてしたんだよ」
浴室に響いた声は想像よりも数度低くなった。答えのない質問は壁を跳ね回って俺へと帰ってくる。
何度も繰り返す問いは声に出すと怒りが沸く。俺が自分自身の死を意識してから、湧き始めた怒りだった。
彼女が死んだこと……いや、入月凪沙自身が俺はたまらなく憎い。
「入月は俺みたいに居場所を作れない、どうしようもないクズじゃなかったはずだろ」
行き場のない怒りに舌打ちをする。
美しい少女とは対照的に俺の人生は下らない、価値を見出せないものだった。
別段何か得意なものがあった訳ではなかった俺は人生の岐路に立つたびに、今後の選択肢をできる限り残せるような、潰しが効くような選択肢をしてきたつもりだった。
音楽科のあるところに行くか選べた高校受験。専門性を廃した文理選択。再び音大に進むか決められた大学受験。そしてやりたいこともなく安定を信じた就職。その全てで俺は無難な方を選んだ気になっていた。
そうやって市役所の生活課窓口担当になった俺は日々無様に心をすり減らしている。思いの外嵩む残業に加えて地域住民の相談と称した憂さ晴らしに巻き込まれたり、それによって遅れた事務仕事に文句を言われたりと何が楽しくて何のためにやっているのかも分からない時間を繰り返している。
意味も生きがいも感じず、ただ過ぎていく時間に流されるだけの生活に張りなんて生まれるわけなく、疲れと諦めに沈み込んでいくうちに好きなことも趣味も消え失せていた。
こうなったのを誰かのせいとか社会のせいとか言うつもりはない。
決断力と度胸がなかったから、後の選択肢を極力潰さないようにと真剣に選ぶことから逃げて逃げて逃げ続けた結果、逆に何も選べない、何も出来ないだけの空っぽな人間になっただけなのだ。
その一つ一つの選択の度に、取り返しのつかない後悔が俺の首を絞め始めていた。最初は緩く、重なる度に強く、時間が経てば経つほどさらにその輪は狭まって首を絞め続けてきた。もし途中で気付くことが出来ていたら振りほどくことが出来たかもしれない。でも気付いたときには遅かった。
その空虚さに惨めさが押し寄せて人と話すのが怖くなっていった。言葉を交わすほど、話せることもなくなっていき言葉が出なくなる。自分の中には何もないと突きつけられている気がして自信がなくなる。他の人は自然に動く口が自分には動かせない。それが耐えられなくなった。
人と話せない自分。人としての奥行きを作れずにいる自分。代わりなんていくらでもいることを淡々と繰り返しているだけの自分。何も積み重ねることが出来ないでいる自分。自信を持って社会に顔向けできない自分。
首を締め上げられて酸欠を起こした脳では、視界と思考が鈍っていき身体の力さえも奪っていった。そのうちに世界の片隅で這いずり回ることしか出来なくなっていた。その他には何も出来ないつまらない生物がそこにいた。
こんな自分に一体何の価値があるのだろう。この世界のどこに、こんな俺の居場所があるのだろうか。自分に向けられた問いには即座に否定できた。
生きている意味を見出せず、進歩すら出来ない俺にはこの広い世界のどこにだっていていい場所は見つけられない。世界に何も還元できない奴は世界から恩恵を受けられない。そんな当然の摂理に打ちのめされるしかなかった。
自殺するのはこういう奴なんだよ。こういう居場所をなくした奴だから、自殺ができるんだよ。
決して才能や希望があって、なろうと思えば何にだってなれる奴がやっていいようなものではないんだよ。なんにでもなれるからって死体になっていいなんて誰も言っていないんだよ。
それなのに死んでしまった。よりにもよって入月が自殺してしまった。
だから俺は入月が憎いのだ。俺たちみたいな奴しかできないことを、俺たちみたいな奴の特権だったはずのものを奪ってしまったから憎いのだ。
俺たちしか歩まないような惨めな末路を、本来たどる必要のない奴がわざわざ自分からたどってしまったことが、まるで嘲笑われたみたいな気がして悔しいのだ。
だから知りたかった。
なぜ入月凪沙は自殺したのか。
何を思いながら死んでいったのか。
思考を切り裂くようにちゃちなパッヘルベルのカノンが鳴り響き、湯船がたまった事を告げる電子アナウンスが流れた。
湯船には縁のギリギリまで張られたお湯が湯気を立てて水面を揺らしている。
とうとう準備が整った。考えられる時間はここまでらしい。
ゆっくりと大きく息を吸って吐き出すと気持ちが落ち着いていく。不思議と恐怖はない。むしろ楽しみとさえ思っている。
目を閉じると入月の姿が瞼の裏に浮かんだ。
自分と同じように浴室の床に座って右手で逆手にカッターを握った高校生の入月凪沙。ゆっくりと刃先を左手首に宛がう。
そしてきっとそれまで傷もシミもない綺麗な色をしていたのであろうその箇所を横一線に引き裂いて、腕を湯船へと浸していく。やがて自分では体重を支えられなくなって湯船の縁にぐったりともたれかかった彼女はいつしか鼓動と呼吸を止めて事切れた。
そこまで見えた俺は目を開いて右手でナイフを逆手に握った。
わざわざ同じやり方を選んだ理由はただ一つ。彼女と同じ死に方をすれば少しくらいは何か分かるんじゃないかと思ったからだ。馬鹿げた考えだけど一度しか試せないのだからかけてみたっていいだろう。
もし、かつて何かを選ぶ時にこれだけの度胸と勢いがあれば何かが変わっていたかもしれないのに。そんな皮肉に苦笑する。
瞼の裏に映った入月の動きを真似して左腕に冷たい刃先を押し当てる。そして一気に肌を引き裂いた。焼けるような痛みが走り、一線ついた傷から血が滴って床を汚していく。
上手く切れたことに安心しながら腕を湯船に浸すとお湯が溢れ身体を濡らした。
濡れた身体が冷えていくのを感じながら、ゆっくりと朱に染まっていく水面を眺めた。
入月も同じような光景を眺めていたのだろうか。そうならその瞬間彼女は何を思っていたのだろう。
それまでの人生を振り返っていたのだろうか。何かを悔いていたのだろうか。それとも何かを恨んでいたのだろうか。
薄らいでいく意識に恐怖は感じていたのだろうか。それとも安堵していたのだろうか。
息を吐き出しながら目を閉じる。ぼやけていく聴覚で最後に聞くことになるであろう自分の呼吸を拾い、左腕でお湯の温度を感じる。血生臭さを否応なく取り込む嗅覚、空の口内では味覚は特別働かない。
徐々にそれぞれが衰えていく世界に怖さはなかった。
できなかった事は山ほどあるけどやり残したと思えるものは一つもない。どこまでも希釈された人生には後悔すらも入る余地はないらしい。
それでもたった一つ未練があるとするなら、やはり入月凪沙の自殺の真意を知ることができなかった事だ。
意識が途切れる最後の瞬間まで、俺は彼女の事を考え続けた。何一つ積み重ねることはできなかったけれど、唯一俺の心にあり続けた問いかけ。
入月凪沙はなぜ自殺したのだろうか?
その瞬間に、何を思っていたのだろうか?
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