赤い両親

鍵月魅争

赤い両親

「ごめんなさい!」

 聞き慣れたお母さんの悲痛な声が家に響く。直後、人が人を殴る時に出るような音が聞こえた。

「俺は謝罪が聞きたいんじゃない。なんでそう思ったの?って聞いてるだけだよ?」

 柔らかいお父さんの声が、鋭い言葉で耳に入って来た。そしてまた殴る音が聞こえる。勢いが余ったのか壁まで殴っているみたいだ。ガラスが割れたのか、コップを落としたのか何かが割れるような音が鳴った。

「はぁ…また始まったよ。」

 聞き飽きた言葉の応酬を避けるように部屋の扉を全て閉める。テレビの音を上げて、嫌でも向こうの音が聞こえないようにした。この家の周りに他の家がなくて良かった。こんなに大丈夫じゃない音をたくさん立てても何も言われない。

「ねぇ、お姉ちゃん。お母さん達大丈夫かな?」

 今年九歳になったばかりの弟が腕にしがみついて泣きそうな声で話しかけて来た。震えている弟の頭を撫でる。撫でた頭から恐怖心が伝わった。自分だって泣きたいよ。いつになったら終わるんだ。

「大丈夫だよ、いつもの事だし。食って風呂入って寝りゃ全部忘れて元に戻るでしょ。」

「でも心配だよ…いっぱい殴られてるし…。顔とか手とかいっぱい腫れてそうだよ…。」

「平気だって。いっつも次の日になればいつもの仲良い家族に戻るでしょ?今日もそうだよ、きっと。」

「本当に?」

「ああ。本当だ。ほら、かっこいい恐竜だぞー。ティラノサウルスだっけ?かっこいいぞー。」

「アロサウルスだよ!ティラノサウルスみたいに小さい前足じゃなくて、ガッチリしてるんだ!この辺に突起もあるでしょ?」

 一度好奇心を別の物に向けられると、今まで気になっていた事が全て消える。弟もしがみつくのを止め、テレビに食い込みそうなくらい釘付けになった。弟の解説を全て聞き流して、テレビを見る。恐竜はティラノサウルスとかトリケラトプスくらいしか分からん。

 まだ喧嘩は続いている。きっとこの後は、お父さんは自分の部屋にこもって酒でも飲んで寝るんだろうな。お母さんは場所を変えずにその場で泣き崩れる。そして私が荒れた室内の片付けをする。終わったらお母さんの怪我に応急処置をしながら話を聞く。悩みとかいう、他人に相談するタイプの愚痴。

 だいぶ前にお父さんに聞いた事がある。なんでこんな事を続けるのかって、二人とも痛い思いをするのになんでって。お父さんは笑いながら答えてくれた。

「こうやって殴った方が気持ちが伝わりやすいだろ?お父さんなりの愛情表現だよ。」

 気持ちが伝わっているのかどうかは分からない。でも愛情表現なんかではない事はどこからどう見ても明らかだった。こんな事をさも当たり前かのように言うお父さんも狂っているし、その時は納得してしまった自分も自分だ。

 テレビの音で掻き消されているが、耳を澄ませば両親の喧嘩の声が聞こえる。時間はもうそろそろで九時。いい加減弟を寝かせるか。部屋まではイヤホンで曲でも聞かせればいい。

「ほらーもう寝るよー。何聞きたい?」

 愛用している音楽のアプリを開いて、プレイリストを弟に見せる。少し探して弟が好きなバンドを見付けた。

「これがいい!」

「はいはい。ほら、着けな。」

 行儀よく、片耳だけイヤホンを付けた。もう片方の耳にもイヤホンを付けさせる。リビングを出て階段に向かった。少しだけ見えた台所は、まだ喧嘩が続いていた。可哀想なことに、お母さんはもうごめんなさいも言えない状態だった。

 ちゃんと言おうとしてるんだろうけど、嗚咽になって全く出てこない。お父さんはまだお母さんを責めている。ここまで仲悪いんならなんで結婚したんだか。

「夜更かしするなよー。勉強しろよー。」

「どっち?」

 弟を連れて行って、CDの曲を流す。軽快なギターの音で曲が始まった。弟が何度かスキップボタンを押して、1番気に入っている曲に変える。静かなピアノの音がゆっくり流れ始めた。よくこれで寝ないな。

「今日はどこどこするの?国語?」

「国語はもうやったから算数する。」

「算数か…こりゃまた難しいやつを。計算機使うなよ。持たせてないけど、頭で計算しなきゃ自分の為にならんぞ。」

「分かってるよ!ねぇお姉ちゃん。怖いから一緒に居て?一人はヤダ。夜だしもっと怖い!」

「赤ちゃんか!…まぁ良いよ。でもお姉ちゃん数学…算数苦手だからあんまり期待しないでね。」

「うん!してない!全然してないよ!国語の時しか期待してない!あ、あと理科!お姉ちゃん文系なの?理系なの?」

 弟に純粋な顔で言われる。話を逸らすように弟の頭を小突く。弟が座っている椅子を動かして机に向かわせた。そこには手を付けられていない真っ白な算数のプリントが何枚が置いてあった。

