第56話 退院の日

 退院の日、みんながさよならを言うため集まってくれた。

「退院おめでとう」

「おめでとう」

「よかったね」

 みんなが口々言ってくれる。

「ありがとう」

 私は答える。

「元気でね」

「はい」

 私は笑顔で答える。

「・・・」

 でも、笑いながら私は、死にたいと思っていた。みんなから祝福されながら死にたいと思っていた。笑顔でみんなに答えながら私は死にたいと思っていた。

退院の日、美由香も真紀も見送りに来てくれなかった。仲間だと思っていた美由香と真紀も、結局は病院の中での慣れ合いでしかなかったのか――。私は堪らなく寂しく悲しかった。私はここで友情を、青春を感じていた。でも、それは、勝手な私一人の一人よがりな思い込みだったのか・・。

「まちちゃん」

 迎えに来ていた母が声をかける。

「じゃあ、どうもお世話になりました」

 母が病院関係者に頭を下げ、私たちは下の階へと下りていった。今まで許可をもらわなければ、乗れなかったエレベーターに、勝手に乗れることに違和感を感じつつ、私は階下に下りていく。

 一階に着くと、外来の出入り口から、外に出る。

「・・・」

 外はきれいに晴れ渡り、私の心とは反対に明るく光り輝いていた。私は目を細めそれを見上げる。そこには、自由があった。輝かしい自由があった。やはり、そこには複雑な思いはあっても心地よい解放感があった。いつ以来振りだったろうか。本当の意味で病院から出る。もうそのこと自体を忘れるほどの間を私は病院で過ごしていた。でも・・。

 でも、堪らない寂しさが私を襲う。この先に、退院した先に、何があるのだろうか。そこには、またあの孤独な日々が待っている・・。友だちも誰もいないあの暗い部屋に一人閉じこもる私。学校の教室で一人孤立し、一人机に座る私。私は、病院での、美由香や真紀、玲子さんと過ごした日々が思い出していた。堪らない切なさと寂しさが同時に私の胸を張り割くように襲う。

 母と二人、待たせていたタクシーに乗り込み病院を後にする。

「・・・」

 なんだか・・、なんだったんだろう・・。この病院での日々が、入院そのものがなんだったんだろう。やっぱり、私の頭の中でうまくまとまらなかった。何も変わっていない自分しか感じなかった。何も変わっていない自分。そして、病院を出たらまた待っているあの以前の私の状況――。

「今日は何食べたい?退院のお祝いになんでも作るから」

 母が、話しかけてきた。勤めて明るく言っているのが分かった。

「・・・」

 私は黙っていた。退院のことを、私に黙って勝手に決めたことに私は怒っていた。それだけじゃない。何もかも、何もかも、なんかよく分からないけど許せなかった。何で産んだんだ。私なんか。私なんか何で産んだんだよ。

「まちちゃん、おうち久しぶりよね」

「・・・」

 私は黙り続けていた。そのことで母が傷つくことを知り尽くした上で、私は黙っていた。親の、子への愛情を利用して、私は優越的立場で母を傷つける。そこには嗜虐的な私がいた。最低の私がいた。私は何も変わっていなかった。母にも父にもやさしく、それだけじゃない、誰に対してもやさしい自分をいつも望み、願っていた。そうありたいと思っていた。でも、その反対の自分がいた。母を傷つけている優越的な気持ちよさと同時に、堪らない自責の念とそんな自分に対する恐怖が私を襲う。 

「今からでも遅くないよ。人生はやり直しがきくから」

 励ますように母は私に言った。しかし・・。

 しかし、それが励ましではないことを私は知っていた。母は私にやさしくしているつもりなのだろう。でも、その魂胆は見え透いていた。母のいつものやり方だった。はっきりとは言わない。遠回しに私を自分の理想へと方向づけしていく。それが母のやり口だった。私はその魂胆と手口を知っている。

「学校に戻って、少しずつみんなに追いつけばいいわ・・」

 暗に母は私にプレッシャーをかけてくる。逆に言えば追いつかなければならないのだ。追いつけというメッセージなのだ。

 母は学校で成績がよかった頃の私をまだひきづっていた。それが私にはよく分かった。母は、自分の理想に私を当てはめようとしている。そこに持って行こうとしている。

「まちちゃんは頭はいいんだから、ほら、小学校の時・・」

「戻れるわけないじゃん」 

 母にみなまで言わせず、私はキレた。


 ――私は小学生の時、何やら難しい数学のテストでクラスで一人だけ百点を取った。それを担任の先生から告げられた時の母の喜びようはなかった。その時の私が、母の中で固定化され、とまってしまっていた――


「私ここでいい」

 タクシーが町まで下りると、私は突然一人タクシーから降りた。

「あっ、まちちゃん」

 背後で母の呼ぶ声がしたが私は構わなかった。

 タクシーを降りてすぐ、なんの迷いもなく私はふらふらと近くにあったコンビニに入った。そこで有り金で買えるだけの菓子パンとお菓子とジュースを買った。そして、コンビニを出るとすぐ袋から出し、頬張れるだけ頬張った。黙ってとにかく頬張って頬張って、餓鬼みたいに貪った。コンビニに入ろうとする他の客が、私のものすごい食べる勢いに、驚いた表情で見ていく。でも、そんなことを気にしている余裕もなく、私はそのまま必死で目の前の菓子パンを猛烈な勢いで食べ続けた。

「・・・」

 買ってきたパンもお菓子もあっという間に食べ尽くし、一心地つくと微かな満足感と、高揚感を感じ少し落ち着く。しかし、その裏でたまらない罪悪感と、絶望感が私の心には渦巻いていた。

「やっぱり、何も変わっていなかった・・」

 何も・・。私は結局何も変わっていなかった。私・・、私・・、そんな今目の前の自分をごまかすことはできなかった。

「うううっ」

 涙が溢れてきた。通行人がそんな私を恐怖を含んだ怪訝な顔で見ていく。

「うううっ」

 でも、自分の感情を抑えることが出来なかった。何も変わっていなかった。何も。なんにも変わってなんかいなかった。私はあのダメなどうしようもない、あの時の狂った私のままだった。悲しみ、堪らない絶望、寂しさ・・、孤独・・、孤独・・孤独・・、

「玲子さん・・」

 玲子さんが死んでしまった。

「玲子さん・・、何で死んじゃったの・・」

 寂しかった。

「麗子さん・・」

 美由香も真紀ももう私の隣りにはいなかった。私は一人だった。寂しかった。堪らなく寂しかった。

「うううっ」

 孤独だった。寂しかった。堪らなく寂しかった。苦しくて苦しくて、でも、逃れようのな絶望的な孤独が私を強引に世界の片隅に閉じ込める。

「死にたい、死にたい――」


 ――死にたい、死にたい、死にたい、死にたい、死にたい、死にたい、死にたい、死にたい・・。今まで何度思ってきただろう。死にたい、死んで生まれたことそのものから消えてしまいたかった。一人寂しい夜にベッドの中で、私はそのことを何度、本気で思ったことだろう――。


「死にたい、死にたい・・」

 涙が溢れてくる。泣いた。泣きじゃくった。恥も外聞もなく、私はその場で泣きじゃくった。

 

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