第57話 再発、そして・・
結局、病院でもうまくやっていけなかった。あのぬるま湯のような世界ですら、私はうまくやっていけなかった。
美由香との決裂が、私の心を、意識を朦朧とさせるほどに絶望的に、私を引き裂いていた。やっとできた友だちだった。その友だちも去って行ってしまった。
「私は・・、私は・・」
私はふらふらと町を彷徨うように歩いた。寂しかった。堪らなく世界が灰色だった。何とも言えない絶望が私を覆っていた。その絶望から一生出れないような気がした。そのことにさらに絶望した。死にたかった。死にたい死にたい。
「死にたい死にたい死にたい死にたい」
私の頭の中で、希死念慮の嵐がぐるぐる回った。
みんなが笑っている気がした。世界中のみんなが私を見て笑っていた。
「あああああっ」
笑っていた。
「ああああっ」
みんな笑っていた。私を見て笑っていた。
「うあああああっ」
私はもうその場に崩れるようにして、座り込んだ。
「あああああっ、ああああっ」
みんなが私を見る。でも、とまらなかった。
「ああああっ、ああああっ」
私は何も変わってなんていない。変わってなんていない。私はまたあの惨めで一人ぼっちの私だった。
「ううううっ、ううううっ」
涙が溢れてとまらなかった。辛くて苦しくて、寂しくて、悲しくて、堪らなく惨めで、どうしていいのかもうぐちゃぐちゃで、私は泣いた。
「玲子さん・・」
玲子さん何で死んじゃったの?
「玲子さん・・」
玲子さんに会いたかった。堪らなく会いたかった。
玲子さんみたいに、きれいで美しければ、玲子さんみたいにピアノが弾けたなら、そんな人間になれたなら、私は自分もみんなおように幸せになれると思っていた。でも、その玲子さんが死んでしまった。
私はもうどうしていいのか分からなかった。
私は、座ってすらいられず、その場に頭を抱えうずくまり、そして、そのまま頭を抱え路上に倒れ込み泣いた。狂ってしまいそうだった。いや、狂ってしまいたかった。もう、こんな世界で生きられない。意識を保つことはできない。そう思った。
――終わりのない孤独。絶対の孤独。引きこもって、たった一人安全な場所に身を隠し、お菓子やパンを貪り食いながら、ただ他人の不幸を願うだけの醜い日々。嫉妬、妬み、嫉み、募るのはそんな負の感情ばかり。嫌な自分ばかりが溜まって淀んでいく。あの日々――
「何?どうしたの?この人」
そんな、私を見下ろすようなささやき声が聞こえた。
「山の上の人だよ」
山の上にある精神病院の患者たちは、町の人たちに山の上の人と呼ばれていた。
「関わらない方がいいよ」
「そうね」
恐れるような声音。
私は見下されている。私は恐れられている。そのことに屈辱と悲しみを感じながら、でも、やっぱり、私はそんな存在なんだなと、歪な形で安心している自分がいた。そう、私はやっぱりそんな存在なんだ――。
遠くの方からパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。誰かが通報したのだろう。そのことがおぼろに頭の底の方で分かった。でも、そんなことはもうどうでもよかった。とにかく私は今――。
私は再び病院にいた。
「ううううっ、うううっ」
私はストレッチャーに乗せられ、病院のどこかを走っていた。
パトカーのサイレンが聞こえ、私は救急車に乗せられ・・、私はそこから断片的な記憶しかない。気づくと私は、病院にいて、流れゆく病院の廊下の天井を見つめていた。
「真知子さん」
「田中さん・・」
婦長の田中さんだった。
「真知子さん、気をしっかり持つのよ。悲しみに流されてはダメ」
「田中さん・・」
私のストレッチャーと並走して走る田中さんは、あの厳しい田中さんではなかった。やさしい、私を心配する田中さんがいる。
「田中さん・・」
その時突然どこからに着いたのかストレッチャーがとまると、その田中さんの横から医者が現れ、注射を私の腕に向けた。
私は鎮静剤を打たれ、保護室に入れられた。
「・・・」
頭の中が真っ白になったみたいだった。コンクリートの真っ平な地平がどこまでもどこまでも続いているみたいだった。私の頭に必要な感情の回路がすべて消えてしまっていた。
「・・・」
ただ私は、私であるだけだった。ただ私である私がうずくまり、部屋の片隅にいる。それ以外何もなかった。ただひたすら無機質な地平線が心の遥か彼方に広がっていた。
「・・・」
私は廃人だった。心が真っ白に壊れていた。保護室に自分が入れられている。そのことは頭の片隅にあった。でも、そんなことはどうでもよかった。
「・・・」
私は感情のないまま、感情のない無情な悲しさに涙した。耐えがたい虚無の荒野が見渡す限り続いていた。そして、その先に行っても、それは永遠に続いているのだと、その先に行かなくても分かった。
――死にたい・・
でも、生きたい・・
大きくため息をつきながら、死にたいと思う気持ちと、やはり生きたいと思う気持ちと、その境界線の狭間で私はかろうじて生きている。物心ついた時から私はいつもそうだった。
死にたいピークに私は死にそびれた生けるゾンビ。あの時、死んでいれば、どんなに幸せだったろうか。
結局、私は死ねなかったのだ。生きたいではない。私は死ねなかったのだ。死ねなかったそんな寂しい一人の夜に、私はいつもそう思った――。
鉄格子が私を覆っている。鉄格子の中に私はいる。私はあの閉鎖病棟にいる。あれほどに恐れていた閉鎖病棟に自分がいることの不思議をうまく認識できないまま、でも、それは確かなリアルなのだと、そのことを認識できないほどには私は壊れていなかった。
「・・・」
静かだった。堪らなく静かだった。世界の時間と動きがすべてとまってしまったみたいに静かだった。
少し高いところにある小さな窓から、真っ白い冷たい月が見えた。でもそれを見ている私の心には何もなかった。私の心は空っぽだった。ただ無感動な私がポツンとそこにいるだけだった。
「あああああ」
隣りの保護室から、突然、その静寂を切り裂くように断末魔のような、叫び声が上がった。
でも、それすらが私の中では静かだった。
「・・・」
そんな私を照らすように月が輝いていた。冷たく・・、静かに・・。
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