23


「何故、私の願いを聞き入れない。お前は、悪魔に取り込まれた人間を救ってるじゃないか」


ぶわっと毛が逆立ち、その姿が変貌していくのを見て、アリアは慌てて木の下にトン、と煙草を指で叩いて灰を落とした。すると、灰が落ちた場所に僅か光が立ち、アリアと神様のいる木を取り囲むように光の膜が出来た。天使の姿は人目にはつかないが、妖を装った神が本来の姿を見せるとなれば、人目には見えずとも、時にそれは人に影響を与える。

そして、今の神様からは、その力を抑えようという様子は感じられない。


光の膜は、神様の力を隠して守る物だ。それが分かって、神様は体を蠢かせ、体から突き出した太い腕のようなものを空へ払った。ひ、と、アリアは悲鳴を殺して後退り、木の上から危うく落ちそうになった。目の前で変化を続けるその姿は、狸なんて可愛らしいものではなくなり、熊のように大きな黒い塊で、飛び出た腕は太く、その先にある鋭い爪は光の膜を飛び越え、空を切り裂いていた。グツグツと煮立つマグマのように、黒い巨体からは常に何かが沸き上がり、それは腕のようで、刃のようで、アリアの首を裂こうと狙っているように見える。


緑の愛らしい瞳は、唸りをあげる体の変化に対し、静かにアリアを見つめていた。


アリアは怯み、ごくりと唾を飲み込んだ。その静かなる威圧に、心が勝手に従いそうになる。恐れて逸らした視線の先にはあの病室があり、眠る彼女の姿が、傍らに立つ少年の姿が、アリアの気持ちを揺らしていく。

眠る彼女を救いたいと思うのは、神様だけではない。病室には居なくても、もしかしたら、もっと多くの人が彼女を助けたいと思っているのかもしれない。

ざわ、と翼が震え、アリアは分からなくなって、思わず翼で自分を隠そうとした。


「何故、彼女を救おうとしない、どれも等しく命ではないか」


静かににじりよるような声が、アリアを責める。


「人間を救う為に、お前の力はあるのだろう」


宥めるように、抱きしめるように、翼の上から声が聞こえる。視界が徐々に翼の白で覆われていく中、アリアは自分の手に視線を向けた。傷の浮き上がる手に、この力の意味を問う。アリアは翼の隙間から再び病室を見て、それから町へ目を向けた。この木の上からでは、見える景色は限られているが、それでもこの町に暮らす人々を感じる事が出来る。

アリアはぎゅっと手を握ると、震える翼を自分の視界から遠ざけた。目の前には、まだ変化を止めない神の姿、その威圧に息を呑む。その存在は、実際の大きさよりも遥かに大きく感じられ、怯えた心が舞い戻ってくるが、アリアは自分を奮い立たせ、煙草を口に咥え直した。


必要だと言ってくれた、間違ってないと言ってくれた、そんなフウガの声が聴こえたような気がして、アリアは煙草を咥えた口元に苦笑を浮かべた。支えられてるなんて悔しくて思いたくないが、きっと味方でいてくれる。仕事の為だとしても、アリアに正しい道を示してくれる。もし間違っていたら、きっとフウガがどうにかしてくれるだろう、なんて、気楽な気持ちが戻ってきて、本当に背中を押されたような気分になる。


青い煌めきを纏った煙が、神様の体に僅か取り巻いて消える。アリアは裂かれた光の膜の間から腕を伸ばし、空の亀裂に触れた。指でなぞれば、その亀裂が徐々に埋められていく。手の甲に止まっていた火傷のような跡が、じわりと手の平へ伝い、煙が目に染みてか僅か片目を閉じた。

そんなアリアの姿に、神はギリと奥歯を噛みしめた。


「…何をしている、私の言う事が聞けないのか。お前は天使だろ」


怒気を含んだ声に、アリアの体がびくりと震えた。まるで見えない力に抑えつけられるように、その腕を下げそうになるが、アリアは負けじと亀裂に指を這わせていく。噛みしめた歯に挟まれ、煙草がくしゃと歪む。


伸ばした空の向こうには、夕日が沈み始めていた。


アリアは、心臓を握られるような痛みに気づかない振りをして、その手を止めず口を開いた。


「俺が助けてるのは、元々、死期リストにない人間達だ。死期リストに名前のある人間の命を引き延ばす事は出来ない、出来てもしないよ。神様なら分かるでしょ」


するすると、空が裂かれるという異様な状態が元に戻っていく。これも、アリアの持つ与える力だ。

だが、人間を救うのと訳が違う。

アリアはだらりと腕を落とし、そのまま傾きそうになる体を寸での所で踏み止まった。

空の亀裂は神様の力によって出来たもの、亀裂には神様の力が残っているので、その力に触れる度、心臓が握り潰されるように苦しくて仕方なかった。それでもポーカーフェイスを必死に装うのは、今ここで弱さを見せれば、この命も、力も、目の前の神様に奪われかねないからだ。

ふと、光の膜の隙間から、死神の車が病院の上に停まるのが見えた。車から降りたのは長い髪をおさげに結った女性で、フウガではなかった。こちらの様子には気づいていないのか、気づいていても、死神にはそれぞれ仕事がある、指示がない限りこちらに来ることはないだろう。

黒い巨体は、絶えず変化を繰り返している。見えない腕が常に首に触れている気がする。深い緑の瞳が、アリアから視線を外す事はない。


「リストはしょっちゅう変わるじゃないか」


静かな声が、アリアの足を木に縛りつけるようで、見えない腕が全身を握り潰そうとしているような気さえして、苦しい呼吸が更に苦しくなる。今すぐにでも逃げ出したいのに、逃げられない、逃げてはいけないと、アリアは必死に自分に言い聞かせた。


「…不本意らしいけどね。でも、あの人は変わらないよ。そもそも俺の力だって、あんたが神社にいさえすれば必要なかった。俺だってこんな力があるの、最近まで知らなかったんだし」


病院に降り立った死神は、眠る彼女の部屋へ向かうだろう。何人経由してからなのかは分からないが、もうすぐあの人が天へ向かうのは間違いない。死神でなくても分かる、あの人は天界へ向かうのを拒まない。だって、寝顔がとても美しいからだ。見た目の良し悪しではなく、ただ、美しいのだ。きっと、未練なんてない。あったとしても、それを呑み込めるだけ自分の人生に納得してる。アリアにはそう見えた。

もう夜が来る、アリアが今すべき事は、神様をここで止める事だけ。アリアは怪物と化した神に向き直った。


「もう帰ろう、あんたの神使が必死で戦ってる、あいつらは、」

「今、お前を縛ってもか」

「え?」


アリアの体が突如、蔦のようなものに包まれた。アリアが座り込む木から飛び出したのか、アリアが避ける隙もなく、黒い蔦はその体を締め付けると、アリアを木の下に投げ出した。翼も使えないので、アリアの体はそのまま地面に叩きつけられる。どっと打ち付けられた衝撃に、アリアは痛みを感じると同時に、一瞬意識を飛ばしかけた。


「いって…何す、」


顔を上げかけた瞬間、アリアの心臓がどくっと大きく震えた。全身がドクドクと激しく波打ち、体中の力が急激に絞り取られていくような感覚に、息が止まりそうになり、アリアは目を見開いた。


天使や死神には、人間のように命の期限がない、その代わり、消滅がある。人間のように転生はないから、文字通りその存在がこの世界から消える。天界からも下界からもだ、それが出来るのは神様だけだ。



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