15


***



とぷりと沈んだ意識の中、アリアはぼんやりと空を見つめていた。辺りは暗く、自分が立っているのか横になっているのか、どちらが天で地なのかも分からないが、ここが深い意識の底だなんて思わないアリアは、それを疑問とも思わず、ただぼんやりとするばかりだ。


だが、そんな状況でも、痛みは体に留まり続け、アリアをこの暗闇から引きずり出そうとしているかのようで。手の甲に浮かび上がった火傷のような傷痕がジクジクと疼いて、この体の持ち主はお前ではなく自分だと主張しているみたいだった。


その痛みに、ただ空を見つめるだけだったアリアは、小さく息を吸った。暗いだけだった視界が徐々に揺らいで、胸が苦しくなる。この体は本当に自分のものなのか、分からなくなる。


こんな風に不安に襲われるのは、アリアには失われた記憶があるからだ。






ある時、気がついたら世界管理局の本部の中、ただただ広い広間で、アリアは神様と対面していた。


真っ白な大理石の床がどこまでも広がり、天を仰げば神々の姿が描かれた天井画に圧倒され、何故かさらさらと水の流れる音がする。部屋の中だというのに、そこには荘厳な滝があり、更には広大な赤土の大地さえ見え、その先には青く透き通った空があった。目の前には、青く輝く蝶が戯れながらも優雅に飛び、傍らでは紅茶を淹れる天使の姿。ここは室内なのか屋外なのか、アリアは自分がどこにいるのか、この時は全く見当がつかなかった。



同じ世界管理局の建物内であっても、天使達が働く空間と神様が暮らす上層部とでは、完全に区切りがされていた。


天使達が働く下層部は、西洋のお城の中のような佇まいで、気品と煌びやかさに満ちた空間が広がっている。広い廊下に高い天井、廊下に敷かれた赤い絨毯はふかふかで、壁には美しい絵画や上品なライトが灯る。白い壁に金の枠が嵌め込まれた扉、オフィス内もさぞ下界の雑多な支部とは違うのだろうと思いきや、その荒れ具合は大して変わりなかった。ピカピカの床に、デスク等の調度品は確かに優雅で品のある物に見えるが、その上には書類やファイル、開きっぱなしの液晶画面、食べかけのお弁当やパンの袋、すっかりのびてしまったカップラーメン、誰かの脱ぎ捨てたシャツ等で渋滞を起こしており、とても残念な状態の部屋ばかりだ。これも、万年天使不足の代償だろうか。


そんな豪華絢爛さと生活力に満ちた天使の職場だが、上層部は別世界、異空間だった。


天井があったと思えば消えていたり、壁があったと思ったら広大な大地の果てを見たりする。内装も神様の気分で自在に変化し、神様達には上も下もなく、そこに見える全てが幻覚ではなくちゃんと存在しているので、もし、この部屋に現れた空を飛んでいる内に天井が現れてしまったら、空を飛んでいた者はどこにいるのだろうと、アリアは現実を忘れて妄想に逃避したりもした。


神様との対面は、薄い幕を隔ててのものだったので、顔や姿は一切見えなかった。それなのに、その存在の大きさに圧倒され、威圧感にも似た神々しいオーラに顔を上げられなかったのを覚えている。何故、自分がこんな所にと、アリアは冷や汗が止まらなかった。


下界で暮らす神様も、天界で暮らす神様も、立場は皆同じだが、天使にとって印象は少し異なる。下界で暮らす神様は、人間を見守り、神使を通して、時には直接顔を合わせて意見交換をしたりと、天使にも身近に感じられる事が多い。だが、天界で暮らす神様には、限られた天使しか近づけず、神様に話を通す時も、側仕えの天使が間に入る事になっている。下界の神様と違い、世界を管理するという役割のせいもあるからなのか、天界の神様は近寄りがたく、逆らう事など以ての外。そんな神様ばかりだった。


だからアリアは、きっと自分は何かしでかして消滅させられるのだと思い、恐怖で畏まるばかりだったのだが、そこで思いもよらず告げられたのは、「ようこそ、今日からあなたは世界管理局の局員です」といったものだった。アリアは予想外の言葉にきょとんとした。消滅どころか働く場所を与えられた、しかし上手く言葉を飲み込めない。気がついた時から困惑していたせいもあるのだろうか、神様のものと思われるその声は、遠いようで近く、はっきりと聞き取れるのに霞に紛れているようでもあり、気を抜くと目眩を起こしてしまいそうであった。


