第3話 貧乏神
スズの前から姿を隠した悕望は、桜の木の下にあるあの社の前に座り込んだ。
桜の枝には花も葉もない。ただ、やがて花になるであろう小さな硬い芽が点々と並んでいる。
コン……、鳴き声の後、大人になった白狐が姿を見せる。すると、荼枳尼天も現れた。
「ずいぶん頑張っておったようだな」
女神は冷たいようで、実は悕望の行動を見ていたようだ。
「……はい。しかし、1年は続きませんでした。良かれと思ってやっていたことが、逆に人間を苦しめていた」
悕望は、力なく
「そのことに気づいただけでも良かったではないか」
「良いことなどありません」
「スズという女は喜んでいたであろう?」
「まさか。……泣いておりました」
「あれは感謝の涙だ」
「ワシは感謝されるようなことなど、何もできなかった。全て、ワシの独りよがりだった」
「結果はどうあれ、ヌシはスズのためになったのよ」
「そうでしょうか?」
「己の行動が、己の思った通りに受け取られることなど少ない。良かれと思ってやれば迷惑がられ、仕方なしにやって喜ばれることもある。大事なのは、誰かのためを思って、真心から働くことだ」
「そうでありましたか……」
悕望は神になりたい一心で行動していたのだが、いつしかスズのために働いていたことに気づいた。
「約束通り、お前が神になれるよう、取り計らいましょう」
荼枳尼天がいう。
「とんでもない。ワシは約束の1年、善行を積まなかった」
「大事なのは数字ではないのだよ。お前の心が変わったことです。もっとも、まだまだ徳は低い。期待を膨らませすぎてはならないよ」
「はい。空腹で身を裂かれることがなければ、それで十分……」
悕望は女神の足元に
コン……、狐が鳴き、荼枳尼天の姿が消えた。
悕望は待った。荼枳尼天が戻って、自分を神の列に加わえてくれる時を……。
しかし、いつまでたっても荼枳尼天が戻ってこない。
きょろきょろと周囲を見回し、社の周囲をぐるぐると歩いた。そして社の鏡に映る自分の姿を確認した。そこにあるのはまだ獣にも似た悕望自身の姿だった。
「何も変わってはいない」
荼枳尼天様!……両手をあわせて早く神にしてくれ、と願った。
まさか、からかわれているのでは?……不安を覚えた。が、すぐに、自分が間違っていることに気づいた。いつからだろう、もう長いこと空腹を感じていなかった。
「ありがとうございます」
見えない女神に感謝した。
「それでワシは、何の神に成ったのでしょう?」
社に向かってたずねると、オホホと笑い声がする。
「貧乏神ですよ。これからは、何でも好きなものを食べるといいでしょう」
「貧乏神……」その神の名前は知っていた。人間に嫌われる神であることも。それでも不満はなかった。悕望から変わり、空腹という苦悩から解放されただけで満足だった。
「不服ですか?」
荼枳尼天が尋ねた。
「いや……、ではなく、食べ物を食べなければなりませんか?」
暴飲暴食は人間を貧しくするだろう。
「神なのです。自由になさい」
「なるほど。……よっこらしょ」
立ち上がると、足を街に向けた。
貧乏神が最初に出会ったのは、商店街の外れにある
「オヤジ。ワシが見えるのか?」
「もちろん見えるよ。本野書店の前で泣いていた妖怪だろう」
「いや、ワシは妖怪ではなくなったのだ」
「おもしろいことを言う。汚い
「貧乏神よ」
「なるほど。本野書店が傾いたのも道理だ」
「うむ。本野の主にはすまないことをした。で、どうだ。その後、本野書店に客は入っているか?」
「昨日の今日だ。変わり映えするはずも無かろう」
「それもそうだな。しばらく様子を見るとするか。……で、オヤジ。今日はお前の家に泊めてくれ」
「止して下さいよ。私の所も商売をやっている。貧乏神に居座られては、あがったりだ」
