第26話 開花 -Childhood's Beginning-
人様の役に立って細く長く生き、恨みや争いに心を害されず逝く。
柄本雲八が望んでいたのは平々凡々の、それでいて簡単ではない人生だった。
先代将軍によって『業物狩り』に引き立てられた後もその人生目標は変わらず、雲八はついに半分だけはそれを成し遂げた。
妻のお幻だけはその生を全うし、平穏無事に送り出すことが出来たのだ。
しかし……
「婆さんや、婆さんや」
雨の降りしきる墓地で、くも八は傘を差したまま呆然と墓石を見下ろしている。
「婆さんや、えらいことになっちまった。雨吉がそっちに逝っちまったよぅ。孫娘のマチを遺して、みんな逝っちまったよぅ……」
雲八は詫びるように頭を下げた。
「雨吉の家族に迷惑かけまいと、一人で隠居なんぞしたのが間違いじゃった。業物使いごとき、儂ならばどうとでもあしらえたものを……」
雲八は何度も詫びた。
しかし墓石は、何も答えない。
仮に霊魂がこの世に存在していたとしても、お幻は何の憂いも無く成仏しているはずなのだ。答えるはずがない。
それでも、雲八は墓前に伝えずにはいられなかった。
「儂もそのうち逝くつもりだったが、あの子を放っては逝けぬ。夜が明けて鶏が鳴けば暮れるような命。せめて、マチの心だけでも……」
その時、背後からひたひたと足音がした。
「爺ちゃん」
恐る恐る振り返ると、短刀を持ったマチがいた。
その刃から、雨水に混じって赤い液体が滴る。
「あたし、殺れたよ! 爺ちゃんが捕まえてくれたアイツ、ようやく仲間の居場所を吐いたからトドメを刺したんだ」
マチの手は血に塗れ、顔はどこか恍惚の入り混じった表情を浮かべている。
「骸だってちゃんと片付けたよ。だからさ、爺ちゃん……」
マチは、すがるような眼で雲八を見た。
「……」
雲八はしばし逡巡した後、笑った。
朗らかな、それでいてどこか狂った笑みを浮かべ、くも八はマチの頭に手を置く。
「そうかい、そうかい。でかしたなあ婆さん」
くも八は、そう言ってマチの頭を撫でた。
「もう、アタシはお婆ちゃんじゃないって言ってるでしょう。ったくもう、アタシがいないと爺ちゃんは駄目なんだから」
マチはどこか嬉しそうにぼやきながら、くも八の差す傘の中へと歩み入った。
「ゆくかのう」
「うん、いこう。もっともっと殺そう」
『独言髑髏くも八』が世間を騒がせ始めたのは、それから少し後のことであった。
◆
まだ逝けない。
こんなところで終わるわけにはいかない。
くも八は松殿島の砂地を蹴って雹右衛門へと前進する。
『八岐大蛇』で武装した雹右衛門は、小太刀『羽々斬』の唯一の弱点であった間合いの短さを克服している。
刀と十手のくも八は、中距離では圧倒的に不利である。
(げっげっげ、『業物狩り』の頃は、こんな戦ばかりじゃったなぁ……っ)
身体の前に十手を構え、いつでも大蛇の銃撃を弾けるようにしながら進む。
老いて縮んだ身体も、この時ばかりは守りやすくて好都合だ。
雹右衛門からしてみれば、背の低い四足獣を相手にしているようだろう。
「足ィ!」
雹右衛門の足元にもぐりこみ、すれ違いに足の腱を刻もうと逆手に刀を振るった。
案の定、雹右衛門は飛び上がってその一撃を躱す。
(もらった!)
空中では、身体の向きを変えることができない。
すれ違ってそのまま雹右衛門の後方へと回り込んだくも八は、まだ空中にいる雹右衛門の背を見上げてほくそ笑む。
「げっげっげ、背後は儂の領域だぞい」
殺し合いにおいて、両者の実力差が最も結果に表れるのは『超長距離』か『超至近距離』のどちらかだ。
だからこそ、くも八は接近戦を好む。
近づきさえすれば、鉄砲相手だろうが槍相手だろうが関係ない。
十手と刀の組み合わせこそが最強であると、彼は七十年余りの人生で確信していた。
(背後、しかも足元にいる相手には何もできまい。真下から首を突き上げてくれよう)
重力に引かれ始めた雹右衛門を突き刺すため、くも八は刀を構えた。
その時であった。
「ぬ?」
雹右衛門の頭の横から、何かが顔を出した。
それは蛇のように首をもたげ、黒々とした一つ眼でくも八を見つめている。
(蛇!)
