第3話 病院

 病院は町からかなり外れた山の中腹にあった。土地が安いからなのか、デザイン性のない四角い前近代的作りの建物はやたらと大きい。だが、最近になって改装したのか、見た目だけはきれいだった。

「・・・」

 私は車窓から、これから自分が連れていかれるその建物を見上げた。山の中にぽつんとある精神病院のその姿はどこか不穏な不気味さが漂っていた。

 やはり、精神病院という響きは、何とも言えない恐ろしさと不安を私の中に湧き上がらせる。ただの病院であるはずの建物が、どこか不気味な魔物の館か拷問施設のように見える。

 公益福祉法人掖済会精神病院。町の中ではなんとなく、噂になっていた。山の中にある不気味な精神病院として。私たち子どもでも、そんな噂をしていた。中で何が行われているのか、どんな人たちがいるのか。あそこに入ったら、もう人生が終わりだという人もいた。異常犯罪者がいるという人もいた。よく知らないけど、なんとなくみんなその存在を気味悪がっていた。

 そこに私自身が入ることになるんなんて、当時の私には想像すらできなかった。

 病院に着くと、榊さんはすぐに車を下りた。

「・・・」

 私もそれに促されるように黙って車を降りる。ふと顔を上げると、病院のある場所からは町が大きく見下ろせた。山の中で空気がおいしかった。森の匂いがした。多分、ピクニックにでも来ていたら、とてもいい気持ちになったに違いない。

 私の灰色の今の心境と置かれている状況と、今のこの清々しさの不釣り合いが、なんだか複雑な惨めさを生んだ。

「さあ、こっちよ」

 私は、榊さんについて病院に入って行った。病院裏の非常扉のような所から入って行く。中も改装されたばかりなのか、私が想像していた精神病院とは違い、妙にきれいで明るかった。

 廊下を榊さんについて歩いてゆく。廊下に看護婦さんや患者らしき人が何人かいた。その人たちはすごく静かで無機質だった。人がそこにいるのにそこで生きている感じがまったくしなかった。見た目はきれいでも、やはり、どこか不気味な感じがした。

「病棟は五階にあるの」

 榊さんはエレベーターに乗り込むと、五階のボタンを押しながら言った。エレベーターの扉がゆっくりと静かに閉まる。二人だけの密室。何とも言えない微妙な空気が流れる。この時、初めて私は親元を離れ、一人で別の世界に行くのだという実感を持った。寂しさと心細さと、何とも言えない恐怖がせり上がって来る。でも、逃げられない。もう逃げられない。私の家。私の部屋。過食。嘔吐。そこには逃げられない。現実と向き合わなければならない。これから、私は今まで目を背け続けていた惨めな自分と向き合わなければならない。

 エレベーターを下りると、そこはすぐに患者たちの入院スペースになっていた。広い共有スペースに、患者と思しき人たちが集まりテレビを見たり、お茶を飲んだり、談笑したり銘々自由に過ごしている。私と榊さんはその共有スペースの端を横切り、その外れにある診察室に入って行く。

 診察室に入り、榊さんは白衣に着替えると、私の対面にある椅子に座った。表情は常ににこやかだ。私を緊張させまいという配慮だろう。

「さあ、少しお話し聞こうかしら。それとも、疲れてる?疲れてるなら、少し休んでからでもいいけど」

「いえ、大丈夫です」

「突然で驚かしちゃったわね。ここは、心の病院。分かるわね」

 少し遠慮がちに榊さんは言った。

「はい・・」

「過食症や拒食症とか、摂食障害と呼ばれる人たちも多くいるのよ。摂食障害って分かる?」

「はい、なんとなく・・」

 私はなんとなく知っていた。多分、自分もそうなのだろうと思っていた。だが、はっきりと他人の口から言われると、やはりショックだった。私は病気なんだ・・。心の病気・・。頭のおかしな人の病気・・。

 幼い頃、母とバスに乗っていた時、すぐ後ろの席に、ぶつぶつと独り言を言う、太った女性が乗っていた。それが、異常に幼い私には怖くて、背中を背もたれにつけることが出来なかった。そのことを今ふと思い出す。

