第39話 反抗
「・・・」
朝食が終わり、特に何もない午前の暇な時間。私は何となしに、共有スペースの窓から外を眺めていた。山と空、木々、雲、毎日見ている同じ景色で、もはや何も目新しいものは感じはしなかったが、外への憧憬なのか、気づくと私はむやみと窓の外を見ている。
基本自由に外に出ることは許されていなかった。各施設は外から鍵をかけられ、許可なくしてどこへも行けなかった。この目の前の窓も開けることはできなかったし、分厚い強化ガラスで武装され、開けられる小窓は鉄格子がはまっていた。大げさに言えば、ここはほぼ刑務所と同じであった。
いったいつまで私はここにいるのか、そもそも、私に回復などあるのだろうか。何も分からないまま、どうしていいかも分からず、しかし、ここにいるしかない日々。
「・・・」
健全に学校に通い、当たり前の青春を謳歌している同級生たちの姿が浮かぶ。今さら私が、その中に戻れるのだろうか。戻れたとして、結局、孤独な私がいる――。
――ある日、私の机の上に手紙が落ちていた。それを開けると、「まちってキモイよね」と書かれていた。その手紙がなぜ置かれていたのかは分からなった。わざとなのか偶然なのか・・。しかし、それからクラスのすべての人間が私をそういう目で見ているような気がして、教室という空間のすべてが不安の霧に覆われた――
しかし、ここにいることにどこか居心地のよさを感じている私がいた。ここには私を傷つけてきたすべてのものがなかった。意地悪な級友。息苦しい教室。刺すような視線。疎外、格差、階級、差別、いじめ、競争、テスト、評価、抑圧――。
私はここに隔離されている。だが、私は同時に守られている。
最近、私はコーヒーにはまっていた。私は小さい頃からお茶派で、両親はいつも朝からコーヒーを飲んでいたが、私はまったく飲まなかったし、飲みたいとも思わなかった。だが、ここに来て、玲子さんや美由香、真紀までが飲んでいるのを見ているうちに、私も飲むようになっていた。そして、コーヒーはなぜかタバコによく合う。
「なんだかおっさんになった気分だな・・」
私はコーヒーをすすりながら一人呟く。コーヒーもタバコも決して健全な清々しい意味での心地いいものではないが、なぜか一度はまるとこれがなかなかやめられない。何とも言えない淀んだ依存性があった。自分を傷つけながらでも、しかし、一時の快楽に身を委ねるしかない目の前の苦しみからの解脱。世の人々がなぜ、これにはまるのか不思議だったが、自分がはまってみてそれがなんとなく分かったような気がした。
「・・・」
大人になるとはこういう発見の繰り返しなのかもしれない。私は思った。
その時、共有スペースに看護婦長の田中がやって来た。彼女がやって来ると、その場に緊張感が走る。患者も看護スタッフもみんなどこか彼女を恐れていた。私も出来ることなら関わりたくなかった。しかし、田中婦長はそんなコーヒーをすする私に近づいて来る。
「ちょっといいかしら」
そして、田中婦長はいつもの定位置のソファに座る私の前に立った。今日は、美由香も玲子さんも真紀もいなくて、私一人だった。
「あ、はい・・」
私は姿勢を正して答える。やっぱり、なんか怖い。
「有本さんとつき合うのはやめなさい」
田中看護婦長はいきなり開口一番単刀直入になんの変化球もなく言った。
「・・・」
この時、美由香が有本という性だと私は初めて知った。
「あの子とつき合っていたらあなたがダメになってしまうわ」
「・・・」
「つき合うのをやめなさい」
「・・・」
私は突然のことに、何も言えないでいた。
「いいわね」
ものすごい言葉と眼光の圧を感じる「いいわね」だった。有無を言わせない問答無用の圧力があった。
「・・・」
「いいわね」
何も言わない私に、それをさらに被せてくる。
「・・・」
私はその圧倒的な圧の前に、固まっていた。田中婦長の目には、まったく話し合う余地のない強固な絶対があった。
「なんであなたにそんなこと言われなきゃいけないんですか」
しかし、なぜか、気づくと私は言い返していた。普段絶対に大人に逆らわない私が、逆らっていた。自分でもそんな自分に驚く。田中婦長も驚いている。
「私が誰とつき合おうがあなたに関係ないでしょ」
でも、とまらなかった。なんだか、どうしても許せなかった。美由香とつき合うなと言われたことよりも、美由香のことをそんな風に言われるのがどうしても許せなかった。
「あなたのためにならないからです」
だが、田中はまったく動じた様子もなく断固として言い返してくる。
「そんなことないです」
