第2話

 私──東屋あずまや泰誓たいせいが異世界転移なるものに巻き込まれたのは、およそ五年前のことだ。私が元いた世界で使っていた暦とこの世界に浸透している暦にはこれといった違いが見受けられないので、この五年という期間も、私の体内時計が導き出した体感的なものではない。しっかりと裏付けのある五年間を、私はこの世界で過ごしている。

 転移当時、私には一人の仲間がいた。貴島きしま志喜しき。私の大学時代の友人であり、私が現在暮らしている世界で一国の王をしている。

 当時、我々は元の世界で起業の準備を進めていた。


「だって泰ちゃん、金の計算とか書類作るのとか得意じゃん?」


 私は貴島のその一言で、以前まで勤めていた会社を退職した。これといって貴島自身や貴島の商才に思い入れがあったわけではない。単にその頃勤めていた会社に将来性を見出せなくなっていた時期で、環境を変えてみてもいいのではないか、とタイミングよく貴島の求心力に幻想を見せられたのである。


 まさか、住む世界や常識ごと環境を変えられるとは思ってもみなかった。


 異変が起こったのは、現世で首尾よく事務所を借り、拠点を作った夜のことだった。


「あっ? 何だこれ」


 書類を整理していた私の背後で、貴島が声をあげた。それとほぼ同時に、コピー用紙の一枚が宙を舞い、床に落ちるような小さな摩擦音が私の鼓膜を刺激した。

 その直後のことである。

 爆弾でも炸裂したかと思うような鋭く白い光に視界が覆われ、私は思わず目を瞑った。

 次に目を開くと、そこは事務所ではなかった。見渡す限りが森林──いやジャングルだった。


 それも夜で真っ暗の。


 私は真っ先にスーツのポケットを探った。あまりにも暗いため明かりが欲しかったし、何より電波が必要だった。現在地はどこなのか、電話は通じるのか。見知った場所に帰るためにタクシーは呼べるか。

 しかし、ポケットの中に入れていたはずのスマホがなかった。財布も──そして、すっと背筋に寒いものが走って頭が冴えた段階で、左手につけていたはずの腕時計すら消えていることに気づく。着の身着のまま、という言葉が頭をよぎる。不幸中の幸いと言うべきか、眼鏡は着衣に含まれていた。


「…………どーなってんのよ、これ」


 どういうことだ、説明しろと言いかけ振り向いた私よりも先に口を開いたのは貴島で、途方に暮れきった貴島の声を耳にした私は、吐き出しかけた言葉を飲み込まざるを得なくなった。

 いついかなる状況でも飄々と無責任に笑っているのが、私の知っている貴島志喜という男だった。その点において、暗がりの中で感情の抜け落ちて引きつった笑みを浮かべているだけの貴島は、明らかにこの状況の一端すら理解していない、私と全く同じ立場の無力な人間だった。


「俺、今週末、妹の結婚式なんだよね」


 一切が不明な状況で私と目を合わせた貴島は、最初にメロスのようなことを言った。

 わけのわからない場所に突然放り込まれた二人のうち一人を置いて、一人だけが現世に帰ることを許されるというのなら、そして貴島が私のところに戻ってきて、改めて二人で現世に帰る方法を探ろうと言うのなら、セリヌンティウスの役目を引き受けてやることも検討しないではなかった。

 しかし一切は幻想である。視界に入る生命体といえば互いの姿だけであり、邪智暴虐の王が名前も知らない森林に存在するはずもなかった。


「……とりあえず歩こう。人を探さないことには何も始まらない」


 私は言って、湿った草地を革靴で踏みしめた。今思うと考えられない暴挙である。夜間のフィールドを武器も防具も持たない状態で探索するなど、縛りプレイにも該当しない自殺行為だ。当時は知らなかったとはいえ言い訳にもならない。何しろ、元の世界でも遭難者は極力動かず、じっと救助や人が通りかかるのを待つのが得策なのである。それを目のきかない夜間に動き回ろうと提案するのだから、当時の私は相当混乱していた。

 そして、それに黙ってついて来た貴島も、おそらくは同様だった。


「──俺、これ知ってるかも。異世界転生ってやつ。漫画で読んだことあるわ」


 湿っぽく青くさい暗闇を小さな歩幅で進みながら、貴島がぽつぽつとアプリで読んだことのある漫画の内容を話した。これだけ茫然と鬼気迫った声色で漫画の話をする人間がいるのかと思うほどだったが、それを聞く私の表情も、人のことは言えなかっただろうと思う。