 しかし、自分が誤魔化していた現実がガラガラと崩れていく感覚と共に、どこか、すっきりしている自分もいた。今までの漠然とした辛さではなく、はっきりと、自分の苦しみが分かったような、そんな気がして、楽になっている自分もいた。

「ここで、ゆっくりあなたの病気を治していったらどうかしら。ここなら専門の先生もいるし」

「はあ・・」

 様々な思い、考えが湧き上がってくる。クラスの同級生たちは、私のことをなんと思うのだろうか。狭い田舎町。私が精神病院に入院したことは、すぐに町中を駆け巡るだろう。そのことが一番気になった。

 だが、そもそも私がまたあの人たちの所へ戻ることはあるのだろうか。元気に回復し、また普通になんてことなかったみたいに女子高生として高校に通う。そんな自分を全く想像できなかった。 

「まっ、今日はこのくらいにして、ちょっと休もうか」

 何とも覇気のない私に榊さんは言った。

「えっ、は、はい・・」

「話はゆっくりこれから聞けばいいし」

「はい・・」

 確かに今はなんだかあまりに、変化が大き過ぎて何をどうしていいのか、何がどうなっているのかそれすらがよく分からなくなっていた。

「この子を部屋に案内してあげてちょうだい」

「はい」

 榊さんがそう言うと、後ろのカーテンを開けてピンクの制服を着た若い看護婦さんが入って来た。

「こっちよ」

 その若い看護婦さんが笑顔で言った。私は立ち上がり、歩き出すその若い看護婦について行った。診察室を出て再び共有スペースに行くと、様々な患者と思しき人たちがエレベーターを降りた時に見た時のようにそこにいた。ぱっと見た感じ、みんなどこが悪いのか分からない普通の人たちばかりに見えた。だが、よく見ると、どこか目が虚ろで、表情がどこか普通ではない感じがする。みんな外に出ていないせいか顔が青白い。私は恐怖を感じた。自分が大変なところに来てしまった気がした。私は患者たちと目を合わせないように少し緊張しながら目を伏せ、その人たちの中を歩いて行く。患者たちが好奇の目でそんな私を見つめていくのが分かった。あの人たちもやはり何か心の病気なのだ。自分がそうであるにもかかわらず、そう考えると堪らなく怖かった。

「きゃはははっ」

 その時、ふいに患者の中の一人の女の子が、私を指差しながら奇声を上げ笑い声をあげた。私はビクッとなる。

「ダメよ」

 その子の隣りにいたスタッフの女性がすぐに女の子に注意する。

「大丈夫よ」 

 私を案内していた看護婦さんも私に声をかける。だが、私は恐怖で泣きそうだった。私は今すぐにでもここから逃げ出したい衝動にかられた。ここにこれから、私が入院するなんていうことが信じられなかった。だが、私がここから逃げ出すことはもはやできない。私は恐怖で愕然とした。

「さ、行きましょう」

 そんな私を看護婦さんが促す。私は黙って再び歩き出した。

「あなたの部屋はここよ」

 共有スペースから複数伸びた廊下の一つを歩き、そこに並ぶ扉の一つを開けると看護婦さんは言った。看護婦さんに案内された部屋は、また私の想像とは違い、こぎれいな個室だった。そのことに私は少し驚き、安心した。

「・・・」

 しかし、中に入りすぐにふと窓を見ると、そこに鉄格子がはめられているのが見えた。そのことにここは精神病院というリアリティを感じて怖くなる。

「落下防止よ」

 看護婦さんが察して私を安心させるように言った。

「・・・」

 私は黙ってその窓に近づき、窓の外を見つめる。

 空は今の私の心境のようにあやふやに曇り、その下には病院の中庭が見えた。五階のこの部屋からでも、そこにいる患者や看護師さんたちの表情がはっきりと見えた。車いすに乗る人、よぼよぼの老人。一人で佇む人。どんな事情でここにいるのかは分からないが、様々な人がそこにいた。


