第8話 飲食店勤務、松井和也(19)

 松井和也まついかずやは歌舞伎町の中を歩く。

 喫茶店を出た後に颯人はやとに連れられて昼食にちゃんぽん(支払いは颯人)を食べた。そしてそのまま二人で徒歩でへと向かっている最中だ。

 歌舞伎町といえば大きなアーチ状の看板のイメージだが、目的地は表通りではなく路地の中にあるようで、ラーメン屋や『それっぽいお店』の前を通り過ぎて奥へ奥へと進んでいく。歌舞伎町どころか新宿に明るくない和也にとって、ここは迷路というか、混沌だ。誰かの案内がないと目的地に辿り着ける自信がない。

 そうこうしているうちに、とある雑居ビルに到着し、地下に降りて行く。

 実際に歩いた時間、五分。和也の体感時間、三十分。慣れない街は魔境だ。

「さ、入って」

 颯人がドアを開けて和也を促す。

 入ってみると、中はそこまで広くない。和也の想像では煌びやかな鏡張りの室内にシャンデリア、部屋の端にはシャンパングラスがタワーを形作っている、という異次元だと思っていた場所は、思ったよりも普通だ。

 L字ソファーとガラステーブルが三組。カウンターのような場所に背の高い丸椅子が五つ。カウンターの奥の棚には酒のボトル(和也には種類がよくわからない)がずらりと並び、ホストクラブというよりも、どちらかといえばバーのような印象が強い(行ったことないが)。

「早いな、颯人」

 カウンターの向こうから、渋い男の声がかけられた。

「お、なんだお客さん……じゃないな。ダチでも連れてきたか」

 初老の男性だった。白いシャツとベストをきっちりと着こなした細い体躯であるが、弱弱しい印象は皆無だ。濃い口髭と右の蟀谷こめかみに走る傷痕きずあとが、妙な威圧感を出している。

(待て待て、これカタギの商売だろうな…?)

 和也は少し不安になる。立地も立地だ。脛に傷持つ者がいても全然おかしくない。

「助っ人を連れてきた」

「おう、そうか」

 いや「そうか」じゃないだろうと、話の進むスピードに和也は困惑する。

「和也君、俺の父親だ。ここの責任者」

「村田だ。よろしくな、ボウズ」

 村田と名乗る男の声は、枯れ枝のような細さとは裏腹に力強さが感じられる。ドスが利いているというわけでもない。包容力、というのだろうか。落ち着いた大人の雰囲気が滲み出ている。口調はやや荒いが。

 父親だというが、『樋川』ではなく『村田』とはどういうことか。家庭事情なのだろうが、ここはあまり気にしない方がいいかもしれない。

「あの、樋川ひかわさん、そういえば俺、働きますなんて言って――」

「和也君、ひとまずそこの段ボールよろしくね」

 颯人は和也のセリフをさらっと流して、ひとり奥へと歩いて行ってしまう。

 取り残された和也は所在なさげに村田に視線をやると、

「よろしくな、和也君」

 ニィ、と村田が笑う。もう断るなんていう選択肢はなさそうだった。


 営業開始は午後六時から深夜一時までらしいが、割と準備は早く始めるようだ。

 和也は台車で運ばれてくる折り畳みボックスを店の奥まで運び入れる。それを何往復かした後、今度はビールサーバの交換を手伝う。

 室内の清掃を進め、終わったら食事メニューの下ごしらえを手伝う。食材は乾きものだけでなく、軽食用の野菜やディップ用のアボカド、中にはヒレ肉もある。ホストクラブというものを正確に理解できていない和也には、もうバーなんだかレストランなんだかわからなくなってきた。

「和也君、意外と器用だな」

 オリーブオイル漬け用のカボチャとピーマンを切っていると、村田が手元を覗き込んで感心していた。

「料理とか絶対しなさそうなのに」

 最初の一回でボウズ呼ばわりはなくなったが、さも料理できないと思われているあたり、どうせ独りでコンビニ弁当ばかりなんだろうと思われていたようだ。

 まぁ、毎日外食か弁当なので、ほぼ当たっているのだが。そのくせ自宅にはそれなりに調理器具が揃っているのが不思議だ。和也自身はフライパンや鍋なんて、使ったことないはずなのに。

(あれ……?)

