第30話 蠱 -The Last Man Standing-


種田の城が燃えていた。

城も人も空も、慣れ親しんできた全てが炎に包まれていた。


「誰か! 誰かいませんか!」

倒壊した梁に足を挟まれ、身動きが取れなくなった十四歳の絹は叫んだ。

さっきまでは息のあった家臣たちも、いつしか炎に巻かれて見えなくなっていた。

残されているのは、チロチロと炎に舐められ朽ちていく死体と瓦礫ばかり。


「みんな、死んでしまったのですか……?」


灼けついた空気に顔と喉を焼かれ、掠れた声で絹は言った。


「これが、先生の言っていた『地獄』……」


『外』の世界を見てみたい。

ただ、そう願っただけだったのに。

その報いは、たった一人の少女にはあまりにも重すぎた。


「おーん? そこにおるのは誰だぁ?」

一人の侍が、絹姫を見つけて近づいてくる。

「おお! 乱の旗印、種田の姫君さまではあるまいか」


口元に笑みを浮かべる侍に対し、絹は小刀を向けた。


「寄るな、下郎! ただで斬られてやると思うな!」

「くっくっく」


侍は低く笑った。


「そう怯えるな。せめて兄と同じところに送ってやるから、俺の手柄になっておくれよ」


侍はそう言って、手に持った生首を示した。

髪を掴まれ表情が不対象に歪んだ生首は、確かに絹の知っている顔をしていた。


糸宗いとむね兄さま……」


握力を失った絹の手から、小刀がスルリと滑り落ちる。

それを見て、侍はしたり顔をした。


「いい、実にいい顔だ。禍山先生に良い土産話ができた」


身動きの取れない絹の傍らに立つと、侍は刀を振り上げる。


「せめてもの情け、一太刀で首を刎ねてやろう!」


刀がまさに振り下ろされようとした時、絹は目を瞑った。


死にたくない。

そう思う反面、心のどこかではこれで良いような気もしていた。

これ以上ひどい目に遭わずに死ねるなら、それも神の憐憫なのではないか。


絹は、終焉が訪れるのを身を縮こまらせて待った。


「が、ごっ……!?」


その時は、来なかった。

目を開けて見上げると、侍の頭が今宵の月のように抉れ欠けていた。

鉄砲で射殺されたのだと理解するまでに、数秒がかかった。


「ひっ……」


倒れた侍を踏みつけにし、絹のよく知る男が彼女を見下ろした。


「生きていたか、絹姫よ」

「先生……」

「麻時どのは御自害なされた。兄・糸宗どのは?」

「こちらに」


絹は、侍の落とした生首を抱き締めた。


「……では、残ったのは貴様ひとりというワケだ」


手に持った『八俣大蛇』を絹に向け、蠱師は訊ねる。


「せめてもの情けだ。貴様が望むなら、今ここで楽に殺してやってもよい」

「いいえ」


兄の首を抱えたまま、絹は首を横に振る。

「幕府の与えたこの仕打ち、報いずに死んでなるものか……ッ!」

「……よい心がけだ。やはり、貴様には修羅の才がある」



蠱師と共に城を逃れた絹は、それから戦い続けた。

業物『天照』による必殺の居合を血反吐を吐くような鍛錬の末に身に着け、幕府の刺客を返り討ちにし続けた。


「憎い、憎い、憎い……!」


逝原の幕府が。

残虐な侍どもが。

幕府の庇護の下でのうのうと暮らす民が。


「憎い……ッ!」


そう思う反面、絹はその怜悧な頭脳で事態を俯瞰していた。


(『乱の平定』……幕府が種田を滅ぼした大義名分は、でっち上げでも言いがかりでもない。お父様と先生は、間違いなくこの国に戦火を持ち込もうとしていた)


絹の留学計画を進める傍ら、どこからか手に入れた業物を『裏』にばら撒き、何かをしようとしていた。

あるいは於頭・種田の乱の惨劇も、蠱師の計算の内だったかもしれない。

だとすれば、彼の計画に従い復讐に生きる自分はなんだ?


そのことを考えるたび、師から授かった『大蛇』の八番を自らの頭に向けたくなる。


(だめだ、まだ死ねない。『逝原滅ぶべし』。絶対に、絶対に成し遂げてやる……)





「はっ!」


シルクマリアの朦朧とした視界に、パッと空が映し出された。

雲の破れ間から差す日が、兜の覗き穴越しにまばゆく輝いている。


「ここは……!?」


シルクマリアは、死合いの場・松殿島のぬかるみに尻餅をついていた。

炸裂装甲の業物『火産神ほむすび』による起爆に雹右衛門を巻き込んでからの記憶が途切れている。


(爆発の衝撃で意識を失っていた……!)