「今日何枚くらいあるの?この前みたいに五枚くらい?」

「三枚だけだよ。あと五枚出したのって算数の先生じゃなくて音楽の先生だよ。」

「どんな内容だったっけ?」

「楽譜をそのまま写して、リコーダーで吹けるようになっておいてねってやつ。簡単だったよ。」

 そう言って勉強を始めた。外に漏れないようにCDの音は小さめだが、距離があるからか両親の喧嘩の声は聞こえなかった。今はそっちの方がありがたい。両親の喧嘩の音とか、聞きたくない音ランキングとかあったら殿堂入りものだ。

 黙々と宿題に向き合う弟の姿を見る。自分も勉強しなきゃいけないんだよな。時間と環境が一切許してくれないから睡眠時間削るしかないけど、いつも三時間くらいは頑張ってるんだけど。

 弟が宿題を初めて五分くらい経った時に、大きい音が聞こえた。部屋が揺れたような気がした。弟が体を強ばらせて弱々しい声で呟いた。もう目は涙で潤っている。一瞬で涙目になるのはもう才能だと思う。

「もう…嫌だよぉ…。ねぇお姉ちゃん、やっぱり止めに行こうよ。家が壊れちゃうよ。」

「こんなんで家壊れないから。止めに行って自分が流れ弾食らいたくないでしょ?大人の問題なんだし、子供が首突っ込めないよ。」

「うぅー。」

 少しだけだけど涙が出て来ていた。本当にこの子は優しいな。でもね、放ったらかしにしておいた方が巻き込まれなくて済むんだよ。

「ちょっと待っててね。」

 そう言って弟の頭を撫で、部屋を出た。向かいにある自分の部屋に行って、勉強のお供こと大好きなチョコレートの袋といちごオレを持ってきた。チョコの方はもう開けてあるからいつでも食べられるし、いちごオレはキャップを開けただけで一口も飲んでない。

「ほら、これでも食べな。好きでしょ?」

「チョコレート…食べる…。」

「好きなだけ食べな。もう一袋あるよ。」

 泣き出しそうな顔で弟はチョコレートを頬張り始めた。虫歯…今は良いか。収まってから歯磨きさせよう。少し目を離しただけでもう三個も食べている。袋の中から二つ取り出したのが見えた。あれ?これ放っておくと全部食べられる?

 二階にも手を洗う場所があって良かった。弟が学校に持って行っている歯磨きと歯磨き粉があるのを確認した。カバンの中から出て来てしまっている。後で片付けさせよう。

 いつからこんなに仲が悪くなったんだ?心当たりがありすぎるし、これといったきっかけが無いかもしれない。けどまぁやっぱり三年くらい前に兄さんが事故に遭ってからか。

 高校の合格発表の日。兄さんは一人で高校まで行った。元から行きたがっていた私立の高校。元々はお母さんと一緒に行く予定だったけど、お母さんが体調を崩したせいで一人で行く事になった。

 似たような事は入試の日でもあった。入試の日はお父さんが連れて行くはずだったのが、仕事が入ったせいでお母さんが連れて行くことになった。それで朝からお父さんとお母さんが大喧嘩して、兄さんは全力が出せなかったって聞いた。

 兄さんの心情的には少女マンガでよくある私の為に争わないで!って状態だったらしい。内容的には笑い話じゃないのに弟と一緒に爆笑してしまった。

 兄さんは結局合格はしていた。全力を出せなくても上から数えた方が早いくらいの点数だった。合格発表の後、自分へのご褒美として一緒に受けた友人さんとハンバーガー屋に行ってる最中に事故に遭って重体。

 一命は取り留めて三ヶ月後には歩けるようになったし、一年後には前みたいにバドミントンができるようになった。でも事故に遭ったせいで入学の手続きとかが出来なくて、もう一度受け直す事になってしまった。現実は非情だ。少しくらい考えてあげてもいいのに。

 兄さんが退院して家に戻って来た後も、お母さんは自分を責め続けていた。お母さんは元から体がそこまで強くないから、仕方の無い事。兄さんが気にしないでいい、俺の不注意だから母さんは何も悪くないって言っても聞かなかった。それでもお母さんはずっと泣いて、自傷行為…自分を殴り続けていた。

 お母さんの部屋の壁に着いている今はもう茶色くなった染みはその時に着いた。何度も何度も自分の頭を壁に打ち付けて、額から血が流れても続けていた。そのせいでお母さんの部屋の壁はどう頑張っても消えない色が着いてしまった。白いペンキを塗ってもそこだけは目立ってしまう。

 そんな感じで狂ったお母さんの姿を見たお父さんも限界が来ていたんだと思う。そんなに家族を怖がらせたいのか、そんなに家族が嫌いなのか。そう言ってお母さんを責めた。責められるとお母さんは何も言えなくなってしまう。内心で自分を責めまくる。

 そんなに殴りたいなら殴れ。そう言ってお父さんは、お母さんに自分を殴らせた。一応とはいえ愛した人、そんな人が自傷行為に走るのはお父さんでも辛かったんだろうな。よく分からないけど。

 その日をきっかけに、お父さんが自分を殴らせながらお母さんを責め立て、何も言えなくなったお母さんが泣きながらお父さんを殴る、と言うよく分からない喧嘩になった。

 トイレに行くふりをして一階に戻る。壁の影から台所を除くと、泣きすぎて赤くなった顔の母親が、殴られて真っ赤に腫れた父親にまだ怒られていた。

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