鰻屋の主はそそくさと逃げ出した。
次に会ったのは、万引きをした中学生の阿部だった。
「おい」
貧乏神に声を掛けられた阿部は、「助けてくれ!」と悲鳴を上げて尻餅をついた。
「取って食おうというわけではない。これでもワシは神だ。お前の家に住もうと思うが、どうだ?」
顔を近づけると阿部は財布を取り出した。
「これをやるから、勘弁してください」
「何と……」
どうしたものかと考えていると、「こら!」と男の声がする。見ると、白い自転車に乗った警察官だった。
「お前、年寄りの癖にカツアゲをしてるのか」
貧乏神に向かって若い警察官が言った。
「まさか。金など要らん。家に泊めてもらえないかと、頼んでいたのだ」
「ホームレスか……」
警察官は貧乏神の身なりを見て納得し、腰を抜かしている阿部を助け起こして帰した。
「ふむ。すると、あんたがワシを泊めてくれるというのだな?」
警察官に訊いた。
「正月から行くところがなくては困るだろう。今晩は駐在所に泊めてやる。お前の名前と生まれた場所を教えなさい」
「名前は貧乏神。生まれたのは地獄だ。悕望という餓鬼だったが、今日、晴れて貧乏神に生まれ変わったのだ」
「ビンボウガミィー?」
警察官は大きく眼を見開くと、貧乏神の頭から爪の先までゆっくりと観察し、裸足の黒い足をしばらく見つめていた。
「神様なら、消えたりできるのか?」
「もちろん」
貧乏神が姿を消して見せると、警察官は「ヒェー」と悲鳴を上げて自転車を走らせた。
「ナンマイダブ、ナンマイダブ……」
経を上げる警察官の耳元で、「ワシは神様じゃから、経は役に立たんぞ」と教えてやった。
「来るなー」
警察官は叫びながら駐在所に飛び込み、扉を閉め鍵をかけて布団の中にもぐり込んだ。
「やれやれ。泊めてやると言ったり、来るなといったり、困った奴だ」
貧乏神にとっては扉も鍵も無意味だ。駐在所の押入れに潜りこむと、うとうとと休んだ。
その日から、事件が増え、交番の支出が増え、数日もすると警察官の身体がやせ始めた。
「やれやれ。我が身に痛みはないが、同居人を痛めてしまうとは。これなら悕望のほうが気楽だったかもしれん」
貧乏神は、放浪の旅に出るしかないか、と悩み始めた。その時だ。「こんにちは」と聞き慣れた声を聞いた。スズが本の配達で訪ねてきたのだ。
「やっと来たか。良い本はあったかい?」
「見繕って10冊ほど持ってきましたけど。……お巡りさんが除霊の本なんて、どうかしたのですか?」
スズが除霊やお祓いの
「実は、貧乏神に出会ってね。こうして、あれこれと買うものが増えているんだ。どうせ金を使うなら、貧乏神を追い出す方法があるんじゃないかと思ってね。ヨシ、全部買うよ」
「貧乏神?」
スズが駐在所の奥に眼をやる。すると、襖の隙間から覗いている貧乏神と目が合った。
「あら。あの時の……」
貧乏神は、慌てて奥に隠れた。彼女にあわせる顔がない。
「知っているのかい?」
警察官が訊いた。
「ええ。うちの店で万引き犯を追い払ってくれていた悕望という方です」
「どれくらいの期間いたの?」
「半年と少しぐらいです」
「半年もいたのか。まだ、こっちは1週間だ」
警察官が肩を落とした。
「悕望さん、もう少しはっきり顔を見せてください」
スズに呼ばれ、貧乏神は戸惑った。
「悕望さん!」
彼女は粘り強く、貧乏神は折れた。
「ワシは、悕望から貧乏神に変わったのだ」
胸を反らして言った。照れくさかった。
「そうでしたか。ならば、貧乏神様。私の店にいらっしゃい。お巡りさんが困っています」
彼女の言葉に貧乏神は驚いた。そして彼女の行動にビビった。スズが恐れることなく貧乏神の手を握っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます