骨嚙み

うつりと

カオル

 主人の手紙を見てしまったのが悲劇の始まりでした。私の主人は昔で言う高学歴・高身長・高収入の三高で、加えて家柄もすこぶるよろしく、性格も至って穏やか、飲む・打つ・買うなんて考えられない品行方正を地でいくような人でした。

 趣味は音楽と絵画鑑賞、加えてテニス。運動音痴な私はたまに主人に誘われてもあいまいな返事とともに首をかすかに横に振るばかりで同じコートにはあがれなかったけれど、あの人のテニスをする姿を見るのが好きだった。主人がベンチに来る時、金網の向こうから羨望と嫉妬の入り混じった視線を感じたとしても知らん顔、どこ吹く風といった調子で受け流し、差し入れのスポーツドリンクとレモンのはちみつ漬けをサッと渡す。その時の高揚感と言ったら!

 私がもしその時の表情をシャッター音とともに切り取られたらと思うとゾッとしますが、

昔は今のようなスマートフォンもなかったものでしたから、これはさておき。

 運動音痴、略してうんちな私でも絵画鑑賞は楽しめたので、一緒によく上野に行ったものでした。常設展、企画展、様々なものが展示されていましたが、主人はどこか遠くを眺めるような目で絵画をひたと見つめているものでした。

「いつもあなたは遠くを見ているのね。」

 少し茶化して主人に声をかけると

「絵は遠くから眺めないと全体像が見えないからね。」

と、どこか言い訳じみた返事をするのでした。

 私たちは両家の両親が勧めてくれたお見合い結婚だったものだから、このエピソードは

全て結婚後の大切な思い出たちです。私は主人の若い頃を知らない。それでも良かったの

です、今主人の横にいるのは私だったので。

 主人のご両親の援助もあって、世田谷に居を構え、犬を飼い、一姫二太郎と子どもにも恵まれました。君には家を守ってほしい、との主人の言付けがあったので私は家に収まり、毎日の日課である犬の散歩に子どもの送り迎え、掃除・洗濯・料理に精を出し、子どもの勉強を教えたりもしていました。私が家で息が詰まらないようにと義両親は私たち夫婦で出かけてきなさいと子どもを預かって面倒を見てくれました。私は恵まれに恵まれて幸せだったのです。主人の鍵付きの引き出しを見るまでは。

 主人は家に書斎を持っており、筆まめな人だったので、よく手紙を書いていました。私は主人の空間とも言える書斎に滅多に近づきませんでしたが、書斎にいる主人に電話が入ったので、主人に声をかけて部屋に入ったのです。そこで主人が倒れたのです。驚きました、健康体の主人が突然倒れたので。保留にしてある電話の相手に事態を説明して、電話を切ると続けて救急車を呼びました。そして主人が倒れた拍子に床に散らばった手紙を見やると、見たことのない満面の笑顔の主人と笑顔の女性の古い写真がありました。

 手紙には「私はもう大丈夫ですから奥さんを大事にしてください。」と。

 主人の容態を待つ病院で拾った意味深な手紙と写真を義両親に見せました。

「この方は?」

「元の婚約者よ、弦のね。別れた人よ。」

「まだ手紙のやり取りはあったみたいですが。知っていたんですか。」

少し眉を上げて不思議そうな顔をした。

「ええ。それが何か。

それでも貴女、幸せだったでしょう?」


 あぁ、そうかそうか、そういうことか。

義両親は彼の事情を一切合切知りながら、子どもを授かれないその元・婚約者を様々な理由をつけて破談にしたのでしょう。それで私にお鉢が回ってきた。家柄、年齢に問題のない子どもの産める健康な器として。

 しばらくして主人の葬儀が行われた。その時に元・婚約者もご焼香に来ていた。あの女だ。少し小柄で化粧は歳のわりに薄目、薄幸そうな、けれど艶のあるシルバーグレイが美しい、主人の愛を独り占めにした、あの、女。

 けれどあの女はここまでは来られないでしょう、親族の集うこの場には。火葬が済むと私は主人の骨を真っ先に口にした。口の中を火傷しようが構わなかった。私の心はそれよりひどくケロイド状にただれている。

 皆は様々な表情を浮かべたが関係なかった。


 本来主人は私に対してその気は一つもなかったかもしれませんが、私にはありました、

主人を呑み込んでしまいたいと思ったほどの狂おしいほどの熱情が。

 誰にも渡しはしない。骨も遺産も名前さえ。

何せ私はあなたのたった一人の正妻なんですから。

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骨嚙み うつりと @hottori

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