第2話 萌咲、異世界へ


 ふと誰かに名前を呼ばれた気がして萌咲もえは振り向いた。


“ん?”


 周りを見回してもキッチンにいるのは自分と八歳の妹の桃だけ。両親と兄はまだ農場から帰ってくる時間ではない。急にキョロキョロしだした萌咲を見て桃はけげんな顔をする。


“萌咲ちゃん?”


“痛っ!”


 よそ見をしたせいで使い慣れた包丁で指を切ってしまった。


“萌咲ちゃん、大丈夫?絆創膏取ってくる!”


 人差し指ににじみ出てくる血をみて桃はキッチンのスツールからジャンプして飛び降りると洗面所に消えるなり救急箱を持って戻ってきた。

 手を洗って絆創膏を指に巻いていると、また呼ばれた気がする。


“拓…?”


 外で犬と遊んでいる弟かと思いスリッパのまま裏庭にでる。その時揺れを感じた。


 !?


 足を一歩踏み出した時、何かにつまずいてバランスを崩し転びそうになった。慌てて手を伸ばし近くにあった木の幹で体を支えようとしたが手をのばした先は空で何の手ごたえも感じられないままどこかに落ちていくような感覚があるのみだった。


“萌咲ちゃん!”


 桃の悲鳴が聞こえる。


 え?私落ちてってる?


 目の前が真っ暗になった。



 ~~~



 誰かに体を揺すられ、瞼を開けると緑の葉っぱが茂る木の枝が目に入る。


 木漏れ日がまぶしい。

 きれいだな…でもこんな大きな木、うちの裏庭にないけど


 と訝しく思った時、上から声が響く。


“落花様!気が付かれましたか!”


 知らない男の言葉ではっと驚いて自分が倒れていることに気づき体を起こそうとして体が誰かに抱きかかえられるように支えられていることに気が付いた。


“らっかさま?”

って私の事?


 大勢の人に囲まれているのに更に驚いて今度こそ体を起こす。顔にかかっていた髪がはらりと落ちて周りから息を飲む様子が伝わってきた。


“急に起き上がるな。気を失っていたんだ”


 別の声が頭のすぐ上から聞こえてきて顔を巡らせると逆光で顔がみえないが声の感じから年上の男性だということがわかる。


“お父…さん?”


“…”


 一瞬の沈黙の後誰かが、ぷぷ!と噴き出す声が周りから聞こえてきた。


“…お父さんではない…”


 憮然とした声。

 背中を支えてもらい体の向きを変えて改めて声の主の方を見るとそこには切れ長の目に整った顔立ちだが機嫌の悪そうな男の顔。


 かっこいい人。でも、誰?お父さんじゃない。もっと若いわ。


“ご、ごめんなさい!”


“落花様、ご気分はいかがですか。すぐお屋敷にお運びします”


 今度は神父様の様な恰好をした中年の男が近づいてきて跪いた。


“急いで移送ベッドを”


 その男が後ろを見て声をかける。するとまた頭上から


“このまま俺が運ぶ。その方が速い。それに「侍女」たちの準備はできていないんだろう?呼びに行っても彼らが来るまではしばらくかかる”


“はあ、確かに。儀式が終わったばかりで予兆もなかったので準備はまだできていませんでした。ですが…あなた様にお願いするわけには”


“どう見ても、俺は候補外だ。何せお父さんだからな”


 皮肉気な響きに赤くなって萌咲は首をすくめる。

 背中に添えられていた力強い腕に力が入ったかと思うと体がふわっと浮いた。男は萌咲を軽々と抱えて歩き出したのだ。


 こ、これはお姫様抱っこというやつ…?


 カッと顔が熱くなった。


“降ります!大丈夫です!歩けます!”


 と足をばたつかせて訴えるも


“じっとしていろ。診察をするまで安心はできない”


 と、言われてしまった。


 どうしようもないのでおとなしく縮こまって運ばれることにした。男はかなり背が高いのか萌咲は地面との距離に少し怯え身を縮こませる。周りにいる人々の視線を集めているのは明らかで、恥ずかしさにぎゅっと目を瞑った。男は無言のままどんどん歩いて行く。



 ほどなく大きな屋敷に入り階段を上り、迷うことなく白いベッドのある部屋に向かう。部屋に入ると思いがけなくそっとベッドに降ろされた。そこには二人の白い服を着た若者がいて萌咲を運んできた男が一言二言声をかける。看護師だろうか。

 萌咲を運んでくれた長身の男に対して若者たちの態度はひどく丁寧だ。


“よろしく頼む”


 という低い声が聞こえてきた。


“あ、あの!ありがとうございます”


 すかさず身をひるがえして退室しようと知る男に、慌てて礼を言うと肩越しに振り向いた男がかすかに驚いたように目を見開きそしてフッと口元が緩みほほ笑んだように見えたが何も言わずに出て行った。

 整っていいるが不機嫌だったせいか周りを委縮させるような雰囲気が少し柔らぐと恐ろしく魅力的になり萌咲はどきりとした。


 萌咲の傍に二人の若者が寄ってくる。中性的な顔立ちで線の細く白い制服を着ている。


“落花様、私はサクと言います。身の回りのお世話をさせていただきます”

静かな口調で言うとお辞儀をする。


“私はトモといいます。ご気分が悪くなければ早速お体を清めさせていただきたいのですが”


こちらは少しおどおどとした感じだ。

 二人とも二十代前半くらいか、きれいな顔立ちをしている。


“え?!私、大丈夫です”


“ですが、泥だらけですので。シャワーがよろしいでしょうか、それともお風呂がよろしいでしょうか”


 言われて自分の手や服を見ると、確かに泥だらけ。何気なく触れた頬もざらりとして、おそらく乾いた土の感触だろう。


“じゃあ、お風呂を、お願いします”


“かしこまりました”



