第23話 怠惰な日々

 病院での日々は単調なものだった。朝六時起床。七時半朝食。十二時昼食。六時夕食。十時就寝。決まった時間に起き、決まった時間に用意された食事をし、決まった時間に寝る。基本、週に一度の医師と数分間の面談。同じく週に一回のカウンセリング。これはボイコット。時々、レクリエーションやら散歩に参加するよう促されるが、それも強制ではない。後はまったくの自由。ここでの生活は退屈との戦いの方が長かった。

 まったくの拍子抜けだった。治療らしい治療もなく、具体的なアドバイスも特になく、なぜ、私はここにこうして入院しているのか分からなくなってくる。

「でも・・」

 でも、なぜか、ここに来てから私の摂食障害は落ち着き、そして、精神的にも安定していた。強迫観念的な寂しさや不安、絶望感、自己攻撃、自己嫌悪は薄れ、なりを潜めていた。

 今日も、完全にだられけきった私は、すでに日課となった共有スペースで他の患者たちとテレビをぼーっと眺めながら、ソファーにだらしなく横になっていた。私はパジャマ姿だった。もう、昼近くになっている。一日中パジャマでいても、誰も何も言わない。

 そんな私の周りでは、いつものように、なぜか白髪の小柄な少女のこのみちゃんが、同じところを何度も彷徨うように行ったり来たりを繰り返し、窓辺では、顔に大きな傷跡のある女の子、香澄(かすみ)ちゃんが延々と窓の外の虚空を眺め続けている。その隣りのソファーでは相撲取りみたいに太った宏美ちゃんが独り言をぶつぶつとつぶやき続け、時々、奇声を発している。

 彼女らは、日がな一日何をするわけでもなく、ただ、同じ毎日を繰り返し、私はそんな日常に慣れていく。来る日も来る日も、そんな同じ日常の繰り返しが繰り返され、多分、これからもずっと、それは繰り返され、そんな日常と私は一体化する。そんな日常に疑問すら感じない。そんな日常が繰り返される。それも、まあいい。そんな風にまで思い始めていた。怠惰な日常が常態化し、私はそれに安穏とし始めている。これじゃダメだ。そんなことを無気力な頭で思ったりもする。が、それも長続きはしない。

「こんなことしていて、自分が変われると思えないんですけど・・」

 ある日、週一回の診察の時に榊さんに言ってみた。

「焦っちゃダメよ。少しずつよくなっていくから」

 にこやかにそう返されて、終わりだった。今日も診察はあっという間に終わった。トータルで十分もなかった。

「そんなものなのか・・」

 そう思って、それからは余り深く考えるのをやめた。日常から切り離された日常。なんだかおかしな感じだ。でも、それが、今の私の日常になり始めていた。

 正直、ここは居心地がよかった。私が変でも誰もいじめないし、仲間外れにもしない。同級生の視線に怯え、卑屈になる必要もなかった。太っていようが痩せていようが誰も私を見下す者はいなかったし、笑ったりする者もいなかった。病気で頭がおかしくたって、ここではそれが当たり前だったし、もっとすごい人たちが山ほどいる。

 先生や大人たちの評価を求められることもない。大人たちの顔色をうかがう必要もなかった。

 ぎくしゃくした家族との緊迫した、お互いを無言で傷つけ圧する、歪な日常もない。

 それに、ここには友だちがいる。同じ仲間がいた。


 ――小学校低学年の時だったと思う。私はある日、堪らなくなって、母に学校が辛いと言った。しかし、「バカなこと言ってんじゃない」母のその一言で、そんな私の言葉はかんたんに一蹴されてしまった。

 母は、学校が楽しくて仕方なかった人で、でも、家が貧乏で大学に行けなかったような人だった。あまりに私と世界観がズレていて、私の気持ちなど、端から分かるはずもなかった。

