第34話 萌咲、覚悟の夜
‟誰が教えるか。そんな野暮なこと出来るわけがねえだろ。俺が兄貴に殴られちまう”
風芽はベッドから降りる。急に起き上がるとまだふらつくが歩けないわけではない。ファンへ歩み寄って右手でシャツの襟元を掴み上げる。
“答えろ!”
風芽の剣幕にもたじろぐ様子も見せずにファンは答える。
‟自分で探せよ。この家はそんなに大きくねぇ”
風芽は部屋の外に飛び出した。目につく扉を片っ端から開けていく。
‟萌咲!萌咲!どこだ!”
ベッドに横たわって萌咲は目を閉じていた。何も考えないようにしても頭に浮かぶのは風芽の事ばかり。
大丈夫、大丈夫、私は耐えられる。
でも、もう今までと同じように彼に会えないのだと思うと胸が張り裂けそうになる。こうなってしまった以上もとに戻れるとは思えない。会えるわけがない。それに、萌咲はここに残ると約束したのだ。そして風芽はもうすぐ一区に戻るだろう。
萌咲の体を跨いだタオの大きくてざらついた手が首筋から鎖骨をゆっくりをなでていく。自分の思考に浸っていた萌咲はびくっと体をすくませた。
思いのほか優しい手つきなのだが、恐怖と嫌悪感はぬぐえず体がこわばる。ぎゅっと目をつぶると、眦から涙がつたい落ちてきた。タオがゆっくりと覆いかぶさってきてもう片方の手で顎を掬われる。
その時、扉が乱暴に叩かれた。
‟萌咲!ここにいるのか?萌咲!”
ハッと目を開いて扉の方を見た。同時にタオも手を止めてチッと舌打ちをした。
扉を蹴破って入ってきた風芽は倒れこむようにタオにとびかかると殴り倒した。タオがうめき声をあげてベッドの端にひっくり返るが風芽も勢い余って床に倒れこむ。
‟風芽さん!どうして…”
あらわになった胸元を隠すように襟をかきよせ萌咲がつぶやく。
それを見た風芽の頭に血が上り、気が付いたら怒鳴っていた。
‟それはこっちのセリフだ!何をしてるんだ。お前は…こんなこと許されると思ってるのか”
激高した風芽の目を見ることができず萌咲は俯く。
“け、何下らねえこと言ってるんだよ”
タオが殴られた頬をさすりながら起き上がるが、そのの言葉を無視して風芽は萌咲に言う。
‟お前は…天女なんだぞ”
そして
“頼む。俺にしてくれたことの礼は必ずする。萌咲は大切な天女なんだ。使った薬も物資も必ず返す。だから萌咲を返してくれ”
頭を下げるが、そんな風芽をタオは呆れた目で見降ろした。
‟こいつはつくづく救いようのないバカだな”
‟一区の奴らの価値観にがんじがらめになって、胸糞が悪くなる”
後ろにファンが立っていた。
‟あんたが怒っているのは萌咲が天女だからか。大事な卵を持つ天女が勝手に男と寝るのは許されないからか”
風芽は答えない。握りしめた拳が震えている。
‟自分を犠牲にしてあんたを助けることへの罪悪感か?”
風芽は萌咲を見る。萌咲は両目に涙をあふれさせながらようやく風芽の目を見返した。
胸が痛い。
“違う…嫌だからだ”
“聞こえねえなぁ”
‟おれが!俺が萌咲を誰にも渡したくないんだ!”
‟風芽さん…”
嘘だ。風芽さんがそんなことを言うわけがない。
でも。
萌咲はもう自分を止めることができなかった。ベッドから飛び降り、風芽に縋りつく。そして大声をあげてわんわん泣き出した。
そんな萌咲に三人の男たちは一瞬あっけにとられたが、風芽は萌咲の体をきつく抱きしめた。
少ししてファンは笑い出し、タオは呆れたようにため息をつく。
‟このお嬢ちゃんにはかなわねえなぁ”
タオの言葉に風芽は振り返る。萌咲も涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げる。
‟いくら女だからって、そんな色気のねえのをどうこうしようなんて思っちゃいなかったよ。抱こうとしたって勃つもんも勃たねえだろうよ”
‟それじゃあ…”
‟あんたの覚悟を試さしてもらったんだよ。あんたを助けようと必死だったお嬢ちゃんに比べてぐだぐだ一区の事情だ、親の罪だと御託を並べ立てるあんたにイライラした。俺たちはそんなもん糞くらえだと思ってるからな。重要なのは自分にとって何が大事か、それを守るためにどれだけの覚悟ができるかなんだよ”
‟ありが…とう、すまない”
風芽は小さく頭を下げた。萌咲もようやく落ち着いてきて鼻をすすりながら涙を拭いた。
‟あんたも自分の気持ちに正直になる覚悟ができたと思っていいんだな?”
風芽は頷いた。
‟わかったらさっさと自分のベッドに戻れ。今日のところはあんまり盛らないで大人しく寝た方がいいぞ。まだ体がガタガタじゃないか”
何の話をしてるんだと言い返したかったが余計なことは言わずに風芽はゆっくりと立ち上がった。
風芽は萌咲に支えられて自室に戻った。頭に血が上った時には気が付かなかったが、急に動かした体は気が抜けた途端ギシギシとあちこちが痛む。うめき声をもらして風芽がベッドに倒れこむと萌咲は枕を整えて毛布を掛け、いつも弟たちにしていたようにポンポンと上からたたいた。
‟なんでいつもそれをするんだ?”
‟なんで?なんででしょう。ポンポンってすると、寝る準備ができましたっていう合図ですかね。それとも空気抜き?布団を体になじませる?”
考えこんでぶつぶつ言う萌咲の顔を下から見つめる。まだ目ははれぼったく鼻は赤い。
‟済まなかった”
“え?”
‟知らなかった。お前があいつらとあんな契約をしてたなんて”
‟…”
萌咲の表情がこわばった。あの時は選択の余地などなかったのだ。
“怒鳴って悪かった。あれは、タオがお前に触れているのを見てカッとしたんだ。そして不甲斐ない俺自身に”
‟風芽さん…”
‟お前の事が何よりも大切だと気が付いた。お前を誰にも渡したくない。だが俺たちの前に大きな障害があるのは事実だ。それでも…”
‟それでも、私は風芽さんがいい”
萌咲ははっきりと言い切った。
そんな萌咲を見つめて風芽は微笑む。毛布の下にあった右腕を出し萌咲の方へ伸ばす。
‟お前は強いな。そんなお前の強さに、おれは”
惹かれる、という言葉は紡がれなかった。
萌咲はその細い首を伸ばし身をかがめてそっと唇を重ねた。風芽も驚いたが萌咲は自分の行動にもっと驚いたようで、がばっを体を起こし、またがばっとその顔を毛布の上に伏せた。耳が真っ赤になっている。
この初心な反応を見るとファンたちとあんな契約を交わしたとは思えない。フッと苦笑がもれると同時に、萌咲がどんな思いでそうしたのかを考えると、また心臓がキリキリと痛んだ。
風芽は萌咲の頭をゆっくりとなでながらその髪の感触と穏やかなひと時を楽しんだ。
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