第58話 落ちていく私

 ――私がおかしくなる前から、私の家族なんてとっくの昔に終わっていた。父も母も喧嘩ばかりで関係は冷え込み、それを見て育った私と兄は、ただただそんな二人に怯える毎日だった。家族としてのとりあえずの形はあった。みんなで一緒に食事をし、夏休みには家族旅行に出かけ、みんな必死で理想の家族を保とうとそのように振舞っていた。でも、みんなの心は完全に家族という中心点からは離れていた。形骸化した家族という廃墟。それは何とも息苦しく、辛いものだった。中学になると、その家族から兄は逃げた。家にほとんど寄りつかなくなり友だちと遊び歩いた。私には兄のように逃げる場所がなかった。だから、私は自分を壊すしかなかった――


 あれから何日が経ったのだろうか。時間の感覚もよく分からなくなっていた。 ふと見ると、私の保護室の扉が開け放たれたままになっていた。ずいぶんといい加減だなと思いながら、私は別に出たいわけでもなく、でも、ふらふらと保護室を出た。心が真っ白で、保護室を出たからといって、何も感じはしなかった。夢の中にいるみたいで、でも、これが夢じゃないということは、頭の片隅の何かが囁いていた。

 ふと見ると、隣りの保護室の扉も、なぜか開いていた。

「・・・」

 私は導かれるようにその中にゆっくりと入って行く。作りも大きさも壁の色も、私の入っていた保護室とまったく同じだった。

 部屋の真ん中に青年が一人、入口に背を向け座っていた。その青年は奥の壁に向かって、しきりと何かを描いていた。壁と彼の間には何もない。彼はただひたすら壁を見つめていた。

 私は後ろから彼の描く絵を覗き込む。何かの抽象画だろうか。そこには何も具体は描かれていなかった。

「何を描いているの?」

「壁さ」

 彼は背を丸め顔を上げることもなく、手に持つキャンパスに絵を描き続けながら言った。

「壁?」

「ああ、精神病院の壁だ」

 確かによく見ると壁の絵だった。くすんだ薄いライトグリーンのペンキで塗られた壁のその色と質感がそのままそこのキャンパスにあった。

「ここの壁は生きていない。死んでいるんだ。僕の心みたいに」

「・・・」

「これは僕の自画像なんだよ」

「・・・」

「これは僕の絵なんだ。僕自身の絵なんだよ」

「・・・」

 私にはこの青年の心の空白が分かった。そして、色のない孤独と絶望が分かった。

 私も彼の隣りに寄り添うように座り、一緒に壁を見つめた。


 世界はなんて最低に輝いているんだろう。私は思った。

 降りしきる絶望――。

 世界は輝いている。だけど、それは希望じゃなかった。


「・・・」

 その壁は私だった。私の心そのものだった――。


 私は今も自分を切り刻んでいる。この醜い自分を、どうしようもないダメな自分を――。

 暗い自分の部屋――。私は一人音楽を聴いていた。耳にイヤホンを当て、丸まるように自分の小世界に入り込む。イヤホンからCCOCOさんのRainigが流れていた。

『髪がなくて、今度は腕を切ってみた。切れるだけ切った♪温かさを感じた。血にまみれた腕で踊っていたんだ♪』

 私と同じ人がいる。初めてこの曲を聴いた時、私はその生々しい歌詞の内容とは裏腹に、この歌の中に温かさを感じた。

『それはとても晴れた日で~♪泣くことさえできなくて・・』

 私だけじゃない。私だけじゃない。自分を切り刻みたい人間は私だけじゃない。


 ――たった一人、たった一人で、孤独と絶望のただ中で悶え苦しんでいたあの夜に聴いたCCOCOさんのRainig。私だけじゃない。私だけじゃないんだ。この世界で死にたいと思っているのは私だけじゃないんだ。同じ絶望という共感でしか救いを感じることのできない歪な関係。でも、それは、その領域でしか感じることのできない確かなやさしさだった――


 私は食べることをやめた。拒食だった。もう、なんだか私という存在がどうでもよかった。自分が自分でいることに堪らなく無気力だった。もう、どうでもよかった。生きていたくなかった。こんな最低な人生を生きることに、もう私は疲れてしまった。


 ――空腹の中にも快感がある。拒食になっている時、私は苦しみながらもその中にどこか高揚した心地よさを感じていた。人間の体とはよくできているもので、物を食べないと飢餓の苦しみを和らげるために脳内で快感物質が出る。私はそれにも依存していた。いざ何も食べないと、それはそれで気持ちよく、そこから抜け出せなくなる。しかし、食べ始めればそれはそれでとまらなくなり、私はジェットコースターのような両極端な快感の中で、自分のコントロールを失っていく。そして、過食と拒食を繰り返し続けると、体重も増えたり減ったりを極端に繰り返し、当然それと共に私の体は壊れ、そして、それに連動して私の精神も壊れていった――


 もう何もかもがどうでもよかった。抵抗して飲まなかった精神薬も、私は医師に勧められるがままに飲むようになった。薬を飲むと、今までの悩みや苦しみが嘘みたいにかんたんに消えた。何とも言えない穏やかさと高揚感、時に快感が私を満たした。

 でも、それは一時だけ――、薬が効いているその一時だけ――。

 薬が切れると、私の心はまた元の混沌とした苦悩の世界に戻った。しかも、薬を飲む前よりももっと酷く。私は、地獄の亡者の如く、激しく、耐えがたい渇望にのたうつように苦痛に悶えた。

 でも、その一時の安らぎの中にしか、今の私には救いがなかった。その歪な一時の快感の中にしか、私は生きることができなかった。世界は耐えがたい永遠の絶望であり、完全な虚無だった。

 私は今日も与えられた精神薬を飲み、その一時の安穏の世界に沈み。浸った――。

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