長くとも十数秒にも満たない時間だったはずだ。

でなければ、あの『虫斬り雹右衛門』がこの決定的な隙を見逃すはずがない。


(そうだ、雹右衛門は……)


立ち上がろうとしたシルクマリアの意識が、ぐらりと揺らいだ。

(くっ……!)


首筋を中心に、身体の感覚が消え失せ始めている。

雹右衛門の繰り出した羽々斬の一撃はシルクマリアの首筋を浅く裂き、動脈の働きを鈍化させていた。


それだけではない。

周囲には、さきほどまで無かった白霧が立ち込めていた。

濠に浮かぶ小島に過ぎない松殿島が白霧に包まれ、一寸先も見えない吹雪の山のような白世界を作り出している。


(羽々斬の瘴気が周囲の水蒸気を冷やし、霧へと変えたか……)


『瘴気』。

シルクマリアは思い浮かべた言葉にハッとして口元を押さえた。


(……いや、あの刀から発せられていた白煙に、恐らく毒性はない。その代わり、一帯の酸素濃度が著しく下がっている……?)


麻時がかき集めた西欧諸国の資料を読みふけり、絹は古典化学の知識を身に着けている。

気体の性質と、人体と気体の関りについて、彼女は逝原でもほぼ唯一正確な洞察を働かせることができる。

(ふふ、高山に登ったものだとでも思えばいい。これは、雪山での狩りです)


ふらつく頭を抱えながら、シルクマリアは白霧の中へと足を踏み出した。

「どこだ。どこへ逃げたのです、雹右衛門」

歩いて横切るのに数十秒とかかからない松殿島が、変に広く感じられた。

五里霧中の中、シルクマリアはどこから現れるかもしれない雹右衛門を警戒しながら、恐る恐る進む。


ぴしゃり。

ぬかるみとは異なる感触に、シルクマリアは足を止めた。


「やはり」


屈んで確かめると、足元に夥しい量の血痕が広がっている。

これまでの『死合い』で起こった流血は昨日の雨で流されているはず。

雹右衛門の血に違いなかった。


(やはり、『火産神』の起爆は当たっていた。この傷なら、そう速くは動けないはず)

血痕は、そこから逃れるように続いている。


「……」

 一歩一歩、その痕跡を注意深く、音を立てずに追う。


(ふふ、北に逃げ延びた時には、鹿を撃ったこともありましたね……)

「相手は手負いだ。焦らず、ゆっくりと追い詰め支配せよ」

「っ!?」


シルクマリアは振り返るが、もちろん誰もいない。


(いるはずがない! 今、私は幻覚を……)


後世に至るまで、人類が超高標高の高山を畏れた理由がここにある。

酸素濃度の低下。

熱帯魚が水温一度の差で死に絶えるように、人も大気の濃度変化によって簡単に極限状態へと陥る。


熟練で登山家ですら、何度も高地と低地を往復して低酸素状態に順応してから山頂を攻めるもの。それも無しに低酸素状態で死闘を行うなど、土台無理なのだ。


「はぁ……はぁ……ッ!」


シルクマリアは息苦しさに、たまらず兜を脱ぎ捨てた。


音にならない喘ぎを漏らしながら、シルクマリアは何度も何度も血の痕を確かめ、手の届く範囲しか見えないような濃霧の中を進む。


視界を覆うのは濃霧の白だけではない。

低酸素による視覚障害により、自分の躰すら白くぼやけ始めていた。


時間の感覚も薄れてきている。

数歩の距離を歩くのに、一分どころか十分以上もかかっているような気さえする。


音を立ててでも、大きく息を吸い込みたい。

だが、それをすれば先に相手に見つかり斬られる。その葛藤が炎よりも熱くシルクマリアを焦らし、掻き立てている。

彼女が地獄を経験していなければ、乗り越えられなかっただろう。


(これが貴方の『地獄』というわけですか、『虫斬り雹右衛門』……)


