真知子の青春

ロッドユール

第1話 転がるハムの固まり

「あんた、何やってるの」

 背中から、母の怒号が空間いっぱいに何か重たい塊のように飛んで来た。

それと同時に、私の神経にピリピリ、ピリピリと、堪らない苛立ちが走る。くそっ、ただでさえ気分が悪いのに。くそっ、くそっ。

「もういい加減にしなさい」

「うるせぇんだよ。クソババァ」

 考えるより先に口が出ていた。ほっといてくれ、頼むからほっといてくれ。私は哀願するように思った。これ以上私を怒らせないでくれ。これ以上私の心を乱さないでくれ。頼むから。頼むからこのままどっか行ってくれ。頼むからどっか行ってくれ。

 しかし、私のそんな願いとは裏腹に、母は、そのまま私に近づいて来て、私の腕を掴むと口に入れようとしていたハムの固まりを力任せに私の手から引き剥がした。着色料無添加の、肉とは思えない、ある意味では生々しい肉の色なのかもしれない妙に白い色をした丸いハムの塊は、勢いあまってそのまま飛んで行き、その筒形の形に忠実にゴロゴロと床を転がった。

「あんた、いい加減にしなさい」

 母が私の耳元で叫ぶ。その瞬間、私の中で何かが切れた。

「うぎゃきゃぁきゃぁあー」

 私は自分でもびっくりするような奇声を発すると、冷蔵庫の前に散乱した食べ物を押しのけ、母親に掴みかかった。そして、怒りにまかせ無茶苦茶に母親を振りまわし、力任せに揺さぶった。振りまわしている間、スロモーションのようにはっきりと見える母の顔は、驚きと恐怖が入り混じった今までに見たことのない驚愕の表情をしていた。怒りに我を忘れながらも、もう一人の冷静な私が不思議とその表情を冷静に見ていた。

「うぎゃきゃ~」

 そして、私は振りまわしたそのままの勢いで、母を思いっきり後ろへ投げつけた。母はそのまま、無力にダイニングのテーブルの脇のフローリングの床を滑るように吹っ飛んで行った。

「はあ、はあ」

 私は肩で息をし、うつぶせに横たわる母を見下ろし出方を待った。しかし、母は、倒れたまま打ちひしがれた敗者のように起き上がろうとせず、ただしくしくと泣き始めた。その何かを訴えるような泣き方に、私はまた、ピリピリ、ピリピリと神経が苛立った。

 私は転がっていたハムの固まりを拾い上げると、無言で母に投げつけた。それが丁度母の頭頂部に当たり、ポコンと間抜けな音を立てた。

「ぷっ」

 私はなんだか、この場にふさわしくないその軽妙な音が妙におかしくて、思わず笑ってしまった。

「ははははっ」

 一度吹き出してしまうと、笑いは止まらなくなった。

「はははははははっ」

 笑えば笑うほどおかしくて、気づけば私はお腹を抱えて気違いみたいに笑っていた。母はハムが当たった瞬間ピクッと反応しただけで、そのまま動かず、私の笑い声の下でただめそめそと泣き続けていた。


 次の日から、家の空気が変わった。すでに形骸化し、形しか残っていなかった家族という形態の、それでも今まで表面的ではあったが、かろうじてあった明るささえもが消え、両親も私に対して急によそよそしくなった。極端に私を恐れているかのように、私の顔色を必要以上にうかがっているのが分かった。食事の時も、目を合わさず、何かあると、すぐにその場を誤魔化そうと二人は作り笑いを浮かべた。そんな空気が、私をまた、ピリピリ、ピリピリと苛立たせた。

「まちちゃん、これ好きよね」

 母が必要以上に気を使って、私を恐れるようにおずおずと、唐揚げを私のお皿によそおうとする。

「嫌いだよ」

 好きだった。しかし、嗜虐的な感情が私の胸いっぱいに溢れていて、私は母に残酷な言葉を浴びせる。母はただおろおろとし、怯えた。

「ごめんね、まちちゃん、好きかと思って」

「・・・」

 その卑屈な態度がまた私を苛立たせた。

「もう、よけいなことしなくていいんだよ」

 私は叫ぶ。そんな私に、両親はただうつむき黙っていた。

 私は、それから食事時、毎日のように、意味も理由もなく苛立ち、両親に罵声を浴びせ、時にエスカレートすると食事をひっくり返した。父も母もその度に怯え、そんな私にただおろおろするばかりだった。そんな態度がまた私を苛立たせた。私を見て怯える目。表情。言葉。もうすべてに腹が立った。何をやってもイライラした。どうしようもなく腹が立った。

「お前ら、親だろ。なんとか言えよ」

 自分が無茶苦茶なことを言っていると分かっていても、自分を止められなかった。

「むかつくんだよ。その顔が」

 理不尽な言葉が次から次へと出てくる。

「死ね」

「何で私なんか産んだんだよ」

 散々両親を罵倒し、傷つけ暴れた後、私は自分の部屋に帰りベッドに埋もれて一人泣いた。

 部屋の物を壊し、部屋の壁を殴り、それでもイライラは増すばかりだった。苦しみが、嵐のような怒りの苦しみが私を苛んで振り回した。最悪だった。私の心は最悪だった。

「うううっ」

 そして、怒りが静まって冷めたような冷静さが戻って来ると、今度はたまらない自責の念と悲しみが襲ってきた。

「・・・」

 私は普段使うこともない古いサビたカッターナイフを震える手で、手に取った。そして、そのカッターナイフの刃をゆっくりとカチカチと出し、手首に当てた。

「うううっ」

 堪らない涙が頬を伝った。

 もう、死んでしまいたかった。苦しくて苦しくて、もうどうしていいのか分からなかった。惨めだった。堪らなく惨めだった。寂しかった。堪らなく寂しかった。私は孤独だった。堪らなく孤独だった。この地球に、この宇宙に私はたった一人きりだった――。


