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過去がトラウマのように押し寄せて、また誰かを傷つけると思っているのだろうか、神様はこの町を救った筈なのに。八重やえは神様に救われた、だから、神様がそう決めたのなら、八重も身を引く決心をした。神様の姿は見えなくなった、見えなくした、そうすれば、神様の負担も少なくなると思ったからだ。


神様と過ごす日々に起きたこと、その全てが神様の負担となっていたのなら、神様の心を解放出来るのは自分しかいない、八重はそう思った。


それでも、神様への思いが消えた訳ではない。神様の事、共に過ごした日々を大切に思ってきたのは、八重だって同じだ。


神様を信じる心なら、まだ現世にある。神様は気づいてないかもしれないが、神様が忘れ去られた訳ではない。何よりここには、誰よりも神様を思う八重がいる。

神社でなくとも、目の前の気持ちは手を合わせなくても聞こえる筈だ、町の叫びはきっと、神様にだって聞こえている筈だ、だってこの町は。




「ここは、あなたの愛した町ではないの?」


柔らかな八重の声が、神様の暗く膝を抱えた心に寄り添うようで、神様は惑うように瞳を揺らした。


「…私には、力がない。もう、この姿だって本当は…」

「力は消えたりしませんよ」


その柔らかな声が、凛として響く。真っ直ぐと心に芯を落とすように、目を逸らさないでと、訴えるように。


「今も、ここにありますよ」


八重は腕を伸ばし、神様の胸に手を当てた。


「あの時と同じ、見えないだけです。ちゃんと見て、耳を澄ませて。あなたの助けを皆が待ってる」


神様は苦しそうに顔を歪め、胸元の八重の手を握った。だが、やはり耐えきれず、その手を八重に突き返した。


「あの時とはもう違うのだ!お前もいってしまう、私にこの町を守る理由はもう何も無い!私はもう神ではないのだ!この町がどうなろうと、知ったことではない!」

「なんて事を言うんです!」


頭を振る神様に八重は声を荒げ、神様の小さな肩を掴んでその目を見つめた。神様ははっとして顔を上げた。瞳に涙を溜めて、零れ落ちそうなそれをただ懸命に堪える八重に、神様はそれを受け止めきれず、再び顔を伏せてしまった。


八重の思いが、言葉がなくとも伝わってくる。自分が馬鹿な事を言っているのも分かっているが、それでもどうにも出来ない。神様と、誰が祈っているのか、それすらも聞こえないのだ。皆が神社に来てくれたのは、どれくらい前だったか。八重が十代の頃、六十年程前だろうか、その頃、神社に来てくれていた人々の顔も思い浮かばなくなっている。


まるで、自分がこの世界から消えていくようだった。この手には、もう何もないと思い知らされるようで。

それでも、八重は神様を信じている。


「…神様の力は、なくなったりしませんよ。気づいていないだけなのよ、聞こえないと思い込んでいるだけよ。ちゃんと耳を澄ませて、その目で思い出して。こんなにもあなたを思っている八重が、ここにいるのですよ」


涙が堪えきれずにその頬に伝っていく。八重は、優しい声で言った。慈しむような、包み込むような温かい声だった。

神様は震える手をその頬に伸ばした。親指に、涙の一滴が伝っていく。


「…私は、お前を傷つけた、私のせいで何度も傷つけた、だから一人で逝くと言うのだろう?」

「…違います、そうじゃありません。昔も言いましたね、私はあなたに傷つけられた事は一度もありません」


八重の微笑みがいつかのそれと重なり、神様は瞳を揺らした。


「…でも、私は必要とされていない、あの時だって、私はお前が居なければ何も出来なかった」


だから、八重なしでは生きていけない、八重がいなくてはもう何も守れない。例えその目に映ることがなくても、いてくれるだけで良かった、それだけで、神としていることが出来た、例え力が失われかけていても。


「私は必要としています。あなたがいてくれるだけで、私達は支えなの、安心できるんです」


「例え死んだ身でも」と、八重は悲しく微笑み、頬に触れる神様の手をそっと両手で握ると、それを自分の胸へと抱き寄せた。胸元に触れても、もう鼓動は聞こえない、透けるその体に、神様は八重を失う現実を目の当たりにして、その苦しさに手を引こうとしたが、その瞬間、何かに触れた気がして、神様は八重を見つめた。八重は神様の手を抱きしめ、瞳を閉じている、まるで祈るように、願うように、思いを伝えるように。

そして、八重の思いは、確かに神様に伝わった。

体の、胸のその奥深くに、温かな何かが灯り、全身を駆け抜けていく。

愛おしいその気持ち。それでは収まりきれない、長すぎる時の中で共に歩んだ鞍木地町くらきじちょうの人々の姿、注ぎ込まれる八重の思い、ただ守りたいと思った彼女の幸せは、この町の未来へと広がっていく。

願いが、祈りが、この体に力を呼び戻していくようで。


八重の手に包まれたその手から、体は淡い光に満ち、神様の姿が少年から青年へと変わっていく。


神様は唇を噛みしめ、空いた片腕を窓から車の中へ伸ばし、八重を抱きしめた。


八重と過ごした数年、同じ目線で、同じものを見て、一緒に笑って、たくさんお喋りをして、もっと近づきたくて、触れてはいけないと、その数センチが遠すぎて。

八重が神様の姿を見る力を失って、会話はおろかまともに会う事も出来なくなったその後も、神社に八重だけは来てくれた、八重が寂しさを沢山埋めてくれた。


家族と、恋人と、子供と、孫と。八重が愛した人々を見守ってきた。ここは、八重と出会い、八重が愛した町だ。


「私達の町を守って、あの時みたいに。あなたは、この町の人々の支えなんだから」


きっと、大丈夫。

八重の言葉が過去のものと重なる。


柔らかな声に神様はその頬に手を触れた。やがて微笑みに頷くと、神様はそっと八重から手を離した。



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