手足の感覚が、先ほどにも増して薄れていく。

首の凍結傷が徐々に体を侵食しているようだ。


「絹よ。もういい、休め」


今度は父・オーギュスターン=麻時の声が幻聴となって囁かれる。


「お前は充分頑張った。さあ、共に神の許へ……」

「黙れ!」


声にならない叫び声をあげ、シルクマリアは白霧を手で振り払った。


「何を勝手なことを! 私を巻き込んでおいて! 一人だけ楽に死んでおいて、何を!」


心臓が高鳴り、手足に血が通う。

或いは錯覚だったかもしれないが、シルクマリアの歩みに力強さが戻った。

怒りが、倒れかけていたシルクマリアの身体に火を灯したのだ。


白く息を吐きながらも、シルクマリアは泥濘と白霧を音も無く進み、そして……


「はぁ……はぁ……見つけましたよ、『虫斬り雹右衛門』」

「……遅かったな」


雹右衛門が、白霧の向こうに幽鬼のように立っていた。


やはり無事ではなかった。

右耳から鼻にかけての側頭部が爆発で抉れ、黒く焼き潰れていた。

そして、シルクマリアを斬るために突き出されていた右手は、一番凄まじい。


「腕ごと持って逝けたかと思いましたが、指だけで済みましたか」


雹右衛門の右手首から先が焼失していた。

その代わり、手のあった場所に羽々斬の刀身が添え木のように当てられ、布でかたく固定されている。


極低温の刀身が傷口を凍結し、出血を止めているようだ。


「短時間の処置にしては、ずいぶん器用ですね」

「……鍛冶師、だからな」

「ああ、そうでしたね。強すぎて、忘れていました」


シルクマリアは、皮肉でなくそう言った。

今、自分は逝原でほぼ唯一の業物鍛冶の手を潰したのだ。


しかし、シルクマリアの心の内に沸き立ったのは、相手の利き腕を潰した達成感でも、鍛冶師の商売道具を壊した罪悪感でもなかった。

雹右衛門に対する怒りだった。


「私が自爆しようとしたあの時、なぜ手を抜いたのです」

シルクマリアは雹右衛門をにらんだ。


「『火産神』の起爆と貴方の『羽々斬』、間違いなく貴方のほうが疾かった。あの一瞬で、無事に勝負を付けられたはずだったのに、貴方はためらい、そのザマです」

「……」

「なぜです! 雪路ちゃんのところに生きて帰らなければならない身で、どうして情けをかけたのです! 答えろ!」

「……アンタが、可哀そうに見えたからだ」

「え?」


黒く焼けただれた顔の奥に涼やかな眼光を覗かせ、雹右衛門は絹を見つめた。


「アンタは、死ぬために戦ってるんだろう? それも、独言髑髏のように命を使うためじゃない。命を捨てて、楽になりたがっているように見えた。あの殺し合いの刹那、ほんの一瞬だけアンタの心が分かったような気がして、手が鈍った」

「っ!」


シルクマリアは雹右衛門をにらんだ。


「この甲斐性無し。雪路ちゃんを残して、私に殺されたいんですか!」

「雪路なら、おれがいなくなっても問題ない。おれが思っていたよりも、ずっとずっと、あの子は強い」

「ふざけるな!」


シルクマリアは、叫んだ。


「そんなの、私が莫迦みたいじゃありませんか。一人で意地を張って、戦い続けて」

「莫迦じゃない。おれも、居場所のない世を生きるためには誰かを憎むしかなかった」

「知ったような口を……っ」


シルクマリアは加具土を捨てた。

二丁の大蛇を捨て、纏っていた甲冑の残骸を脱ぎ捨てた。


勝負を放棄したのではない。

次の一撃を最適化するために、余計なすべてを捨てたのだ。


シルクマリアに残されたのは、鎧の下に守られていた身体と天照だけ。

しかしそこには、執念と鍛え上げられた肉体、そして殺意がむき出しとなって現れた。


「最後の勝負です、雹右衛門。私を哀れむならば、全力を受け止めて見せなさい!」

「……ああ」


雹右衛門は、右手にくくりつけた羽々斬を構える。

対してシルクマリアは居合の構えで迎え撃つ。


風が吹き、立ち込めていた白煙をさらってゆく。

雲のように雪のように、二人の間を大きな煙の塊が横切ってゆく。

両者の姿が一瞬隠れた刹那。


つわものたちは互いに向けて前進し、交錯し、すれ違った。














霧が晴れ、再び観衆の目に晒された二人の姿は、互いに背を向け合い静止していた。

それまでの経緯を見ていなかった人々にも、その意味するところは一目で分かった。

すでに、賽は投げられている。

後は人の手を離れたサイコロの目が、どう表れるかだけのことだ。


「く……っ!」


絹は右手を押さえ、天照を取り落とした。

その手首に白い傷が走り、凍結している。


「あくまで命は取りませんか、ひどい人……」


絹は呟き、その場にひざまずいた。

決着。

誰もがそう思った時、雹右衛門が振り返った。


血相を変え、絹に向かって駆け寄ろうとする。


「避けろ!」


その言葉の意味を、その場にいたほとんどが理解できなかった。

ただ、絹と柾国だけが。

雹右衛門の言葉の意味を本能的に察して動き出した。


「なんとみっともない死合いだ。出来損ないどもが」


試合場から遥か離れた山寺の境内から、音越えの弾丸が放たれた。


それは、かつて『仕掛け屋九平治』が用いた業物。

御射軍神みしゃぐじ』による、蠱師の遠隔狙撃であった。

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