第53話 廊下の向こう
「美由香」
だが、美由香は普通に廊下に立っていた。
「何があったの?」
私はその美由香の横に行き、訊いた。美由香の立っているその向こうは何やら人が集まり騒然としている。
「玲子が死んだんだよ」
「えっ!」
美由香はまるで日常の些細な出来事でも言うかのように言った。
「えっ?」
私は美由香をマジマジと見た。言っていることの意味が分からなかったし、信じられなかった。
「どういうこと?」
「だから、玲子が死んだんだよ」
私は慌てて、そこに集まる人たちの人垣をかきわけ、廊下の一番奥にある玲子さんの部屋の入口に立った。部屋からは玲子さんの好きだったクラシックピアノの曲が流れていた。玲子さんはこの曲をよく一人で弾いていた。それは、とても温かく玲子さんの人柄のような、やさしさに満ちた曲だった。題名は知らなかった。私はその曲の題名を玲子さんに訊こう訊こうと思っていたが、結局、訊きそびれてしまっていた。
玲子さんの部屋の入口は、扉は開いていたが、中を覗けないように病院スタッフたちがそこを固めていた。私はその脇から無理やり顔を出して、中を覗き込む。
「ああっ」
私は思わず声を出す。病院スタッフや看護師たちが蠢く部屋の真ん中で、何かが天井からぶら下がっているのが見えた。私はそれを見たくなかったし、認識したくないと思った。でも、見ざる負えなかった。
「・・・」
私はそれを見た。それは玲子さんだった。どす黒い顔の玲子さんが天井からぶら下がっていた。
「ああああ」
私の意志とは関係ないところの何かの感情から漏れ出すように、うめき声が漏れた。私はショックのあまり叫び出しそうだった。私の目は玲子さんのそのあの美しかった、でも今はどす黒く変色し、むくんで膨れ別人のようになった顔にくぎづけになった。見たくないのに、ぶら下がっている玲子さんから目を離す事が出来なかった。それは確かにあの玲子さんだった。
「あああああ」
どこから出ているのかそんな呻き声が私の口から呻くように漏れる。私は脱力し、その場にへなへなとへたり込んでしまった。
「玲子さん・・」
何がどうなっているのか、訳が分からなかった。
「玲子さんが死んだ・・」
信じられなかった。でも、それは事実だった。事実として、現実として、それは今目の前にあった。
「今年何人目だったかな」
そんな私の後ろで患者の一人がのんきな声で、隣りの患者に話しかけていた。
周囲の患者や職員たちは、普通の日常の中で、普通の何かを見るように、淡々としていた。目の前の非日常とその、あまりに日常的な雰囲気のギャップが奇妙だった。
「玲子さんが・・、玲子さんが・・」
私は美由香の下に戻り、震える声で美由香にすがりつくような姿勢で言った。
「玲子さんが死んじゃった」
私は玲子さんの部屋の方を指さす。私の体は震えていた。
「だから言ったろ、治ってないって」
しかし、美由香は勝ち誇ったようにそれだけを言った。
「美由香、玲子さんが死んじゃったんだよ」
私は背の高い美由香の顔を下から迫るように見た。
「・・・」
しかし、美由香はまったく無反応だった。
「玲子さんが死んじゃったんだよ」
私は重ねて言った。
「・・・」
しかし、美由香はやはりその場に立ったまま何の反応も示さなかった。
私は再び玲子さんの部屋へと戻った。部屋の中では丁度玲子さんの遺体が、病院スタッフの手で下ろされているところだった。
玲子さんの遺体は、職員たちの手で天井から下ろされ、床に横たえられた。こういうことには、みんな慣れているのだろう。その作業は淡々と進んで行く。効率よく、素晴らしい連携で、テキパキとそれは遂行されていった。誰の顔にも、目の前の仕事という以外の表情は浮かんではいなかった。それはあまりに、作業的だった。誰の目にも玲子さんの死は映っていなかった。
「あっ、おいっ」
私は思わず衝動的に、スタッフの間をすり抜け、部屋に躍り込んだ。そして、横たえられた玲子さんの遺体の前に立った。
「・・・」
目の前に玲子さんの遺体があった。顔の色は変色しているが、確かにそれは玲子さんだった。私はそれをどういう感情で受け止めていいのか分からないまま、ただ、何の感情も持てないまま見つめていた。
「・・・」
なんだかよく分からない、ぞわぞわとした何かが私の全身に這い上がって来た。
「はあはあはあはあ」
