第40話 嫌いな私

「お前は油断するとすぐ暗い顔するな」

 今日ものんびりし過ぎるくらいの午前のひと時に、共有スペースのいつものソファでコーヒーをすすっていると、美由香がやって来て私にぶしつけに言った。物思いにふけり、私はかなり暗い顔をしていたらしい。

「えっ、う、うん・・」

 以前にも誰かに似たようなことを言われたことがあり、自分でもそのことに自覚があった。私のマイナス思考は、もはや私そのものになっていた。

「何をそんなに悩むんだよ」

「えっ・・、うん・・」

 そうあらたまって訊かれると困る。

「私治るのかなって」

「こんなとこいたって治らねぇよ」

 美由香は即断する。

「じゃあ、なんで美由香はここにいるの?」

「外よりましだから」

「まし?」

「そう、まし」

「・・・」

「いてやってんだよ。あたしは。だから、出たくなったら出るんだ」

「・・・」

 そんな精神病院の入院の仕方があるという発想に、私は目からうろこに驚く。よく考えれば、そもそも、ここは精神病院、心の病院なわけだし、私は悩んでいていいわけだし、だからこそ、私はここにいるわけだった。美由香の方がなんかおかしいのだが、でも、美由香のそういうところが私は好きだった。

「やあ」

 その時、誰かから声をかけられた。直志(なおし)さんだった。

 私も直志さんに、右手を上げてあいさつを返す。直志さんはこの病院で清掃や雑務をやってくれている人だった。私のいる病棟にも定期的にやって来る。

「君はいつもそこだね」

 直志さんは気さくな笑顔で私に話しかける。

「うん」

 直志さんは好青年といった感じの人で、私たちみたいに心を病んだ人間にも気さくに話しかけてくれる。今日も何とも人好きのする気さくな笑顔だった。

「あいつお前のことが好きなんだぜ」 

 直志さんが掃除の準備を始めるために私たちから離れると、美由香が急に私に顔を近づけ言った。

「えっ」

 私は驚く。そして、掃除に取り掛かる直志さんのその背中を見る。

「えっ、そんなこと・・」

「間違いないな」

 美由香も私の視線を追うように、私と同じように、いつものように慣れた手つきで廊下の掃除を始める直志さんの背中を見る。

「お前は何も感じないのか?」

「えっ」

 何も感じていなかった・・。私はものすごく鈍い人間だった。もともと普通の人間関係ですら、それで失敗している。

「どうすんだよ」

 美由香が身を寄せ私の肩を抱く。

「えっ?どうするって?」

 私はすぐ真横の美由香を見る。

「誤魔化すなよ」

「えっ」

「お前はどうするかってことだよ」

「私・・、私は・・」

 私は顔が熱くなる。多分、真っ赤になっているに違いない。

「私なんか・・」

 私みたいな、ブスを好きなるはずなんかない。こんな醜い、痩せ過ぎていて、病気で・・、頭がおかしくて・・。こんな人間を誰かが好きになるはずなんかない。

「おっ、お前もまんざらでもないって感じだな」

「えっ、私・・」

 頭が沸騰して、何も考えられなかった。

「真知子ちゃん?」

 その時、突然、看護婦さんに声をかけられた。

「はい」

 私は顔を上げる。

「お母さんが面会に来ているわよ」

「・・・」


 面会室に入ると、母が一人、前回と同じように部屋の中央に置かれた机の前に座っていた。やはり、その顔にはどこか怯えた表情があった。私はその表情に瞬間的な嫌悪を抱く。

「・・・」

 私はふてくされたように黙って母の向かいに座った。

「どう?病院は、慣れた?」

 母が勤めてやさしく話しかける。そこにはやはり、どこかおどおどとした怯えがあった。

「・・・」

 私は黙っていた。近くで見る母は、少しやつれたような気がした。多分、私のせいだ。ズキッと胸が痛む。自分の――。自分の罪を、そこに見る気がした。胸の奥からせり上がる自責の念が、私を苦しくさせる。

 母のことが心配な私と、母のことが嫌いな私が、ごちゃ混ぜになって鬩ぎ合い、私の心をかき乱す。

 

 ――幼い頃に行った親戚の結婚式。隣りの席のおばさんがあまりに大人しく静かな私に驚き、母にうらやましいわとしきりに言ってた。母も心無しうれしそうだった――


 何不自由ない生活。母も父もやさしかった。私も素直で育てやすい子だった。

 いつからこうなってしまったのだろう――。もう昔の、あの無邪気な親子の関係には戻れない。そんな気がして、堪らなく悲しくなった。

「病院を脱走したって聞いた時、とても、心配したのよ。お父さんも仕事を早くに切り上げて、まちちゃんを探しに町に行ったのよ」

 そういうのが嫌だった。干渉されるのが堪らなく嫌だった。それが、いかに正しく、理屈にあっていたとしても、生理的に許せなかった。

「・・・」

 私は黙り続けていた。それが母を傷つけると知りながら――。 

 母さんは何も悪くなかった。何も。悪いのは私だった。全部悪いのは私だった。母さんはむしろできうる以上のことをしてくれている。私の我がままにも、私を見放さず、我慢して、つき合ってくれている。それでも――、それでも――、許せない何かが私をコントロール不能にしていく。

「まちちゃ・・」

 話の途中で私は、黙って立ち上がると、面会室を出た。

「・・・」

 私は一人自分の部屋に入る。母を傷つけ、堪らなく私も傷ついていた。しかし、根拠のない得体のしれない憎しみが私の心を支配し、どうしようもなく母を憎んでしまう。多分、私は自分の不幸を母のせいにしている。しかし、それが分かってもどうしようもない自分がいる。

「なんで私はこうなんだろう・・」

 私は自分が大嫌いだった。嫌いで嫌いでたまらなかった。

「うううっ」

 私はベッドに顔を埋め泣いた。

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