 私の過食嘔吐が始まったのは、中学二年の夏だった。

 ある時、ふと、なんとなく、自分の容姿が醜いような気がした。それが、なんとなく確かなことで、それが私が生きづらいすべての元凶のような気がした。友だちが少ないこと、人づき合いがうまくいかないこと、男子からモテないこと、がんばってもみんなから評価してもらえないこと、それらすべてが私の容姿が原因のような気がした。それは日々、確信に変わっていき、私をどうしようもなく不安にさせた。

 同級生たちの視線や些細な言葉の端や、ちょっとした何気ない態度が、敏感に気になった。

 私は何気なく、ダイエットを始めた。痩せたからといって美しくなるとは思わなかったが、なぜかそうすることが、私を救ってくれるような気がした。

 最初はとにかく、食べる量を減らし、ジョギングを始めた。始めた当初は辛くてもなんだか気持ちよかった。自分がいい方に変わっているという実感があり、充実していた。

 でも、しばらくすると、むくむくと強烈な食欲が襲ってくるようになった。そして、それは食欲などという生易しいものではなく、強烈な渇望、そして、いつしか強烈な人生への虚しさへと変貌した。

 そんな時、なぜかお菓子のチョコパイがふと頭に浮かび、離れなくなった。振り払っても振り払っても私の頭の中はチョコパイだらけになった。チョコパイなど、いままで殆ど食べたこともなかったし、食べたいと思ったこともなかった。でも、チョコパイは私の頭を占拠し、私を支配した。

 そして、そんな時、たまたま母親と一緒にスーパーに買い物に行った時、そのチョコパイが、一箱198円の特売で、お菓子コーナーの一角に山と積まれているのを見た。それは何か神の天啓かと私に錯覚させるようなタイミングだった。

「・・・」

 ダメだダメだと思いながら、私の手は、そんな意識とは関係なくチョコパイの箱に伸びていた。

 その日、私は夕食が終わった後、自室で、罪悪感に襲われなら、チョコパイの箱を開けた。そして、その中の一つを手に取り、その小さなプラスチック包装の袋を開けた。まだ食べてない。まだ食べてはいない。でも、もう止まることはないことを頭のどこかで知っていた。

 私はそのチョコレートに包まれた手のひらサイズのパイを一口かじる。甘い。何とも言えない甘い快感が全身をぞわぞわと貫く。もう止まらなかった。そこから貪るように一気にチョコパイを口に入れた。そして、二つ目の袋に手が伸びる。最初は一個だけと思っていたのに、そこから二個三個となっていき、夕食後でお腹がいっぱいになっていたにも関わらず、私はそれを次々口に放り込む。それは止まらなかった。結局、気づけば六個入りの箱を一箱完食してしまっていた。私のお腹ははちきれそうで、そして、胸はむかむかし、気持ち悪く吐きそうだった。私は、しばらくベッドに横になったまま動けなかった。

 何をやっているのだろう。私は堪らない後悔と罪悪感に包まれていた。

 だが、それから毎日、私は食後に甘いお菓子を食べるようになった。それはやはり、お腹がいっぱいになっても、止めることが出来なかった。お腹かがはちきれそうになって、さらに気持ち悪くなって、吐きそうになって、そこで初めて食べることを止められた。

 お菓子を食べた後は、これで最後、これが本当に最後、明日からはまた元のあの充実していたダイエット生活に戻ろうと思った。でも、私のその固い意志とは裏腹に、私のその過食は止まらなかった。私は何度もやめようやめようと思うのだが、しかし、次の日にはやはり食べてしまう。そして、それはいつしか習慣になり私の一部になっていた。

 減り始めていた体重は、逆に増えだした。しかも、顔に吹き出物も出始め、妙にイライラするようになった。虫歯も増え、お菓子を食べてしまった後、罪悪感と自己嫌悪でいつも苦悩するようになった。

 そして、なんだか精神的にもおかしくなっていった。心の安定を失い、ちょっとしたことで苛立ち、不安に襲われた。勉強にも集中できなくなった。親子関係もなんだかぎくしゃくし始めた。もともとあまりうまくいっていなかった学校での友人関係も、さらにうまくいかなくなっていった。

私はどうしていいのか分からなくなった。


「どうしたの?絵美。なんか最近すこく痩せてない?」

 休み時間、いつものように一人自分の席に座っていると、クラスの人気者グループの会話が私の机の方に聞こえて来た。

「へへへっ」

 絵美はうれしそうに笑っていた。

「秘密のダイエット法があるんだ」

 そして、絵美はそう、少し声を落として言った。

「えっ、なになに?」

 周囲に集まったクラスの女子たちは興味津々に顔を近づける。絵美は最初少しもったいぶってから、口を開いた。

「吐けばいいんだよ」

 絵美は、囁くように言った。その言葉が私の耳に漏れ聞こえ、魔法にかかったみたいに私の耳に残った。

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