そう、美由香は友だちだった。人生で、私の人生で初めてと言っていいくらいにできた友だちだった。病気かもしれないけど、変な人間かもしれないけど、友だちだった。
「あなたはここに何しに来たの?」
「ううっ・・」
口下手な私は、勢いで逆らったものの次の言葉が出てこない。
「あの子は決して人を幸せにする人間ではないわ。だから、あなたもつき合うのをやめなさい」
田中婦長が釘を刺すように言ってくる。
「そんなことないです」
私はなぜかその言葉に異常に腹が立った。さらに口答えしてくる私に田中婦長は驚いている。
「悪影響があるわ」
「なんでそんなこと言われなきゃいけないんですか」
私は大きな声を出した。今までの気の小さな私の人生の中でこんな声を他人に、まして大人に出したことなど一度もなかった。
「何でそんなことあんたに言われなきゃいけないんですか」
そして、泣いた。興奮し、その興奮が、逆の針に振れ、私は堪らず泣いてしまう。もともと気の小さな私は、大きな声を出すだけでもう限界だった。
「なんで・・、ううっ」
こんなことで泣いてしまっている自分を恥ずかしいと思ったが、でも、涙はとまらなかった。
「・・・」
突然泣き出す私を、呆然とした表情で田中婦長は見ていた。
「・・・」
この子はどうしようもないという、呆れ切ったそんな表情がありありと田中婦長の顔に浮かんでいた。
「私が誰とつき合おうが私の勝手です」
それでも、泣きながら、なんとか最後にそれだけを言った。
「あなたのためです。忠告はしましたからね」
今はもう何を言っても無駄だと悟ったのか、最後にそう言って、田中婦長は去って行った。
「うううっ、うっ、うっ」
田中婦長が去っても私はまだグズグズと泣き続けていた。そして、遅れて体が震えてきた。やっぱり、私は気が小さく、弱い人間だ。そう思った。
共有スペースにいたすべての人間が、好奇心なのか、憐れんでいるのか、そんな私を見ている。その視線を感じた。恥ずかしくて、惨めで、情けなくて、私はとにかく最低な気持ちだった。
「やるじゃん」
そんな私の肩を誰かが叩いた。美由香だった。なんだかちょっとうれしそうな表情をしている。私もなんだかうれしかった。
「ふふふっ」
「ふふふっ」
私たちは顔を見合わせ笑い合った。
「タバコ吸いに行こうぜ」
「うん」
私はこれで幸せだった。私は間違っていない。そう思えた。
「おう、朋花じゃねえか。何やってんだよ」
中庭の喫煙所のいつもの場所に行くと誰か先客がいた。
「見りゃ分かるだろ。タバコ吸ってんだよ」
あの以前に美由香が声をかけていた痩せた子だった。
「お前たち外に出たんだろ」
朋花が睨むように私たちを見る。
「ああ、楽しかったぜ」
美由香が答える。
「何であたしを誘ってくれなかったんだよ」
「ああ、わりい、わりい、今度は絶対誘うよ」
「頼むぜ」
「ああ、間違いない。今度は絶対誘う」
朋花は、美由香を睨みつけるように見てから、また煙草をとてもまずそうにぷかぷかとふかす。
「コラーッ」
そこに突然大きな声が響き渡った。中庭にいたみんながその声の方を見る。
みんなの想像通り、やはり、それは田坂さんだった。田坂さんは今日も地球の平和のために宇宙人と戦ってくれていた。
「コイツも拒食症なんだぜ」
美由香がその朋花という子を私に紹介するように言う。
「あたしは拒食症じゃねぇって言ってるだろ」
だが、朋花は怒り出す。
「ああ、そうだったな」
美由香が半分笑いながら答える。
「なんであたしが病気なんだよ」
朋花はタバコをものすごい勢いでぷかぷか吸いながらプリプリと怒る。
「あたしは太りにくい体質なんだよ。三十キロ台があたしの適正体重なんだよ」
「ああ、分かった分かった」
美由香は朋花をなだめるように肩を叩く。美由香もこの朋花という子には、少し手こずっている。朋花という子は、なかなか厄介なタイプのキャラクターらしい。
「こいつ、田中に逆らったんだぜ」
それで、美由香は話題を変え、私の肩に手を乗せながら言った。
「マジ?」
朋花が驚いた顔で私を見る。
「えっ」
その反応に逆に私が驚く。
「命知らずだな」
「そんなに?」
なんか自分が大変なことをしてしまった気がして怖くなってくる。
「こいつはこう見えてすげぇ奴なんだよ」
美由香が体を寄せ、私の肩を抱く。そんな私を朋花が、ちょっと尊敬のまなざしで見る。
「・・・」
だが、そんなにすごいことなんだと、なんだかものすごく大それたことをしてしまった気がして、私は不安になった。
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