第2話 流れゆく灰色の景色
ある日、私の知らない大人たちが突然、家に上がってきた。二階の自室にいた私にも、その音や雰囲気でそれが分かった。
「真知子ちゃん、ちょっといい」
そして、しばらくすると、母が二階に上がって来て、怯えた声で私の部屋の扉をノックした。
「・・・」
私は何か嫌な予感がしたが、もう逃げられない、そんな予感もした。
一階のリビングに下りて行くと、そこに、両親と、大学入学を機に実家を離れ、家にいないはずの兄がいつの間にか戻って来ていて、両親と一緒にテーブルに座っていた。そのことにまず驚き、そして、両親の隣りに見知らぬ年配の女性が座っていることにまた驚いた。その女性の後ろには、病院関係者と思われる制服を着た二人の若い男の人が立っていた。
「・・・」
見知らぬ人間が家にいることの違和感と、兄の存在に私は少し困惑する。兄は普段家の厄介ごとにはまったく関わろうとしない人間だったが、こういう時だけは必ず要領よくいたりする。多分、私に内緒で両親は、兄にいろいろ相談していたのだろう。
「真知子ちゃん、初めまして」
私が黙って同じテーブルに座ると、年配の女性がやさしく話しかけてきた。
「私は榊と言います。あなたのご両親から相談を受けてね・・、真知子ちゃんの助けになればと思って今日は来たの」
ジブリの映画にでも出てきそうな年配の、少しふくよかなその女性は、人のよさをその顔いっぱいに溢れさせるようにしてにこにこと話をする。
ああ、やっぱり・・。
私はこの時、その人が本題を切り出す前に、すべてを悟った。いつかこういう日が来ることを、私はなんとなくいつも頭のどこかで想像していた。誰からも侵されたくない私の引き籠った内なる世界が壊れる日。そこに侵入してくる部外者。
だが、その現実とは裏腹に、私は別に特別取り乱すこともなく、自分でも驚くほど冷静な自分がいた。しかし、それが今だという現実感の無い錯誤に似たあやふやな感覚が、目の前の現実の光景と上手くつながらず、不可思議に私を分裂させた。
「お父さんもお母さんも、とても真知子ちゃんのことを心配されていてね・・」
榊さんの話は私の頭のどこか別の世界を流れていた。それを聞いているのかいないのか、自分でもよく分からないまま、私はただ黙ってそれを聞いていた。
「ああ、やっぱり・・」
ただ、頭の中には、その言葉が水中に漂うところてんのようにもよもよと浮かんでいた。
私は別段、抵抗することも抗議することもなく、かんたんに荷物をまとめると、心配で目を潤ませる母を背に、榊さんたちと一緒に家の前に止められていた病院の白いステーションワゴンに向かった。母はおろおろと今までに見せたことのない動揺ぶりで、堪らない不安と寂しさの入り混じった顔をしていた。そんな母の大げさにすら見える表情がまた無性に私を苛立たせ、そして、しかし、私を堪らなく悲しくした・・。
私が、車の前まで来て乗り込もうとしたその時、ふと、視線を感じ顔を上げると、向かいに住むおばさんが、玄関前で掃除をする振りをしながら興味ありげにこちらをじとーっと、好奇の眼差しで見つめていた。だが、私と目が合うと、さっと目をそらし、白々しく家の中に消えて行った。何見てんだよ。恥ずかしさよりも堪らない不快感が全身を覆って行く。
「大丈夫よ。心配しなくても」
それを、素早く察知した榊さんが、何か勘違いして、私に声をかける。私は説明するのもめんどくさく、私はそのまま黙って車に乗り込んだ。
最初から段取りが決まっていたのだろう、二人の若い男性職員は、黙っててきぱきと無駄なく動き、車はすぐに発進した。車は無感動にどんどん家から離れて行った。心配そうに家の前に立つ両親と、義務的にただ立っているだけの兄を置いて、車はどんどん家から遠ざかって行く。
「・・・」
私は知らない車に知らない人たちと座りながら、無感動に車外を見つめ、これからの自分の境遇を漠然と想像していた。それは灰色で、色も温度もまったくなく、ただ茫漠とそれは絶望だった。私の知らない世界にこれから行くという事実に現実感もなかった。
こんなものか・・。
自分の今までの日常が消えるのなんて、今まで積み上げてきた私の大事な連続が崩れ去るのなんて、こんなものなのか。突然の災害で家も財産も家族もすべてを失った人が、茫然とただその場に立ち尽くす姿を私は過去にテレビで見たことがあった。私はその人の心境が、今はなんとなく分かるような気がした。
こんなものか・・。漠然とした諦めと、無気力が私を包んでいた。
「・・・」
私は黙って流れ過ぎてゆく、灰色の車外の景色を見つめた。
――「ねえ、真知子最近痩せてない」
「えっ」
突然だった。普段絶対に必要なこと以外話しかけられることのない、絵美たちのグループに属する麻美が私に話しかけてきた。
「痩せてるよね」
「えっ、そ、そうかな」
私は突然のことに戸惑う。
「うん、痩せてる」
そこに、同じグループの真由美も体を乗り出すように私を見てきた。
普段、絶対に絵美たちのグループの子が、私に話しかけてくれることなんてない。むしろ話しかけないようにすらしている素振りすらある。
「細いよ」
「うん、足とか超細い」
「そ、そうかな・・」
私が注目され、褒められている。しかも絵美たちのグループの子に。そのことに私は舞い上がってしまった。なんだかふわふわと、自分が何を答えているのかも分からないまま、私は麻美たちに受け答えしていた。
麻美たちが去った後、戸惑いと混乱と共に、でも、私は今までに感じたことのない沸き立つような高揚感を感じていた。
「私が・・」
私が評価されている・・。私が羨ましがられている。
信じられなかった。
家に帰って、思い返して、あらためて私は舞い上がる。
うれしかった。
なんとなく自分が認められたように感じた。今まで否定されていた自分がやっと認めてもらえたように感じた――。
「ちゃんとした自己紹介が遅れちゃったわね。あらためて私は榊と言います。こう見えても医者なの」
沈黙の流れる車内で、榊さんが私ににこやかに言った。
「ごめんなさいね。たくさん人がいて、びっくりしたでしょう?暴れる人もいるから、いつも最低三人はいるの」
「はあ・・」
私は無気力に答える。
「・・・」
そして、私は、暴れる自分を想像してみた。もし、私があの時暴れていたら、この運転席と助手席にいる若い男の人たちが、力ずくで私を取り押さえたのだろうか。暴れて叫び、男の人たちに取り押さえられている自分姿が頭の中に浮かぶ。それはあまりに惨め過ぎた。あまりに悲し過ぎた。
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