鬼の書店

明日乃たまご

第1話 ゼンキ堂

 6月のこと。商工会職員の鈴木孝治すずきこうじは、夏休みのイベントの資料を手にしてすずらん通り商店街の店舗を回っていた。その一角にゼンキ堂という小さな書店がある。


 ゼンキ堂の店主は1960年の開店当初からずっと本野ほんの家の女性が務めていて、今の知本ちもと綾香あやかが4代目になる。


 初代店主の本野キヨはすでに他界していた。2代目の本野スズは認知症を患って寝たきりで、3代目の知本柚鬼ゆずきが2階の自宅で介護している。柚鬼の夫の智樹は銀行員で単身赴任中だ。


 店には綾香1人だった。


「こんにちは……」


 商工会で働き始めたばかりの鈴木がゼンキ堂に入るのは4度目で、そこに足を踏み入れると、妖しい気配を感じて背中に悪寒が走るのが常だった。


「あっ、商工会の……、えっと……」


 書棚の整理をしていた綾香が考える仕草をした。


「鈴木です」


「そうそう、鈴木さん。私馬鹿で、名前を憶えられないんです。……すみません。それで、今日は何か?」


 妖しい空気の中で、綾香は一輪のユリの花のように白く輝いていた。


「夏のイベントの資料をお持ちしました。今年も、協賛をお願いします」


 鈴木は愛想笑いを浮かべながら、一つ年上の女性に資料を手渡す。


「ハイ。暑いでしょ。麦茶、飲んでいってくださいね」


 綾香が返事も待たずに奥に消えた。大学を卒業するとすぐに店主の座につき3年しかたたない綾香だが、幼いころから祖母や母の仕事ぶりを見てきただけに、客への対応にはそつがなかった。


 手持無沙汰になった鈴木は、棚に並んだ書籍の背表紙を読んでいた。


「こちらにどうぞ」


 戻ってきた綾香にレジ横の椅子をすすめられて座る。冷たい麦茶をひと口含んでから、以前から気にしていたことを尋ねることにした。


「街の書店は廃業しているところが多いようですが、こちらは大丈夫ですか?」


「そのようですね。うちも楽ではありませんが、何とかやって行けてます」


「あまりお客さんはいないようですが、学校との取引などがあるのですか?」


 若いので、ずけずけと質問する。


「そういったものも無くて……。あったら、もう少し楽なのでしょうけど」


 綾香が苦笑とも冷笑とも取れない笑みを浮かべた。


「万引きが多くて大変でしょう。どこの書店も、それで苦労されているようです」


 同情を示したつもりだ。


「他はそのようですね。でも、うちでは万引きが無いのですよ。だからやっていけます」


「そうなのですか。何か防犯装置でも?」


 鈴木は店内をぐるりと見回した。これといって万引き防止装置らしきものはない。それどころか、普通の店舗ならあるはずの防犯カメラや鏡の類さえなかった。


「家にはあれがありますから」


 綾香が出入り口の上を指した。そこには小さな額があって、不気味な生き物が描かれていた。その身体は栄養失調のサルのようにやせ細り、皮膚は青黒く長い髪を幽霊のように振り乱している。


「……乞食ですか?」


 他に例えようがなかった。


悕望きもうという邪鬼じゃきだそうです。生きていた頃、善人をねたみ、物を奪い取った者がなる鬼だそうです」


「なるほど。節分で見る鬼とはずいぶん違いますね。万引きするとあんな風になるぞといういましめですね」


 鬼が見張っているのが妖しい空気の理由か。……想像したあとに自分を笑う。鬼の絵を飾ったくらいで店内の空気が重くなったり、万引きがなくなることなど無いだろう。


「うちの店も初代のころは万引きが多くて大変だったそうです」


「初代のころと言いますと?」


「1960年に初代が店を開きました。ちょうどそのころ、マンガ雑誌が沢山創刊されたそうです」


「高度経済成長期というのでしたか?」


 鈴木は大学で学んだ昭和史を思い出した。


「そうですね。そのころも万引きは多かったけれど、何とか薄利多売でやれたそうです。ところが、2代目のころには難しくなりました」


 彼女が遠い眼をした。

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