第2話 万引き

 仏法により、悕望きもうという邪鬼は実の子供が供えた物しか口にできない。そんな悕望は腹をすかせ、グルグルと腹の虫を鳴かせ、過去を悔いながら漂泊していた。


 その悕望は生前、結婚もせず肝心の子供がなかった。それで悕望となってから食べ物を口にしたことがない。食べなくとも死ぬ事はないが、空腹を感じないわけではなかった。


 葉桜の下の小さなやしろの前に油揚げが供えてある。それを取ろうとしても指は素通りし、顔を持って行っても唇が触れることもなかった。


「食いたい!」


 悕望の腹はグーと鳴る。油揚げを見ていると、ますます空腹に心が痛んだ。


 社の後ろには白い衣をまとった荼枳尼天だきにてんという女神がいて、白い毛並みの子狐と遊んでいる。


「もし、神様」


「おや、餓鬼ではありませんか。何用です?」


「あの油揚げを食べないのですか?」


「あれは使いの狐の好物。私に供えられたものではありません」


「なるほど。神様でも、狐に供えられたものは食べられませんか?」


「私は食べる必要などないのです」


「それはワシも同じだが、腹は減ります」


「それはそれは、お可哀そうに」


「かわいそうと思うのなら、ワシも神様にしてもらえませんか。空腹が治まるのなら、何でもしましょう」


「神になど、なろうとして成れるものではありませんよ」


「そこを何とか、慈悲だと思って」


 悕望は女神の白い足にすがりついた。


 ツンと刺すような嫌な臭いがし、女神の周囲から子狐が逃げた。


「これは困りましたね」


 女神は早く餓鬼を追い払いたくて仕方がない。


「では、良い行いをしなさい。悪事をせず、善事を1年続けたら、神になれるように取り計らいましょう」


「それはありがたい」


 悕望は涙を浮かべて女神を拝むと、善事を行うために街に向かった。


 生きていた頃には他人の金を盗り、食べ物を盗んで生きていたから悪事は身近だが、良いことをするとなると簡単ではなかった。


「さて、どうしたものか……」


 賑わう商店街を歩いていると「こら!」と叫ぶ声がした。見ると、少年がマンガ週刊誌を盗んで逃げている。本屋の女主人が少年に向かって叫んでいたのだと分かった。


「これだ!」


 悕望は、少年を追うのを諦めて店に戻る女主人の後について本野書店という店に入った。


§


 本野書店のあるじがキヨで、少年を追っていた女性が娘のスズだった。キヨの夫は太平洋戦争末期に徴兵され、沖縄で戦死していた。正確な没日は分からないので、沖縄戦が終わった6月23日を命日にしている。享年42歳。


 スズは27歳になっていたが独身で、結婚の早い当時では肩身の狭い思いをしていた。見合い話はちらほらあるのだが、男勝りの気性と、頬の黒い痣が災いし、話がまとまることはなかった。


 高度経済成長によって世の中の景気は良くなり、物価は上がっていた。労働者の給料が上がるのは会社が儲かった後だから、懐が温かくなるのは半年、あるいは1年後になる。まして中学生の小遣いが上がるのは更に後だ。


 その日は人気のマンガ週刊誌の発売日で、阿部一郎あべいちろうは雑誌を片手に迷っていた。財布の中には一冊分の金しかない。今日これを買ったら、明日発売のマンガは買えなくなる。