 でもなんとなく、自宅で湯気の立った食事をしていた記憶がある。皿に盛られた料理は以前魅凪を呼んだ時にも出していない。和也はもちろん、魅凪も料理など作っていないはずなのに。

「おい、ぼーっとするな。ちょっと褒めたら調子に乗るタイプか」

「え?あ、すみません」

 考え事をしていたせいか、カボチャを切る包丁が滑ってガン、と俎板まないたを叩いてしまう。

 集中しないと怪我するぞと注意されながら、以降は黙々と作業をこなす。

「おはざまっすー」

 そんな折、ワックスで髪を固めた若い男が入って来る。ここのホストだろう。

 気づけば時刻は五時を回っている。あと五十分ほどで開店だ。

「おう三瓶、今日は遅刻しなかったな」

「そんな人を遅刻常習犯みたいに~」

 村田から冗談交じりに言われるも、かなりフランクな受け答えだ。年の頃は和也とそう変わらないように見える。人懐っこい笑顔が印象的だ。

「で、誰っすか?」

 和也を見て、三瓶と呼ばれた青年は尋ねる。いぶかしんでいる、というよりも、純粋に興味が湧いているといった様子だ。

「臨時の助っ人の和也だ」

 店の奥から出てきた白ワイシャツの颯人が紹介を口にする。かなり大雑把だが。

「ハヤテさんおはざまっす。あ、ヘルプの人っすね。おねしゃっす。ミズキっす」

「ああ、よろしく……。和也です」

 人懐っこい笑顔が和也にも向けられた。彼の辞書に人見知りなどという言葉はないようだ。

「で、ハヤテ……?」

 颯人に向けて和也が首を傾げる。

「源氏名だよ。そっちのミズキも同じ。聞いたことない?源氏名」

「あ、いや、聞いたことはあるけども……」

 あまりにも捻りがないというか、聞き間違えと思ってしまうくらい本名と微妙な差でいいのかと思ってしまう。

「お前ら駄弁だべってないで早く着替えてこい」

 村田が声をかけると、すぐにミズキは奥のロッカールームへ歩いていく。

 颯人改めハヤテは和也にもロッカーを案内する。

 そして、さも当然のように尋ねた。

「でさ、源氏名どうする?」

「…………え?」



 なぜか、和也は着慣れないスーツ姿でホストとして女性の相手をしていた。

 メインはフロア係として飲み物や食べ物を運び、合間で掃除やゴミの片づけをしていたのだが、ヘルプとして一時的に対応することになったのだ。元からハヤテ含めて三人しかホストがいない店だ(三人目はがっしりした高身長のユキという二五歳)。店内はテーブル席が全て埋まり、そうなるともう人員に余裕がない。

 とはいえ、和也には何の知識もない。

 酒の作り方などわからないし、女性の喜ぶ話題だってわからない。友達と話す場合と違って、楽しく話せばいいというわけではない。相手を楽しませなければならないというのが、かなり難しい。気づくと和也がずっと喋り続けてしまい、ハヤテのフォローを受けながら、とにかくリアクションだけ大げさに取って誤魔化すしかできなかった。

 ちなみに、和也は源氏名を決められず、そのまま『カズヤ』になった。


 そして、午後十時を回ったころ――

「やっぱりミズキちゃんかわいいわ~」

 和也がシャンパンをテーブルに置くと、その席に座っている中年女性が年齢に見合わない黄色い声を上げた。かなり化粧っ気が濃いが、ほうれい線は隠しきれていない。若く見積もっても四十代、もしかしたら五十代かもしれない。手には高そうな指輪を三つずつ、首には大きな真珠のネックレス、淡いピンクのブラウスにタイトスカートという姿は、仕事終わりに羽根を伸ばしに来たと言わんばかりのセレブ風だ。

「ハハハ、ありがとうございます」

 その相手を、和也の一つ年上であるミズキが営業スマイルでこなしている。

「若いわねー、お肌はこんなスベスベだし」

 女はミズキの手の甲を撫で始めた。

「いやいや~、まぁ若いっすからね~」

 カウンターまで戻った和也はそんな様子を見て、なんとなく察した。

 ミズキ、顔は笑っているが心は笑っていない。

「ねぇ、この後どう?」

 女がミズキに顔を寄せる。ミズキが反射的に顔を逸らそうとして、必死にこらえているのが傍目にもわかる。

「どう、って…?」

「ミズキちゃんかわいいし、すっごく好みなの。お姉さんが、ね?」

 皴の目立つ手が、ミズキの手の甲から太腿ふとももへと移った。外から内へ、さわさわと撫で回している。

(酒入ってるとはいえ、あんなエロオヤジみたいな……)

