52
神様は、いつからか途絶えていた、朝の見守りを再開させていた。
でも、それでは約束は守れない。八重と交わした最後の約束だ、八重が連れ戻してくれたのだ、この場所に。
神様は、八重を初めて見かけた日を思い出していた。俯いて、階段に座り込んでいた彼女。沢山お喋りをして、同じ景色の中でも、同じ思い出なんて一つもない。その中でも変わらない、彼女の笑顔。
日誌に八重の事を書けなくなったのは、彼女が特別になって、この気持ちをどこかに吐き出してしまうのが怖かったからだ。仮にも神様が、たった一人の人間を想うなんて。八重の名前を書いてしまえば、そこから思いが溢れて、もう引き下がれなくなりそうで。
「…結局、意味は無かったな…」
桜の人と名前を隠しても、彼女への思いは止められなかった。
神様はポツリと呟くと、駅に流れる人々に目を向け、それから広く町を見渡した。
あの頃、悪魔が嵐を連れてきて、それから時代の流れに合わせ、
毎朝、駅の様子を見に来るのも、町を出る八重を見送りに行ったのがキッカケだった。それから、また八重が帰って来る日を待ちわびて駅に顔を出す内に、ここで町の人々を見送るのが日課になっていた。
「今日も無事に帰っておいで」
安全に、一日を。帰る場所は、この町は、今度こそ私が守るから。
神様は、動き出す電車を幾つか送り出し、再び空に身を翻した。
その様子をこっそり見つめていたアリア達も、神様の動きに合わせて、再び空へ向かった。
「次は、大通りに向かう筈です」
「歩道橋のある?そこ、事故が多い道路とかなのか?」
「いえ、あそこは特別な場所なんです」
狸もどきの言葉に、アリアは首を傾げた。
狸もどきが言った通り、神様は大通りにやって来た。歩道橋の側にある街灯の上に、神様が器用に降り立つのを、アリア達は少し離れた所から見つめていた。
「ここに、何があるんだ?」
「ここは昔、八重さんの家があった場所なんです。ちょうど街灯のある場所に、桜の木があったんですよ」
神様と八重が約束をした桜の木だ、狸もどきの話に、アリアは目を瞬いた。町が変わったとは聞いていたが、ここまで変わっていたのかと。
「日誌の登場人物に会えない訳ですね」
昨日、立ち寄った木島の家は、八重がこの町に戻ってきた後の家なのだろう。
フウガが軽く溜め息を吐けば、狸もどきは「仕方ないですよ、人も時代も流れますから」と、少し寂しそうに表情を緩めたが、それでもすぐに思い直したように顔を上げた。
「でも、変わらない絆もありますから!」
狸もどきは思い出を辿るように、小さな両前足に視線を落とした。
八重が家族を連れて町に帰って来たこと。八重は町を出ても、月に何度か神社を訪ねていたこと。鞍木地町に戻ってきてからは、毎日、神社に来てくれた。
誰も来なくなっても、八重だけは毎日変わらずに。
「さすがに、体を壊して入院生活となってからは神社に来れないので、僕が代わりに八重さんに会いに行って、神様の様子をお話していたんですけど」
「そうだったのか…」
アリアは頷きはしたが、「…あれ?」と、疑問に首を傾げた。
「八重は、お前達の姿は見えなくなったんじゃなかったのか?」
嵐の翌日、八重は神様も妖も見えなくなっていたと、アリアは聞いていた。神様の力を受けたせいで、見えなくなってしまったと。だがそれには、フウガが思い出したように声を上げた。
「言い忘れてました、あれは八重さんのお芝居だったそうですよ」
さらりと言ってのけたフウガに、アリアは、え、と言葉を失った。だが、すぐに目を瞬いて、フウガに詰め寄った。
「え?嘘ってこと?なんでそんなことするんだよ?」
分からないと、困惑の表情を浮かべるアリアに、狸もどきは、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「僕も、どうしてって思ったんですが、それが八重さんの望みだったんです」
あの嵐の夜、八重は桜の下で、神様はもう自分の前に姿を現さないのだと感じたという。額の口づけに意識を取り戻した時、それが別れの挨拶だと気づいてしまった。本音を言えば、行かないでとしがみついてしまいたかったが、それは出来なかった。神様が決めた事を受け入れなければと思ったのもそうだが、八重もまた、自分と神様では、住む世界が違いすぎると思ってしまっていた。
だから、神様が立ち去って行くのを、ただ涙して、声を押し殺して見送る事しか出来なかったという。
だけど、それでも。どうしたって八重は神様が好きだった。見えたら姿を追ってしまうし、きっと声を掛けてしまう。いつも通りに過ごしてしまえば、好きの気持ちは膨らむばかりで、またきっと神様を困らせてしまう。
そうなったら、神様の迷惑になる、今度は嫌われてしまうかもしれない、そんなのは耐えられない。だから八重は、神様も妖も見えなくなった振りをしたという。見えなければ、八重もまだ自制が出来ると思ったからだ。彼の為なのだと思えば、自分の気持ちを抑えるくらいわけない筈だと。
だから、忘れろなんて、それだけは言わないでと。
「自分一人だとボロを出すかもしれないから、僕に協力をしてほしいと、八重さんが」
「心苦しくはありましたが」と、やはり申し訳なさそうに、狸もどきは言った。
「へえ…よくバレなかったな。神様相手に」
アリアが驚きつつも感心した様子で呟くと、狸もどきは少し困った様子で眉を下げた。
「どうなのでしょう…時折、気づいているのかなと思う時もありましたが、神様にそれを尋ねてしまったら、八重さんの覚悟が無駄になるような気がして、出来ませんでした」
「そっか…お互いに思い合ってたんだな…」
アリアがしんみりと頷くと、フウガは分からないなと眉を寄せた。
「それが、思い合っていた事になるんですか?」
「…え、そうだろ?どうでもいい相手だったら、わざわざ苦しむ方を選ばないだろ。神様だって、強引に八重の前に姿を現して、見えない振りをやめさせるとか、記憶の操作くらい出来たんじゃないか?」
昨夜、町の人々にやったことだ。当時は今よりも力があったのだから、わけないだろう。
「思い合ってても一緒にはいられない、それでも思い出は捨てられないから、お互いに折衷案じゃないけど、心の拠り所だけは失わない選択をしたんじゃないか?」
「ですが、八重さんは結婚もしてますよ」
「そりゃまぁ、色々あるだろ。八重の幸せは神様にとっても幸せだろうし、八重だって、前を向ける時が来たんだろ」
「はぁ…」と、フウガは難しく眉根を寄せる。人間の感情が複雑なのか、単純に自分が理解出来ないだけなのか、分からないようだ。
「そうだ、パン屋は?よく立ち寄ってたんだろ?」
フウガの思案はそのままに、アリアが思い出して尋ねると、狸もどきは少しだけ表情を明るく染めた。
神様は高架下にあるパン屋、“森のパン屋”の前でよく足を止めていたと言う。確か、あんパンが美味しいと評判の店だ。だが、フウガとアリアが立ち寄った時には、店にはシャッターが降りていて、アリアは残念に思っていたのだ。
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