第52話 ぶっ飛ぶ

「なぁ~んだ。大したことないじゃん」

 飲んでから、しばらくしても、少しとろーんとした感じがするだけだった。

「これなら前の市販薬の方が・・」

 と、思った瞬間だった。なんだか急に体に力が入らなくなってきた。

「あれ?」

 と思っていると、今度はなんだか急に体が軽くなって来た。

「ええっ!」

 それは止まらず、どんどんどんどん体は気体になったみたいに軽くなって行く。

「わっわっ」

 このまま、飛んで行ってしまうのではないかと、恐怖が湧きあがる程、どんどん体が軽くなって行く。

「来たな」 

 美由香がにやりと笑い、そう言うのが見えた。

「あれっ?」

 ふと、天井を見上げると、なんだか、天井がグニャッと歪んで見える。

「あああぁ」

 そのまま歪んだ天井を見ていると、次の瞬間、腰が砕けて、後ろにあったベッド脇の壁に崩れ落ちるようにもたれた。それがなんだか、訳もなく可笑しくて、思わず笑ってしまった。ふと横を見ると、いつの間にかベッドにあおむけに寝そべっていた美由香が、私を見て笑っている。私も、そんな美由香を見てさらにおかしくなって笑う。その笑いが止まらなくなった。笑っても笑っても笑いが尽きることがなかった。

「ははははっ、腹いてぇ」

 笑い過ぎて死にそうなほど、お腹が痛かった。それでも次から次へ、笑いが込み上げてくる。こんなに笑ったのはいつ以来だろうか。

 死ぬほど笑い、笑い疲れ、私はベッドに仰向けになる。すると、今度は体がベッドの中に沈み始めた。それがまた何とも気持ちよかった。

「ああ~」

 もう何も考えたくなかった。このまま地球の底まで、永遠に沈んで行ってしまいたかった。体は沈殿した快楽の底にゆっくりゆっくり沈んで行った。そこにはなんの苦しみも悩みもなかった。私が経験したありとあらゆる苦痛は、今その心地よい快楽の中に溶け、消えていた。

「あああ~」

 なんて気持ちいいんだろう。この世界にずっと溶けていたかった。ずっと、ずっと、永遠に――。

 時間の感覚も、自分という感覚も薄ぼんやりとしていてよく分からなかった。とにかく気持ちよかった。

「こんな世界があったんだ」

 私はその心地よさにすべてを忘れた――。

 心地よさに中に私は沈んで沈んで――、そして、私の意識はどんどんぐぅーっと、眉間の中央の中心点に集まり始める。そして、その集中が極に達した時――、

「えっ?」

 急に私の体が消えた。かと思うと、私の意識は宇宙へとぶっ飛んでいた。まさに、美由香の言う通り、私はぶっ飛んでいた。

「・・・」

 私は宇宙と一つになっていた。それは、何とも形容しがたい気持ちのよい感覚と万能感だった。私は神よりも偉大な世界と一体だった。私は無敵であり永遠だった。

「人間はなんてちっぽけなんだろう・・」

 そんなちっぽけな自分が悩んでいたことの小ささを思った。なんてことない。私が今まで散々苦しんだり悩んだりしたことなんて、全然大したことない。そんなことは滅茶苦茶どうでもいいことだった。


 ――高校に行けなくなって部屋に引きこもった私は、世界のすべてが絶望で恐怖だった。

「私って何?」

 私は私が分からなかった。

「私は何なの?」

 そんな自分が怖かった。怖くて怖くて、どうにかなってしまいそうだった。私は特別にダメな人間な気がした。私は特別におかしな人間がした。

「何で私はこんななの・・」

 何で私は、みんなと同じじゃないの?不安――。

「私・・、私・・」

 私は私が分からなくて、自分がなんなのか分からなくて、そんな自分がただただ恐ろしかった――。



 ―――



 なんだか、胸の辺りが気持ち悪い。でも、まだ寝ていたかった。私は寝ている姿勢を変えた。しかし、胸のむかつきは消えず、それどころかどんどん増していく。さらに私は姿勢を変えた。しかし、胸のむかつきは変わらなかった。私は耐えきれず目を覚ました。

「痛たたた」

 固い床の上で不自然な姿勢で長時間寝ていたせいだろう、上体を起こすと体の節々がギシギシと鳴るように痛い。

「・・・、あれ?」

 いつの間にか私は床に寝ていた。そのことに気づく。

「・・・」

 だが、昨日の私と今の私が繋がらない。何でここに自分が寝ているのかが分からなかった。

「ううううっ」

 頭も痛い。私は片手で頭を押さえる。

 段々胸のむかつきは吐き気に変わってきた。吐き気に耐えきれなくなった私は割れそうに痛い頭を押さえ、体を起こし立ち上がった。

「う~」

 あまりの気持ち悪さに、うめき声が漏れる。

「私どうしてこんなことになってんの」

 必死で頭の中を探るが、やはり上手く思い出せない。

「そうだ、美由香」

 私は薬を飲む前のことを思い出した。しかし、部屋の中に美由香の姿はない。真紀の姿もなかった。

「・・・」

 私は部屋に一人きりだった。そのことに妙な寂しさと心細さを感じた。

 私は必死でベッドに這い上がると、やっとの思いでそこにうつぶせた。気持ち悪過ぎて、それすらがしんどかった。

「あ~、気持ち悪い」

 美由香はどこへ行ったのだろう。うつぶせに寝ていると気持ち少し楽だった。時計を見るとまだ、朝の五時半だった。窓の外は少し白んではいるが、まだ薄暗い。私は、苦しみに耐えかね、少しでも楽になろうと目をつぶった。そして、私は力尽きるように、気持ち悪さを超え、そのまま眠ってしまった――。

「ううう~ん」

 私は再び目を覚ました。時計を見ると七時を少し過ぎていた。

「あれっ」

 いつも六時を過ぎるとすぐに看護婦が起こしに来るのに今日は来ていない。そこのことに違和感を覚えた。 

 気分は少しよくなっていた。何とか歩けそうな感じがした。私はふらふらとベッドから起き上がる。

 私は、部屋の扉を開け、洗面所へ向かった。吐き気がしていて、吐きそうだったけど何も吐けなかった。私は諦めて洗面所を出た。その時、喉がものすごく乾いていることに気づいた。私は水を飲むため再び部屋に戻ろうとした。

「ん?」

 その時初めて、私は病棟に漂う何かいつもと違う違和感に気づいた。なんだか病室の連なる廊下の奥の方が騒がしい。何かあったのだろうか。でも、私は、あまり気にせずそのまま自分の部屋へと向かった。あまりに喉が渇き過ぎていたし、ここでは、何か起こっている事の方が日常だった。

 しかし、部屋でペットボトルのお茶を一気に飲み干し、人心地つくと、さっきの騒ぎが気になり始めた。私は部屋から顔を出し廊下の奥を見た。やはり、なんだかいつもと様子が違う。いつも確かにここでは色々と起こる。だが、それはそういったものとは何かが違っていた。

 その時なんだか嫌な予感がした。それはドロッとした、粘つくような何とも言えない気持ち悪さだった。

「美由香・・」

 この時、なぜか私は美由香のことを思い浮かべた。

「意外な人間が、意外と突然自殺すんだぜ」

 昨日美由香が言った言葉が、私の胸に堪らない不安を湧き上がらせた。

「美由香っ」

 私は廊下の奥へと走った。

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