 その時だ。1人の少年がマンガ本を手に、脱兎だっとのごとく店を飛び出した。


「こら!」


 スズが追いかける。


 ラッキー、と阿部は心の中で叫んだ。店員が表に出ただけでなく、客たちも飛び出して行った少年に意識を奪われているからだ。


 手にしていた本をさっと足元の紙袋に放り込み、左右を見回す。店内には仕事帰りや学校帰りの男女が大勢いたが、誰も自分の行為には気付いていない、と確信した。


 阿部の心臓の動きが早まり心はチクチクと痛んだ。が、欲望を満たすためにはやり遂げなければならない。


 万引き犯を取り逃がしたスズは店に戻っていた。彼女の視線を避けるように、何食わぬ顔を装って店を出た。その時だ。「置いて行け」と地獄の底から声がした。


「え?」


 誰に言われたのか分からない。


 突然、紙袋から黒く細い手が伸びてきて、ギュッと阿部の腕をつかんだ。


 つい紙袋を覗いてしまう。中では皺だらけの黒い顔が牙をむいていた。


「置いて行け」


 袋の中の何ものかが唸った。


「ギャッ!」


 声が喉を突き、紙袋を投げ捨てた。


§


 店の前で「ギャッ」と叫ぶ声を聞いてスズは目を向けた。何も買わずに出て行った中学生が、何故か紙袋を落としていった。


「お客さん、落としましたよ」


 路上で紙袋を拾い上げた時には、中学生の姿はどこにもなかった。


 紙袋の中には発売されたばかりのマンガ本が入っていて、万引きされたものだとすぐに分かった。


 もしかしたら、命日で父が戻って来たのかもしれない。そんな風に感じたスズはそのマンガ本を胸に抱きしめた。


 それからも万引き犯が本を落として逃げることが度々あり、スズは店に何かが住みついたのだと確信した。姿や声を見聞きすることはないが、気配は感じる。


「お父さん。お帰りなさい。私とお母さんを守ってくれているのね」


 スズは仏壇に手を合わせるようになった。


§


 万引き犯が本を落としていくと、盗られずに済んだ本をスズが胸に抱きしめる。そのたびに、本の中に潜んでいる悕望はスズの温もりを感じ、喜びを覚えた。その時だけ、いつもはギリギリと杭をねじ込まれるように痛む空腹から解放された。


 悕望は常に店内に目を光らせ、客が万引きするのを待ち、万引きを見つけることに希望を見出した。


 東京オリンピックの熱気もどこかへ消え去って重ね着が出来る時期。ぼってりと着込めば万引きはやり易くなる。


 他の書店では万引きが増えたが、本野書店では皆無に近かった。盗んだ万引き犯は本を落として行くし、そもそも「本野書店には妖怪が住んでいる」と噂になっていて万引きをする者が減っていたからだ。


 万引きが減るだけなら良かったが、本を買いに来る客も減っていた。日本は、まだオリンピック景気に浮かれていたのに、本野書店には一足先に秋風が吹き始めていたといえる。


「万引きが減っても、売上がこうも減っちゃ、苦しいわね」


「目配りで疲れることは無くなったけど、先行きは暗いね」


「それにしても、妖怪だなんて……」


「違うわよ。お父さんが戻って来たのよ」


「お前が結婚しないから、心配しているんだよ」


「経営が苦しいから、娘を追い出すつもり?」


 母娘でそんな話をすることが多くなった。


 そうした会話を聞く悕望は複雑な気分だ。親子のために良かれと思って万引き犯から本を守っているのに、売り上げが減ってスズが心を痛めている。


 1965年の正月。すずらん通りには初詣や初売り目当ての人々が行き来していたが、本野書店には客がなかった。


「正月なのにねぇ」


「お年玉があるはずなのにね」


「やっぱり、妖怪の噂がいけないのかなぁ」


「正月早々、妖怪に会いたくないものね」


 キヨとスズは通りを歩く晴れ着姿の人々をぼんやり見ていた。


 神になるためには、あと5カ月は善行を続けなければならないが……。あぁー、全てワシが悪いのだ。……悕望は元気の無いスズの姿に嘆いた。


 今、俺ができる善行は、店に客を呼びスズを喜ばせることだ。そう考えた悕望は通りの真ん中に立ち、姿を現すことに決めた。


「本野書店で万引きした連中を脅かしていたのはワシだ。全てこのワシ、悕望の仕業だ。悕望はこの店を出ていく。だからみんな、怖がらずに本野書店に来てくれ。買ってやってくれ」


 悕望は店の前で叫び、大泣きした。


 悕望を見ることができたのは、霊感の強い者か、悕望のような悪意を持つ者だけだった。多くの人間が、その姿を見た。


§


 スズも見ていた。不気味な生き物が長い髪を振り乱しながら人々に向かって「本野書店に来てくれ。買ってやってくれ」と泣き叫ぶ姿を……。


 スズは店を飛び出す。キヨには、どうしてスズが外に出たのか分からなかった。


「ありがとう。悕望さんというのですね。あなたが万引き犯から、本を取り返してくれていたのね」


 スズは悕望を抱いて慰めた。ガサガサの肌とごつごつした骨が、スズの心に突き刺さった。涙がこぼれた。


「ワシが悪かった。ずっと、ずっと、己の過ちを、誰かのせいにしていた。だれかに甘えておった……」


 言葉が消えるように悕望の姿はスズの腕の中から消え去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る