第41話 玲子さんのピアノ
レクリエーション室の前を通ると、中からピアノの音が聞こえてきた。
「玲子さんだ」
すぐに分かった。私はレクリエーション室の扉を開け、中に入る。やはり、玲子さんが一人ピアノを弾いていた。
それは、本当に美しい旋律だった。極限まで研ぎ澄まされ、整ったきめ細やかな、才能と努力の結晶の先にある選ばれた人だけが奏でることのできる音。クラシックなど欠片も分からない私ですらが、その美しさに感動するほどだった。
パチパチパチパチ
玲子さんがピアノを弾き終わると、私は一人拍手をした。そんな私に気づいて玲子さんは、笑顔を向ける。
私は玲子さんの隣りに行く。玲子さんは座っていたピアノ用の長椅子から少しお尻を右にずらして、私が座るスペースを作ってくれた。私は玲子さんのすぐ隣りの空いたそこに座る。密着するような距離の玲子さんは、今日もきれいで、どこかいい匂いがした。
透き通るような白い肌、気品のある整った顔立ち、美しい肩まで伸びた髪。しかも、ピアノがプロレベルでうまい。劣等感を飛び越えて、すべてがうらやましかった。
「すごいですね」
私が興奮して言うと、玲子さんは笑った。
「うらやましいな」
こんなにきれいで、こんな風にピアノが弾けたなら、さぞかしその人生は素晴らしいに違いない。
「私、玲子さんがうらやましいです。すごくきれいで、ピアノもうまくて、すごく頭もよくて、やさしいし」
私は玲子さんみたいになれたらどんなに幸せだろうかと思った。私が玲子さんみたいにきれいだったら、摂食障害になんてなっていなかっただろう。こんな卑屈な人間にもなっていなかっただろうし、友だちもいっぱいできて、男の子たちからもちやほやしてもらえて、明るく生きていたに違いない。
「・・・」
しかし、玲子さんは黙っている。
「私、玲子さんみたいにきれいだったら、こんな病気にならなかったのに・・」
私はさらに言った。
「そう・・」
しかし、玲子さんは気のない感じでそれだけを言う。その表情にはどこか悲し気な気配さえ滲ませている。
「・・・」
私は困惑する。褒めたつもりだったのに、反応はその逆だった。
「私は普通になりたかったわ」
「えっ」
玲子さんはぼそりと言った。私は驚く。
「・・・」
玲子さんのその表情の奥に、何か強烈な感情が滲んでいた。
「令子さんはなんでここに入院してるんですか」
私は訊いてみたかった。訊いてはいけないことかもしれないけど、今なら聞ける気がした。
「私は完璧じゃなきゃダメなの」
「えっ」
私の思いを察したのか、玲子さんの方から口を開いた。
「すべてが完璧じゃないと、壊れてしまうのよ」
「・・・」
「毎日毎日ピアノの練習をして、コンマ何ミリの音のズレやリズムのズレに神経をとがらせて、その世界に入り込んでいるうちに、なんだかあいまいさとかいい加減さが許せなくなった」
「・・・」
「すべてのズレが気になるようになって、それが、堪らなく不快に感じた。音やリズムだけじゃない。人の仕草や話し方、見た目、勉強、すべてが許せなかった。ちょっとした世間話の中でさえ、話の内容に論理性の矛盾が少しでもあるとそれが気になった」
いつもは余計なことはあまりしゃべらない玲子さんが、矢継ぎ早に話をする。
「すべてが美しくなきゃいけないのよ。すべてが整っていなきゃいけないのよ。すべてが完璧じゃなきゃダメなの」
「・・・」
そう語る玲子さんの表情に、狂気の色が浮かんだ。以前、美由香たちと病院を脱走した時にチラリと見たあの表情だった。私はそんな玲子さんに少し怖くなる。
「みんなは真知子ちゃんと同じことを言うわ。あなたがうらやましい。女性として完璧だって、あなたみたいになりたいわって」
「・・・」
「でも、私は私が嫌い」
「えっ」
「大っ嫌い」
玲子さんは叫ぶように言った。
「私は、もう、気が狂いそうだった・・」
「・・・」
「テストも百点じゃなきゃダメなの。少しのミスも許せなかった。全部書き終わっても何度も何度も確認して、テストの時間が終わっても、気になって気になって、夜も眠れなかった」
「すべてが気になった。同級生の視線、表情、目の色、みんな心の底では私をバカにしているんじゃないかって、醜いと思っているんじゃないかって、不安で不安で堪らなかった」
「そんな・・」
玲子さんみたいなきれいな人がそんな・・。信じられなかった。
「私は狂気の世界に生きていたのよ」
その時の玲子さんの目が、冷たい月のように怪しく光った。
「私はきれいなんかじゃない」
玲子さんが呟くように言った。
「私はきれいなんかじゃない」
そして、玲子さんが頭を抱え、絶叫した。その少しウェーブのかかった美しい細い髪が激しく揺れる。
「私はきれいなんかじゃない。私は醜い。醜いの。全然きれいじゃない。私は完璧じゃない」
玲子さんは絶叫しながら頭を抱えうずくまった。肘がピアノの鍵盤に触れ、ジャ~ンというものすごい不協和音が部屋全体に響き渡る。
「玲子さん」
私は堪らず玲子さんの肩を抱く。
「私は醜いの。きれいじゃない」
「玲子さん」
壊れていく玲子さんに、私はどうしていいのか分からず、おろおろするばかりだった。
「きれいじゃない」
玲子さんが叫ぶ。
「玲子さん」
玲子さんの背中は震えていた。丸まったその背中は震えていた。
「どうしたの」
そこに、看護婦さんが二人、玲子さんの叫び声を聞きつけレクリエーション室に勢いよく入って来た。
「落ち着いて、芦原さん」
看護婦さんはすぐに、私を押しのけるようにして玲子さんを囲む。そして、さらに応援に来た看護師たちが、錯乱する玲子さんの両脇を抱えるようにして、そのままどこかへ連れて行ってしまった。
「・・・」
私は呆然とその玲子さんの連れていかれていく姿を見つめていた。
「ああいうマジメなタイプが一番危ないんだよ」
戸口の方で声がして、私はその方を見る。美由香だった。
「美由香・・」
「あ~あ、せっかく退院間近だったのにな」
美由香は他人事みたいに言う。
「また、退院が伸びたな、あいつ」
美由香はまったく、心配している素振りもない。
「玲子さん・・」
壊れた玲子さんをダイレクトに見てしまったショックが、まだ私を支配していた。玲子さんはやっぱり、心を病んでいるんだ・・。
憧れの存在だった玲子さんの、今まで認めたくなかったその現実を、私は目の前で見てしまったことに、どこか罪悪感にも似た苦しさを感じていた。
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