 ――吐くようになって私の体重は順調にどんどん落ちていった。目標体重の四十キロも切った。やった。私はうれしかった。あんなに嫌いだった鏡に映る自分の太ももも、あのモデルの子やアイドルの子たちのように、細くなっている。やった。私は思った。

 学校に行くと、友達や級友たちが次々に私を賞賛する。

「すごぉ~い」

「ちょう、ほそーい」

「羨ましい」

 私がクラスの中心的話題になっている。私の喜びは絶頂だった。友達の賞賛の言葉一つ一つが麻薬のように私に快感をもたらす。気持ち良い。もっと、言って。もっと褒めて。まるで世界が変わったような感じがした。今まで、絶対あり得ないと思っていた自分が主人公の世界。それが今目の前にある。

 もっと、痩せて、もっと、きれいになりたい。そう思った。もっともっと痩せたい。もっともっとみんなから褒めてもらいたい。まだ、二の腕や下っ腹が気になっていた。よしやるぞ。その時、私の中にギラギラと、溢れるようなやる気がみなぎった。

でも、痩せたいという思いが強ければ強くなるほど、なぜか、食欲が異常に強くなった。食べたくて食べたくてしょうがなかった。異常なほど、食べることの快感を求めた。食べることが私の救いであり、喜びだった。しかし、同時に食べることが苦しみであり、絶望だった。食べちゃいけない食べちゃ行けないと思えば思うほど、食べることが私を地獄に叩き落す。そんな天国と地獄の狭間の中で、気付くと私は、冷蔵庫の中の物を全部残らず端から食べていた。ケチャップやマヨネーズといった調味料さえも直接口を付けて吸いつくした。私は食欲という無間地獄の中で餓鬼に成り下がっていた。

 食べてもまた吐けばいいさ。そう吐けばいい。私は食物を貪り食いながら救いの呪文のようにそれを心の中で繰り返し唱えた。その言葉だけが、そのことだけが心の救いだった――。


「ご両親が、一番よい部屋をって」

「えっ」

 窓の外を見ている私の背中に、若い看護婦がベッドのシーツを直しながら言った。

「この病棟では一番いい部屋なのよ。ここ」

「・・・」

 あの人たちがやりそうなことだ。遠まわしに恩を着せようとしやがって。そうではないと分かっていても、ひねくれたそんな解釈をして、腹を立ててしまう私はやっぱり病気なんだなと冷静な私が思った。

「個室は高いのよ」

 よかれと思って言っているのだろう。だが、看護婦のその恩着せがましい言い方に、また腹が立った。高ければ私が感謝するとでも思っているのか。大部屋だってよかったのに。そう思っていないのに、私は腹を立てた。個室でほっとしている自分をさっきはっきりと感じていたのに、私は腹を立てた・・。

「・・・」

 私は黙ったまま、部屋の中心に置かれた、精神病院には不釣り合いな妙に明るい黄色の強いクリーム色をした分厚いベッドの脇に、とりあえず持ってきた荷物のバッグを置いた。他の荷物は母が後から持ってくると言っていた。今は堪らなく心細く、嫌っていたはずの母を堪らなく求めている自分がいて、でも、なんだかその母に会うのはやっぱり嫌だった。

 看護婦が去り、一人部屋に残ると、私はベッドに腰を下ろした。そこで、初めて落ち着き、今の自分の状況がなんとなく冷静に見え始めて来た。私は、今精神病院にいる。精神病院に。小さい頃、なんだか怖いと思っていたその世界に今自分がいる。何でこんなことになっているのか、そのことが信じられなかった。どこで間違えたんだろう。どこで間違ったんだろう。私は・・、私は・・、今まで麻痺していた絶望と悲しみが一気にせり上がって来て、涙が流れた。

「私はもうダメだ・・」

 順調に学校生活をしている同級生たちの顔が浮かんだ。堪らない劣等感と将来に対する絶望と恐怖でさらに涙が出た。もう、終わった私。絶対終わった。堪らない絶望感が私を覆って行く。私は両手で顔を覆った。

「終わった・・」

 同級生たちにただ一人置いて行かれている、そんな堪らない孤独が私を包み込んでいった・・。

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