「……つまり、私たちは死んだのか?」

「わっかんね。……ブレーキとアクセル踏み間違えて、事務所ごとトラックに突っ込まれたとか?」

「事務所は三階だ。もう現世の記憶を無くしたのか」

「冗談だっつーの。冗談……」


 到底冗談を言っているとは思えない滅入り方で、貴島が言った。


「泰ちゃん、わり」


 落ちていた木の枝を踏んで折ったような音が鳴るタイミングで、貴島が消え入りそうな声を発した。私の靴底に木の枝の感触はなかった。


 私は聞かなかったことにした。


 それからしばらく無言で歩く中で、貴島はもう一度だけ口を開いた。


「死んでない場合は、異世界転移って言うらしい」

 それを今思い出したとはとても考えにくく、私には見えない邪智暴虐の王の声でも聞こえているのではないかとすら疑ったが、私はまたも、何も返さなかった。




 私たちは誰にも何にもエンカウントすることなく、夜明け前には人が生活していると思しき集落に辿り着いた。風景は現世と似ても似つかぬ異国、あるいは異時代の雰囲気を醸し出していて、木と石と煉瓦で構成されていた。ところどころで光を発する照明は全て火を光源としていて、まだ明かりの灯っている住居の影は不安定に揺らめいている。


 貴島は集落と森の境界線が見えるや否や早足になった。半ば駆け寄るようにして境界の内側に入り、忙しなく周囲を見回した。かと思えば一軒の木造建築に近づき、躊躇いなくドアを押し開ける。

 私は貴島の変わりよう──見方によっては通常運転への戻りように面喰らいながら、貴島を見失わないよう走って後を追った。

 そして閉じようとするドアを体当たりするように再び開けた私は、目を──いや、耳を疑った。


「夜が明けるまでの数時間──馬小屋でも物置でもいいんです。落ち着いて休める場所を貸して欲しい」

「#%*¥$」

「金? 金はだからないんですよ。ここに来る途中に全部盗られて。代金がわりに掃除とか……皿洗いぐらいだったらできると思いますが」


 最初は私の聞き間違いかと思った。だが、違う。


 聞き間違いではない。


 木造建築の内部はこぢんまりとしていた。目につく場所にカウンターのような台と、ひとり人が入ったらそれでいっぱいになるだろうスペースがあり、その奥に上り階段が見える。それ以外には申し訳程度のテーブルと椅子、テーブルの上には一輪挿しが置かれているだけだった。花の品種はわからない。見覚えもない。

 カウンターの内側には禿頭の中年男性が座っていて、貴島と何かを言い合っている。


 そう。言い合っている……のだ。


 私には禿頭の男性が何を言っているか──単語の一つすらも聞き取ることができないというのに、貴島は平然と、一切の逡巡も見せずに、ほとんどノータイムで言葉を返している。

 そして、私には貴島の言っている言葉だけが理解できる。聞き取ることができる。

 なぜなら、貴島が喋っていたのが紛うことなき日本語だったからだ。

 貴島は日本語を喋っている。なのに、貴島の相手は日本語ではない何か──単語も文法も定かでない未知の言語を操っている。それで会話が成立している。


「……」

 私が呆然と二人の様子を遠くから眺めていると、やがてカウンターから離れた貴島だけが戻ってきた。話にならんとでも言うように苦々しい笑みを浮かべ、「悪い。ダメだ」と言って肩をすくめる。


 何がダメなのか全く理解できない。


 いや、違う。理解はした。何しろ私は、貴島の言い分だけは間違いなく聞き取れていたのだから。貴島は文無しにも関わらず休める場所を提供してもらおうと交渉していたのだ。しかし、金がなければ話にならなかったのだろう。店主と思しき中年男性にすげなく断られ、この場所での休憩を諦めた。そして私に「ダメだ」と言った。

 だが、それを理解してもなお、私は問わずにはいられない。


「貴島、お前──」

「とりあえずここ出ようぜ。流石に居心地悪ぃ」


 すれ違いざまに腕を取られ、半ば引きずられる形で店を後にする。

 去り際、店内の壁が視界に入った。カウンターの近くの壁に張られた薄く大判な紙の束には、直線でいくつにも仕切られた升目と、各升目の同じ位置に配置された文字のようなものが描かれていた。升目は七列五段。左端の縦一列目だけ、文字が赤い。

 ……カレンダー……?