そうしてアリアが頭を下げたまま固まっていれば、側仕えの天使から返事を促され、アリアはようやく「はい」と返事をすることが出来た。


「…あの、」


そして思いきって顔を上げた時、アリアは瞬きする間に、本部の下層部に移動していた。


「…え?」

「お前が新入りだな!ほら、こっちに来い!仕事はどこの部署も山ほどあるんだ」


と、これまた突然現れた厳つい天使によって首根っこを捕まれ、アリアは即座に新人研修に入り、結局何も分からないまま、世界管理局で働き始める事となった。



そしてアリアは、自身に失われた記憶がある事に気がついた。


自分が誰であるか、家族の事も分かるし、日常生活を送る上で問題は何もなかった。ただ、自分の外枠だけはしっかりあるのに、中身がないようなと言えば良いのか。子供の頃に遊んだ場所、学校や友人の存在、家族と過ごした日々、何故、世界管理局に配属されたのか。それらの思い出や記憶を、アリアは持っていなかった。自分が何に悩んで迷い、何に喜びを得て生きていたのか、そういった事もすっかり抜け落ちていた。


更に、自分について何か思い出そうとすると、体は拒否反応を起こした。それは頭痛だったり、恐ろしい程の睡魔だったり。アリアが仕事をしないで怠けてばかりいたのも、半分はこれが原因であった。

仕事に関しても、ただ伝言を伝えるだけ、文字を書くだけなのに何故か出来ない、仕事に関係のない事はいくらでも出来るのに。おかしな体質は、いくら説明しようと、誰も真面目には受け取ってくれない。ただサボりたいだけだろうと、いつだって困り顔で、呆れて溜め息を吐かれた。だから、アリアもその内に諦め、現実から逃げるようになった。


きっと自分は欠陥品で、その内、神様に消滅させられるのだろうと。人間と違って、天使や死神に転生はない。


こんな自分が転生した所で、きっと価値もない。


だったら、なまくら天使と呼ばれている方が楽で良い、アリアはそう呼ばれる事で自分を守ってもいた。何もしなければ恐怖はやってこないし、辛い事は何もない。幸い、怠けていても神様に呼び出される事もなかった。

そんな風に長すぎる年月を過ごす内、最初は身を守る為の行為だったのが、今ではしっかりと怠け癖がついてしまった。



今思えば、神様が敢えてそうさせていたのではと、アリアは思う。何も考えられず、何も出来なくさせたのは、アリアが自分の力に気づかないように、不用意にその力を使ってしまわないように、神様がまじないを掛けていたのではないかと。


それなら、力を使いそうになった時にだけストッパーを掛けてくれたら良いのに。アリアはいくら神様のした事とはいえ、そう思わずにはいられない。


したくても出来ない、何も考えられなくなる事は、まるで何者かに自分が支配されているようにも思えて、アリアはそれが、ただただ怖かった。だから、必死に目を閉じて、ずっと気づかない振りをしていた。



深い意識の底で、アリアは顔を上げた。


でも今は、出来ることがある。必要としてくれている人がいる。


それは、アリアがずっと望んでいたものだった。





***




「目が覚めましたか?」


フウガの声がして、アリアがぼんやりと声のした方に顔を向けると、フウガは開いていた黒い手帳を閉じた所だった。アリアは数度瞬きをすると、のそのそと体を起こした。ここは、アリア達が寝泊まりをさせて貰っている神社の一室で、アリアは布団の上で眠っていたようだ。


「…俺、寝てた?」

「まぁ、そうですね。一時間程でしょうか」


そう言うフウガの表情には安堵が滲んでおり、心配してくれていた事が伝わってくる。アリアはこそばゆさを感じ、所在なげにふわふわの髪を、わしゃわしゃと掻き混ぜた。


「えっと…何で寝てたんだろ?」

「神使殿に力を分けたのは初めてですよね?それが負担になったのかもしれません。相手は、元々神様の力を受けていましたから、何か反動があったのでしょう」

「そっか…感覚的にはいつもと同じだったけどな…あ、悪いな飯食べてない」


立ち上がろうとするアリアだったが、途端に目の前が真っ暗になった。傾く体をフウガが咄嗟に支え、そのまま布団に腰を落ち着けさせた。


「行きなり立とうとするからですよ」

「悪い…なんか変だ、体」


いや、頭だろうか。額を押さえて難しい顔を見せれば、フウガが小さく息をついた。


「食事はいつでも構いませんから。朝、食べ終えた後も具合悪そうにしてましたよね」


気づいていたのかと、アリアは目を丸くして、背中を支える手の温かさに、またむず痒い思いが生まれてくる。


「…じゃあ、もうちょっとしたらにする。悪いな、作れって言ったのに」


申し訳なさそうにアリアが言えば、フウガは拍子抜けしたようにきょとんとした。それから可笑しそうに「何を気にしてるんですか」と笑って、ぽんと軽くアリアの肩を叩いた。そのまま手帳を胸ポケットにしまって立ち上がるフウガを見て、アリアはフウガが人間の姿をしている事に気づいた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る