 ~~~



 連れて行かれた続きの部屋のドアを開けると浴室になっていた。明るい太陽光が入る窓が高い位置にあり、白い壁に白い湯舟。


 介助するという二人を慌ててドアから締め出して、腹をくくって服を抜いだ。ジーンズもシャツも泥だらけで手や足に小さな擦り傷はいくつかあったが特にケガなどしているところはない。脱いだ服を置かれてあった空のバスケットに入れ、崩れてぼさぼさになった三つ編みをほどくと備え付けられていたボトルのシャンプーやらボディープらしき物を使って髪と体を洗う。体にお湯をかけた時指先にピリッと痛みが走る。濡れた絆創膏を剥がすと包丁で切った傷が小さいながらもまだ新しかった。泡を流して湯船につかる。それほど大きくはないが萌咲一人が体を伸ばすには十分な大きさだ。暖かいお湯にほっと息をつき初めて自分の置かれている状況に疑問が浮かんできた。


 ここはどこ?

 あの人たちは誰?


 なんで私はこんなところにいるの?

 落果様って何?

 指先の傷は“さっき”包丁で切ったものだ。短い時間で全く違う場所に移動してしまった?


 今頃になってじわじわとパニックに陥る。反応が鈍すぎると自覚しているが見も知らない人々に囲まれたことで思考が滞ってしまっていた。


 お風呂に入ってまったりしてる場合じゃないよね。

 それともこれは悪い夢!


 そう思い込もうと思っても、今自分が使っている見知らぬ場所でのお湯の温度と感触が生々しすぎる。


“わー!!!”


 と大声を上げお湯の中にざぶんと頭から沈む。もう一度ザバ!とお湯から顔を出した瞬間


“落花様!大丈夫ですか?!”


 と先ほどの若者二人が飛び込んできた。


“キャー!”

“わー!!!”


 ガツ!


“ぐが!”


 恐慌に陥ってしまった萌咲は手近にあった桶の様なものを思い切り投げつけた。




 ~~~



 萌咲を屋敷の医務室に届けたフーガはその足で兄である領主ボーヨウの部屋に向かっていた。天女が降下してきた報告だ。今日フーガは兄の代理で初めて天女乞いの儀式を行った。女性が生まれなくなったこの世界で神に女性を乞う儀式なのだから天女が下りてくるのはめでたいことだ。しかし儀式は行われたばかり。儀式は定期的に行われても天女が下りてくるのは不定期。儀式後早くとも数日、長ければ何週間も待つこともある。三か月たっても降下がなければ天女の降下はないとみなされ次の領の当番となる。

 天女が儀式直後、しかも“降下”ではなく土まみれて木の根元に倒れていたのだ。こんな例は聞いたことがない。


 しかもあの娘の見てくれは通常の天女とは異なっていた。

 女性体であることは明らかだ(全て確認したわけではないが)。平均的天女よりやや小柄で漆黒の髪に漆黒の瞳。全体的に色素が薄いこの世界の人間には珍しい。むき出しの腕にはしなやかな筋肉がついており、やや日に焼けた健康そうな肌はハリがある。そしてあの瞳。驚きに見開いた瞳は生気にあふれ見つめられた瞬間心臓がドクンと鳴った。女性を見慣れていない男たちが驚き引き付けられるのは当然として、天女を何人も見たことがある自分でさえ、あの少女から目が離せなくなった。

 そして指の傷。小さな傷で手当はしてあるようだが無造作にテープを巻いただけで、そのテープには血がにじんでいた。


 信じられない。


 整った容姿だがどれも似通った人形のような雰囲気を持つ通常の天女たちとは明らかに違っていた。


 あの娘はいったい…


 フーガはつい考え込んでしまったが、我に返って頭を振る。

 俺には関係のない事だ。自分が天女に必要以上にかかわることはない。


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