 私が緩慢に疑問符を浮かべると同時に、ドアが閉まった。




 一夜は結局外で明かした。建物内に明かりが点いていないのをいいことに、カフェと思しき施設のテラス席を拝借した。

 日が昇ってからの行動は、ほとんどが貴島主導で決まっていった。情報を集めるのも貴島なら、私に何かを提案するのも貴島だった。理由は単純で、私は異世界人の言葉を解さなかったし、異世界人は私の喋る日本語を解さなかったからだ。

 一方で、なぜか貴島の操る日本語だけは異世界人に通じた。そして貴島は異世界人の言語をごく自然に理解していたし、異世界で使用されている文字も読むことができた。


「金を得るなら、モンスターだ」


 貴島は真剣な顔で私に言った。


「何だって?」

「夜話したこと、まさか忘れたわけじゃねぇだろ? ここは異世界なんだって。剣と魔法の……ゲームの世界みたいなもんだよ。モンスターを倒して得た肉とか素材を売って、金を作る。それが一番シンプルな方法ってこと」

「倒すとは言っても……」

「まあまずは見てろ」


 言うが早いか、貴島は空中に向かって手を伸ばした。


「フレイム」


 貴島がそう口にした途端、彼の手のひらから数センチ離れた空中に、炎の玉が出現した。

 私は絶句した。遅れて周囲を見回すが、周囲の人々に貴島を見咎める様子はない。かといって誰の視界に入っていないという雰囲気もなく──貴島の炎は住民の日常に溶け込んでいた。


「……お前、そんな特技を今まで隠し持っていたのか」

「馬鹿。今覚えたんだよ今」

「今って……ここに来たのは昨日の今日じゃないか。一体誰から教わった」


 まさかさっきの店の店主じゃないだろうな、と私が続けざまに言うと、「あーそうそう。その通りだよ、よくわかったな」と気のない返事を返される。貴島は私が異世界人の言葉を理解できないことを知っている。


「あの服屋の……女主人がか」

「〈防具屋〉な」

「……」


 私は直前に入った〈防具屋〉なる店の軒先を振り返る。木製の看板に彫られた文字は、どう頑張っても解読できない。

 しかし、防具屋と言われて腑に落ちる部分は確かにある。

 あの店に置いてあるものは、「服」というカテゴリーで簡単に括れるものではなかった。目の粗い麻でできた、防寒の役目ひとつ果たせなさそうなジャケットがあれば、木でできた光沢のあるマネキンには私が着ているものと大して変わらないクオリティのスーツが上下揃いで展示されてもいる。そして、その隣には当然のように傷ひとつないピカピカの甲冑が並んでいるのだ。この三点を同じ枠に分類できるとすれば、確かに「防具」しかないのかもしれない。


 日常的に何者かからの攻撃を受けることを前提にした生活が、仮に存在するのなら。


「モンスター、ね」

私は眼鏡のリムを一度押し上げてから、重く短く息をついた。

「……で、私は何をすればいい。お前が某から教わった魔法とやらを、今度はお前が私に教えてくれるわけか?」

「いや、泰ちゃんはいいよ。俺が一人でやる」

「はあ?」

思わず頓狂な声が出た。咳払いを挟む。

「……正気か? お前は知らないかもしれないが、私にも少年時代はあったんだ。ゲームもファンタジーも人並みに触れている。……モンスターを狩るなんてのは、一人でやっていい仕事じゃない。命がけなんだぞ。現世の野生動物にもまともに相対したことのない人間が……」


「それでもやる。俺には上手くやれる自信がある」


 貴島の声には芯が宿っていた。一瞬だけ私は面喰らい、貴島らしからぬ真摯な傲慢さに薄ら寒い危機感を覚えた。


「お前なあ……!」

「それに、だって、たぶん俺のせいなんだよ。俺が友人おまえを巻き込んだ。……その責任は、俺が取んなきゃダメだろ」

「貴島……」


 その時に見せた友人の表情を、私はおそらく生涯にわたって記憶し続けるだろうと思う。

 いついかなる時も飄々と無責任で、だからこそ彼の周りには人が集まるし世話を焼く。

 状況をまるで鑑みず振り撒かれる笑顔に、人々は無意識のうちに元気づけられ、きっと肩の力を抜くのだろう。そして人々は、その笑顔を絶やしたくなくてこの男を助けてしまう。


 それが貴島志喜だった。


 そんな男が笑顔を沈めて悲痛に歯を食いしばり、拳を握りしめて言うのだ。

「責任」と。

 まるで真っ当な代表者が使うような言葉を。


「……買うまでだ」

「……え?」

「日々の食事と安全な寝床を最優先で確保する。それから、必要ならば傷や病気に対処するための道具。それらを優先的に手に入れた上で、浮いた資金で剣を買え。私は中学から剣道を嗜んでいるから、少しはまともな働きをするだろう。……まあ、社会人になってからは稽古する時間もほとんど取れていなかったが」

「泰ちゃん……」


 貴島がわずかに、緊張させていた頬を緩めた。私はそれに笑顔と同様の効用を感じる。


「だから、それまではせいぜい社員を養ってくれ。いいな? 貴島社長」


 私が貴島の肩に手を置くと、貴島はふっと歯を見せて苦笑した。


「OK。肩書きに見合う絶品グルメ食わしてやるから、覚悟しとけよ」

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