 和也はうんざりした目で見ている。もし自分があんな目に遭ったら、思わず逃げ出していることだろう。なんというか、恐い。

「あの、さすがにそういうのは…」

「あら、照れなくてもいいのよ。ウブな子ね」

 遠回しにやめるようにミズキが言っても、女の手は止まらない。

「だいじょうぶよ、お姉さんがう~んと可愛がって、ア・ゲ・ル♪」

 鳥肌が立った。ミズキだけでなく、TelF装着者として数々の戦いを潜り抜けてきた和也も、別ベクトルで恐いと思った。

「お客様」

 そこへ、渋い声がかけられる。

 声の主を、女が見上げる。

 いつの間にかカウンターから村田が抜け出し、ミズキのテーブルの前に立っていた。

「当店はそういったサービスは行っておりませんのでご遠慮ください」

 丁寧な口調だが、言葉の端々から怒気が滲んでいる。

「あら、なによ。ジジイは引っ込んでなさいよ。あったしはねー、若くてかわいい子しか眼中にないのよ」

 しかし、アルコールのせいか、女はそんな村田をけなしながら、ミズキの内腿を揉み始めた。

「ミズキちゃんだって、この超絶テクでビンビンなんだから~」

 そんなこと当然ないのだが、ミズキはもう何も言わなかった。全て村田に委ねているようだ。

「当店は性サービスを提供しておりませんので、そういった行為をご所望でしたら、近所の『女性用の店』へお願いします」

 あくまで丁寧に「出ていけ」と、語気を荒げることなく伝える。

「うるっさいわねっ!」

 その言葉も、生来の性格なのかアルコールのせいなのか、女には怒りのボルテージを上げる燃料にしかならないようだった。

 ピシャッと、手元のグラスの中身を村田の顔に向けてかけた。

 周囲で騒ぎながらも静観していた他の客やハヤテたちも、この光景にしんと静まる。

 シャンパンを髪や顎から滴らせ、村田は屹立したまま女性を見下ろす。

「何よその目は」

 こんな空気になっても、女の勢いは収まらない。

「あたしはねぇ、客なのよ、お・きゃ・く・さ・ま!わかってる?あたしがどれだけこの店に金落としてると思ってんのよ!」

 女は財布を取り出して、その中から一万円札の塊を引き抜く。ざっと三、四十万はあるだろうか。

「いいわよ、出てってやるわよ!こんな汚い店」

 それを、村田に投げつける。

 村田の顔に紙幣の塊が当たり、バラバラになった万札がひらひらと舞い、シャンパンに濡れた床に落ちる。

「ほら、拾いなさいよ。色付けて払ってやるわ」

 場の空気が冷え切ったのがわかる。

「あいつ…!」

 和也は我慢ならず、文句を言ってやろうと足を踏み出すが、すっとハヤテの手が遮った。

「父さんに任せときな」

 ハヤテは和也を見ずに制止させ、視線を村田と客へと向ける。

 村田は黙って落ちた紙幣を拾い上げ、数える。その様子に、投げつけた張本人は怒りから優越感へと表情を緩ませた。

「ふん、そうよ、大人しく金勘定してればいいのよ」

「ええ、確かに」

 村田はさっと紙幣を数え終え、

「お会計ありがとうございます。お釣りはミズキへのチップとして受け取っておきましょう」

 前髪から滴るアルコールをそのままに、落ち着き払った声音で告げた。

 それが気に食わなかったのだろう。女性客は立ち上がって村田をねめつける。

「あなた、客商売してるくせに生意気ね。お客様は神様なのよ?」

 侮蔑と不満をありありと眉間の皴に表した女に、表情を変えずに村田は返す。

「でしたら、他の神様のお邪魔になりますので、早々にご退場願えませんか?」

 その言葉に、思わず周囲の客がプッ、と噴き出した。

「やりとりは全部監視カメラに映っていますので、もし訴えようとしても、そちらに不利に働くだけだ。セクハラは女から男にも適用されるというのを身をもって証明することは、本意ではないでしょう?」

「~~~~っ!!」

 怒り心頭という様子を隠そうともせずに、女は自分のバッグを掴んでドカドカと足音を立てながら店を出ていった。

 村田は紙幣の数枚をミズキの胸ポケットに突っ込んだ後、表情を柔らかくして店内に向けて、両腕を広げて言う。

「皆さま、お騒がせしました。お詫びに、一杯おごらせてください」

 動向を見守っていた周囲の客から歓声が上がり、和也は戸惑いながらもハヤテが用意した鮮やかな色のカクテルをテーブルへと置いていった。


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