第8話 和也の異常
「ただいま」
小坂魅凪は新興住宅地である都内のマンションに帰宅した。筑五年、一五階マンションの一〇階の角部屋、七〇㎡という場所に、母と二人で住んでいる。
しかし、娘の帰宅に対して返す声はない。魅凪はバッグを自室に放り投げ、リビングへ向かう。電話機がチカチカ光っていたので、留守電を再生した。
『一件、です。―――――あ、魅凪?ごめんね、今日も遅くなりそうなの。先に寝てていいから。あと、戸締りはしっかりしてね』
いつも通りの母からの留守電メッセージ。それを聞いている間、魅凪はコップと紙パックのジュースを取り出して飲む。
「はいはい、どうせ男のところでしょ」
留守電メッセージに応じるように、嘲けりを含めて呟く。
魅凪の母は現在三五歳であるが、見た目はもっと若い。半年前に夫を亡くして母子二人となった際、すぐに『援助』してくれる男を見つけ、関係は今も続いている。今でもこんないいマンションに住んでいるのは、決して母の給料がいいわけではない。現に、母は定職に就いているわけではなく、家に入るお金はその男性による『援助』だった。
テーブルの上には、五千円札が一枚置かれている。
紙幣を手に取り、虚空を見上げる。
「ねぇ、お父さん」
今は亡き父へ、虚空を見上げて告げた。
「さんざん空気読めない人だなって、ずっと思ってたけどさ」
家族三人で写っている写真を取り出そうと、ブレザーのポケットに手を入れる。
「お母さんも、同じになっちゃったよ――――――あれ?」
感慨に耽るように呟いた瞬間、ポケットの中の違和感に気付いた。
家族で写った写真、それを収めた生徒手帳がないことに。
「ランスロットに、パーシヴァルねぇ……」
「ハイラントのゼロに迫るスペックと、まるで生まれてからずっと戦闘技術を磨いてきたかのような戦闘センスがありました」
「現に、ヌアダは討たれましたからね」
同室している秀平も、報告を共にしていた。
「ああ、報告ご苦労さん。もういいよ」
竜胆寺は早々に和也と秀平を退室させた。二人は訝しさを感じながらも、筆頭主査の命令に従った。
二人が部屋を出ると、ふぅ、と一息つき、竜胆寺はすぐさまパソコンへと向き直った。
ディスプレイにはゼロ装着時の和也の各種データが所狭しと映し出されている。それを高速スクロールさせ、確認していく。
「やっぱり、軽度のニューロン異常が出ているね。それに、海馬に負荷もかかってる」
時間推移のシナプス形成速度と、装着時と非装着時の情報伝達量比較、ホルモンの分泌量、筋電位など、検証すべき無数のデータを脳内で整理しながら、思考の
「やっぱり、石田が小島榛名を殺している事実をすっかり忘れているみたいだね」
ハイラントフォルムの弊害として、装着者である和也の脳に大きな負担がかかっている。それは多大な情報量を処理しきれず、脳が焼きついているといっても過言ではない状態であった。精神的圧迫も大きいが、脳が物理的損傷を受けているのは間違いない。
人間が受ける五感情報は、伝達神経細胞間でやり取りされる。各神経での情報のやり取りはシナプスによって行われるが、和也にはそこに障害が起きている。また、脳に直接負担がかかることで無意識下のストレスが慢性的に溜まり、結果コルチゾールの分泌も認められ、海馬の萎縮傾向も見られるようになった。
「このまま続ければ、廃人確定だな」
現在、竜胆寺はこの症状の抑制及び根本的な解消を図っているものの、光明は見えていない。しかし、対処しなければ、和也の記憶はどんどん曖昧になり、やがては外部情報を処理することも、自分が何なのかさえわからなくなる可能性が非常に高い。
一番の解決策は、そもそもハイラントフォルム使わなければいい、ということなのだが、状況はそれを許してはくれないだろう。SFTの新型強化人間である
つまり、脳へのダメージを無視しなければ戦えず、脳を庇えば実力差で殺される。
「そういえば、あいつらが使ってた武器……」
竜胆寺は騎士たちが使っていた剣や槍に注意を向けた。
「高周波振動兵器に温度境界層制御……。ジャンパーのデータだけじゃ説明がつかない。そうなると、出ところはどこだ?まさか、裏でKDIが繋がってるって噂は……」
そこまで考えて、竜胆寺は失笑した。
『政治』は自分の領分ではないことに気付いたからだった。自分のすべきことは技術の出所ではなく、それが与える影響だけだ。
「さてさて、どうなるかね……」
思考を切り替えるように、竜胆寺は画面を切り替えた。
和也とゼロのデータから、別の機体のワイヤーフレームモデルに表示が切り替わる。
無骨とも言える、巨大な肩部装甲と、併設されたスタビライザー兼ウイングスラスター。負荷重量を無視したとしか思えない、両腕部兵装。頭部には大きな角が生えている。
『YMT-1AE/Z ATLAS』
フレーム上部に記された名称を見やり、竜胆寺の唇が吊り上った。
「さぁ、どうする?臆病な強がりボウヤ」
今ここにいない誰かに向けて、くつくつと笑う声だけが、室内に伝播していった。
翌日――
和也は大崎駅前にいた。なんら特別なことではない。
(これ、返さないとな)
生徒手帳を返すという大義名分を持ったストーカー予備軍指定の松井和也は、立証大学付属高等学校の前に立っていた。
そして、やけに静か過ぎる光景に違和感を覚えていた。
時刻は午後三時半。普通は下校生徒が出てくる時間のはずだ。
(おかしいな……)
何度も首を傾げながら、和也は校門前にい続けた。
和也には、小坂魅凪のことで頭がいっぱいだった。
そう、今日が土曜日であることを忘れるくらいに。
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