 それから、このことは人に言っても分かってもらえないんだと、私は理解し、口を閉ざした――。


「私も美由香と同じ病名もらったよ。境界性人格障害」

 私は、今日も真紀と一緒に私の部屋に入り浸り、私が母親に差し入れてもらった女性雑誌を読んでいる美由香に言った。

「おっ、やったな」

 美由香が雑誌から顔を上げる。

「うん」

「お前も一人前だよ」

「変なとこまねしちゃだめよ」

 そこに玲子さんが部屋に入って来て、そんな私たちの会話に入って来た。

「境界性人格障害は、最強の病気なんだぞ」

 美由香が以前言っていたことを、さらに強調して誇るように玲子さんに言う。

「はいはい」

 多分、いつも言っていることなのだろう。玲子さんは適当に受け流す。そして、ベッド脇に座った。

「美由香の病気がうつったのかな」

 私が冗談めかして言った。

「お前が成長したんだよ」

 美由香が言った。

「そっか」

 私と美由香は笑った。それを、ポカンと真紀が見つめ、玲子さんが呆れる。

 私はうれしかった。美由香と同じ病気であることが。いつもどこに行っても、周囲と馴染めず、友だちも出来ず、孤独だった私は、でも、ここでは自然と友だちができて、その輪の中にいる。そのことが、私を堪らなく高揚させ、幸福を感じさせた。

 ただこうして、だらだらとだべっているだけでそれだけで私は幸せだった。ただ同じ部屋にみんなと一緒にいるだけで幸せだった。それだけでたまらなく私は幸せだった。

「というかここは何なの?」 

 私が美由香を見る。

「いまさらかよ」

「うん・・」

 よく考えるとここがどういう病棟か深く考えていなかった。

「ここは思春期病棟」

 美由香がベッドの上に寝そべりながらだるそうに答える。

「思春期病棟・・」

「そっ、だから、十代の若い女しかいないよ」

「そうなんだ・・」

 そう言われてみれば、そうだった。

「若い男でもいればなぁ。少しは張り合いもあるんだがな。なあ、玲子」

 美由香が玲子さんを見る。

「ここに何しに来ているのよ」

 ベッド脇に座った玲子さんが呆れる。

「マジメだねぇ」

 美由香が肩をすくめる。

「ここって、なんか学校みたいにうるさくないね」

 私が言った。

「たんに怠けてるだけさ」

「そうなの」

「ああ、またナースセンターの奥でテレビドラマかなんか見てんだろ。せんべいバリバリ食いながらさ」

「そうなの」

「いつもそんなさ。いい加減なもんだよ。精神病院なんて。患者なんてみんな頭のおかしいアホだと高をくくってるからな。さぼり放題さ。誰かに訴えても頭のおかしな奴の言うことなんて誰も聞かないしな」

「そうなんだ」

「ううっ」

 その時、女性雑誌に映るきれいなモデルさんの写真を見ていた真紀が、急に頭を抱えて呻き出した。

「どうしたの」

 私は慌てる。

「大丈夫だよ」

 しかし、美由香は落ち着いている。

「でも・・」

「いつものことだよ」

「ううっ、ダメだ」

 真紀は頭を抱え苦しそうに叫ぶ。真紀は時々自分の世界に入ってしまうことはあるが、今回はなんだか苦しそうだ。

「分裂だよ分裂」

 美由香が言う。

「・・・」

 しかし、真紀は苦しそうだった。私は心配になる。

「しばらくしたら、戻って来るから心配ない。いつものことさ」

 美由香はもう慣れているのかまったく取り合わない。玲子さんが真紀の隣りに座り、真紀の肩を抱き寄り添う。私も真紀が気になる。

「でも、ここは古いけど、割かしいい病院なんだぜ」

 だが、美由香は苦しむ真紀のそのすぐ隣りで呑気に会話に戻る。さっきの話の続きらしい。

「そうなの」

「ああ、他の病院なんて、たこ部屋で、患者もみんなごちゃまぜで、看護とか診察も滅茶苦茶いい加減らしい。他の病院から来た奴が言ってたよ。ここは天国だって」

「・・・」 

 ここが天国・・。

「あたしらは恵まれているらしいぜ」

「・・・」

 そうなのか・・。

「私が恵まれている・・」

 私が初めて考えることだった・・。

「・・・」

 私は頭を抱え苦しむ真紀を見つめながら、そのことをどうとらえていいのか戸惑った。

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