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まるで、水に溺れているようだった。上手く息が吸えなくて、混乱に視界が歪む。それでもアリアは地面の上でもがき、力づくで顔を上げた。神様の姿を霞む視界で探して、目に止まった存在に、アリアは歪む目を見開いた。黒い怪物みたいな姿が、いつの間にか子供の姿になっていた。丈の短い着物に下駄を履き、白い帯をひらりと宙に漂わせている。深い緑色の長い髪を後ろに結い、髪と同じ色の瞳は、変わらず静かに、冷たくアリアを見下ろしている。華奢な体の肌は白く、その青白い顔からは威厳が失われつつあるが、それでも、その目に見下ろされれば、体が条件反射のように強ばり、アリアは呼吸も儘ならない中、すぐに顔を伏せた。妖の姿でいる時とは訳が違う、したくなくても従わざるを得ない、神が本当の姿を見せているからだ。


神様はゆっくりとアリアの元へ歩み寄る、白く折れてしまいそうな華奢な指先が、アリアの顔の側に落ちた煙草を拾い握り潰した。手を開けば、煙草は灰となってハラハラと地面に落ちていく。


「神だって万能じゃない、この姿を保つのがやっとなんだ。私はいずれ消える、彼女が最後の希望だった」

「そ、んな、」


そんな事ない。どうして気づかないんだと声を上げたいのに、声どころか息も出来ない。神様が今どんな顔をしているのか、アリアには見る事も出来なかった。

アリアは、じわりと涙がこみ上げるのを感じ、それを拭う事も出来ず、一粒、一粒と、地面に溢していく。

結局、何も出来ないまま消えるのか。せっかく力があって、ようやく自分にも役割が出来たのに。

ようやく、と胸の内に思い浮かべた死神の姿が霞み、アリアは地面に着けた額をぐり、と押し付けた。息が苦しくて、頭が朦朧としてきた。

神様の指が、そんなアリアの髪に触れた。ふわりとした薄紫の髪を一房摘まみ、それから白い指が金の輪に触れる。


「ま、まだ、」

「今更命乞いをしても遅い」

「いる、」


アリアは懸命に口を動かした。頭も視界も朦朧として、ちゃんと声が出ているのかも分からないが、とにかく口を動かした。伝えたい思いがある、その一心で口を動かせば、思いは音になると信じて。伝わると信じて、信じるしか、アリアに出来る事はない。


「お前はもう必要ない、私がこの力を貰う」


呆れなのか、神様の声が溜め息に混じって聞こえる。それでも、伝えなくてはならない。

誰も、ひとりではない。


「ちが、い、いる、まだ、」

「何が言いたい、」



「アリア!」


その声に、アリアははっとして、頭を僅か動かした。どこから聞こえたのか、視線を巡らす事も出来ないので分からない、「…フウガ?」と、呟いた声はちゃんと音になっただろうか。は、と繰り返す息は、もう吸える空気を失いつつある。


神はアリアの金の輪から手を放し、空を見上げた。夜を背負う銀色の髪、空を駆けるのは死神の姿をしたフウガだ。隣りには、赤い羽織りの狸もどきを抱えた青年の、天使の姿もある。焦った表情で空から降りてくるフウガに、神は苦虫を噛み潰したように表情を歪めた。


「近づくな!この天使を消す事だって出来るんだぞ!」


神が手を払うと、アリアの体は再び地面に押さえつけられた。倒れたアリアの地面にヒビが入り、同時に蔦が体を締め付け、アリアは呻き声を上げた。


「あなたは…」


フウガはアリアの前に立つ少年の姿に、目を見開き足を止めた。目の前にいるのが失踪中の神だと分かったのだろう、となれば、迂闊には近寄れない。

その一歩後ろに降り立った天使の青年は、「おいおい、マジかよ…」と、その顔を青ざめさせた。「何で神様にしばかれてんの、あいつ!何やったんだよ、あいつ!」と、パニックになって頭を抱えたので、赤い羽織りの狸もどきはその腕から抜け出し、構わず神様の元へ駆け出した。


「待ちなさい!」

「神様!もう、」

「うるさい!」


フウガの横をすり抜けた狸もどきだが、神の一喝に、鳴き声を上げてその体を転がした。フウガが膝をついてその体を抱き上げると、その前足に傷がついているのが分かった。神様の仕業だろうか、今、何をされたのか全く見えなかった。


「おい、アリアが!」


天使の焦った声に顔を上げると、神はアリアの体を縛る蔦を手に掴み、再び木の上に向かってふわりと浮いた所だった。フウガは慌てて天使に狸もどきを託すと、木の下に駆け寄った。


「あなたの神使達が、疲弊しきった状態で悪魔の手に対抗し続けています。今夜も既に二人が犠牲になった。アリアが居なければ、犠牲は増え続けます!」

「他の者なんてどうでも良い!私は彼女の望みを叶えてやるんだ!彼女がいなければ、私は神ではいられない!」


神はフウガに向かって叫ぶと、アリアに向き直った。


「さぁ、力を渡せ!」


神が拳を握れば、アリアの心臓が、再びぐっと握り締められる。倒れ込むアリアを許さないとばかりに、神はアリアの首を木に押しつけた。

霞む視界に、緑の瞳が映る。ぼんやりして見える世界では、その瞳が泣いてしまいそうな気がして、アリアは震える唇を懸命に動かした。


「…やっぱ、駄、目だ」


役割を与えられて、でも、何が正しいのか分からなくて。この力自体、自分が持っていて良いものかも、まだ分からない。それでも、今すべき事は分かる。


息が出来ず、心臓が、喉が焼けそうに熱い。それでもアリアは、震える手でズボンのポケットから煙草を取り出し、それを口に咥えた。震えながらジッポで火をつければ、煙が立ち上がる。ふわ、と、青に滲む煙が神の顔を少し燻らし、アリアは煙を吸い込む事なく、煙草を唇に挟んだまま、絶え絶えの呼吸で言葉を紡いだ。


「彼女は、人間、だ、俺達、と、違って、寿命がある、だか、ら、この世界は、成り立って、循環、なきゃ、世界が偏って、淀む一方だ、そうなれば、いつ、か、この世界は、壊れる。それ、が、あんた達、神が作った、ルールだ、」

「ならば私がルールを変える!」


ぐ、と神の手がアリアの首を締め付ける。見開かれた緑の瞳が、今にもアリアの全てを呑み込もうとしているかのようで、アリアの心は今更ながら恐怖に震えた。


「…お前の力、私が貰う」


恐怖に絡め取られた心は、緑の深い瞳の、その奥深くの何かに征服されたかのようで。アリアの意識、体の感覚が自分のものではないみたいで、内側から全て奪われていくようで。


アリアがその時見ていた世界は、まるで深い海のようだった。深い海の底に沈められ、アリアの呼吸が止まる。胸の中心から、アリアの命が吸い取られていく、それなのに、何故か恐怖心が薄れていく。


消滅するのだろうか、自分は何もなくなってしまうのだろうか、それなのに、今は何も考えられない。


アリアの唇から、煙草がぽとりと地面に落ち、青い煌めきの散る煙は、そのまま空へと昇っていった。



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