自分の呼吸が激しく、妙に耳障りに聞こえてきた。心臓がバクバクと大きく鼓動を打っている。全身の血が沸騰したみたいに逆流してくる。でも、外の世界は妙に静かで、私の周りをグルグルと回っていた。
「あああっ」
声が漏れた。何かととても原始的な声。人間が人間である以前に発していた声。
「ああああっ」
それは徐々に大きくなっていく。
「あああああっ、ああああっ」
私は頭を抱えてその場にうずくまった。
「ああああああああっ」
狂ってしまいそうに、もう狂ってしまった方が楽なのではないかと思うそんなサンダーストームのような感情の渦の中で私は叫んでいた。
「玲子さんっ、玲子さんっ」
私は叫ぶ。
「ああああああああっ、玲子さん」
私は叫んだ。
「あああああっ、あああああああああっ――」
――痛み。確かにあるこの痛み。いつだって壊れそうな私・・、でも、この痛みがあるから、だから私は、この私を保っていられる・・。それは誘惑だったのかもしれない――
「大丈夫?」
すぐに私の下に看護婦が一人飛んできた。看護婦が私の肩にやさしく手をかける。
「おいっ、どうする」
「とりあえず運んじまおう」
そんな私の前で、何事もなかったみたいに、また玲子さんの遺体は作業的に運ばれて行こうとしていた。
「なんか違うんじゃないですか」
私は看護婦を無視して、そのスタッフたちに叫んだ。その場にいた全員が一斉に私を見る。
「なんか違いませんか。死ってもっとこう・・」
感情が先走って上手く言葉が出て来ない。私はいつもこうだ。こんな時にさえ、私はそんな自分に自己嫌悪する。そして、またそんな自己嫌悪している自分に嫌気がする。
その場には変な奴が変なこと言い出したぞ。そんな何とも言えない空気が流れる。ここではこんなことは珍しくもない。彼らの目はそう言っていた。
「死ってもっとこう・・」
やっぱり、言葉が出てこない。
「大切に、大切にするもんなんじゃないですか」
ただ、玲子さんの遺体をもっと丁寧に、心を込めて扱って欲しいと、ただそれを伝えればいいだけなのに、なんだかすごく大げさな表現になっている。それを自分で気づきながら、でも、走り始めた言葉はなかなか軌道修正できなかった。案の定、スタッフたちは、呆れたような、めんどくさそうな表情を露骨に浮かべ私を見る。
頭のおかしな奴がなんか言ってる。そんな空気が完全にその場を支配していた。でも、私の感情はとまらなかった。玲子さんの死をもっと、大切にして欲しかった。玲子さんの死がもっと重大なことで、悲しくあって欲しかった。
「もっと、大切に扱ってくれてもいいんじゃないですか」
なんだか、玲子さんの死がすごくぞんざいに扱われている気がして、玲子さんの遺体がすごく尊厳なく扱われている気がして、私はそのことに耐えられなかった。しかし、そう言われても、職員たちは何を言われているのか分からず、きょとんとしている。
「大切にしているよ」
私に一番近い職員の若い男性が言った。
「違う、もっとこう」
私が再び叫び始めた時だった。
「さっ、あっちへ行きましょう」
私に寄り添っていた若い看護婦が、再び私の肩に手を掛けた。それは、やさしい口調ではあったが有無を言わせないものだった。だが、その瞬間私の何かが切れた。
「触るなぁ」
私は叫ぶと看護婦の手を激しく体を振って振り払った。自分でも驚くぐらいの怒声が出た。その場の空気がまた凍りつくのを感じる。その声を聞いた男性職員がすぐに寄ってきた。
「近寄るな」
私は激しく抵抗するが、こういうことには慣れつくしている男性職員たちは、構わずどんどん近づいてくる。私はその男性職員に両脇を抱えられるように取り押さえられた。
「離せぇ」
私は叫び、これでもかと手足をばたつかせ暴れた。暴れれば暴れるほど、私に対する態度は強められ、不利になることは分かっていた。でも、もう、私はとまらなかった。
「離せぇ、離せぇ」
私は声の限り叫び、暴れた。
「離せぇ」
もうそれは言葉にすらなってなく、金切声に近かった。
「早く、鎮静剤」
そこに騒ぎを聞きつけ医師が来た。
「はい」
看護婦がどこかへ走っていく。
「離せぇ、離せぇ」
そして、私は押さえつけられたまま鎮静剤を打たれた。
「・・・」
薄れゆく意識の中で、私は美しかった玲子さんを見た。
「玲子さん・・」
玲子さんは小さく笑っていた。
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