それが、雹右衛門が肩越しに構えた『八岐大蛇』四号の銃口であると、くも八でなければ気付けなかっただろう。
発砲音と金属音。
と同時に、くも八の身体が大きく後方へと吹き飛んだ。
「ぬぅっ!」
咄嗟に受け身を取りながら、くも八は呻いた。
銃弾を受け止めた十手が、衝撃でひしゃげている。
銃弾を弾くには、それなりの角度と力の調整が必要だ。
しかし、今の一撃は完全に不意を突かれ、受けるだけで精いっぱいだった。
(まさかあの位置、あの角度で鉄砲を放つとは……)
小回りの利く『八岐大蛇』だからこそできた芸当だ。
しかしそれを思いつき、実行したのは他でもない雹右衛門。
「最初は、儂の方が一枚上手じゃった。次は互角。そして今度は一手先を読んできおった……」
一方、くも八の手を完全に読み切った雹右衛門もまた、怪訝そうな顔をしている。
「妙だ」
「妙じゃと?」
「貴様……いや、アンタと戦っていると、頭の中の、今まで使っていなかった部分を使っているような、妙な気になる。次々と戦いの着想が頭に思い浮かぶ……」
(まさか)
雹右衛門の言葉に、くも八はわずかに目を見開いた。
雹右衛門が現在の『業物狩り』であると知った時から、くも八は疑問に思っていた。
たとえ羽々斬を携え訓練を積んでいるとはいえ、所詮は一人の若造に務まるほど、『業物狩り』の任は易しくない。
ならば、なぜ雹右衛門は今日まで生き残ってきたのか?
その答えを、くも八はたったいま悟った。
「そうか、お前さん天才か」
ぽつりと、くも八はつぶやいた。
城銀家の嫡男として受けた戦闘教育。
業物の至宝『羽々斬』と、業物鍛冶の経験と知識。
妹・雪路を守ろうとする執念と努力。
それら、雹右衛門を形作る経歴によって覆い隠された、圧倒的な真実。
雹右衛門には、『天下無双の王槐樹』と同質の才がある。
「雹右衛門。お前さん、『格上』とほとんど殺り合ったことがないんじゃろう。だから、儂と……業物使い以外のつわものと戦って、急速に成長を始めた」
そして、戦いの中でくも八の手練手管に対応し、上回ったのだ。
「げっげっげ、若いとは思っていたが、まさか花開く前だったとは……」
くも八は笑いながら、心の中で息を吐いた。
(惜しいのう。儂がもう少し若ければ……こんな出会い方でなければ、もっと鍛えてやれたのに)
「残念じゃ」
くも八はつぶやくと、刀と十手を構え直した。
「お前さんのような才能をこの手で摘むことになるとはな」
くも八は、自分に言い聞かせるように言った。
(そう、殺さねば。相手が誰じゃろうと。儂は『独言髑髏』なのだから……)
「逝くぞ、雹右衛門」
くも八は、懐から紐で連ねた穴あき銭の束を取り出した。
それを身体の前方に投げ出し、蹴り上げた。
衝撃で紐が解け、古銭が散弾の如く雹右衛門へと迫る。
(恐らく、今の雹右衛門ならばこの程度ではビビらぬ)
案の定、雹右衛門は古銭をことごとく無視してくも八の動きを見据えている。
しかしそれこそがくも八の狙いだった。
(さあ、儂を見よ! そして喰らえぃ)
くも八は口をすぼめ、プッと頬を膨らませた。
口の中に仕込んであった品を息に乗せ、一息に吐き出す。
それは、裁縫用の針だった。
忍びの技として知られる『吹き針』は、一説によれば市井のお針子仕事から発生したとも言われている。
くも八は、それを妻のお幻から習った。
(儂の強さは、七十年余りを生きてきた歳月そのもの! 手数なら決して負けん!)
くも八の動きに注目していた雹右衛門の目に、吹き針が突き立った。
(入った! さあ、目に針を受けて怯んだ隙に、斬ってくれる!)
雹右衛門の動きが乱れる想定で動きを作り、くも八は一直線に突進した。
ほんの一瞬でいい。びくりと身じろぎするような隙さえあれば、くも八はその間に雹右衛門の頸を取れる。
しかし、そうはならなかった。
吹き針が眼球に突き立ってなお、雹右衛門の動きは寸分たりとも狂わなかった。
(何ッ!?)
その左目と、目が合った。
まるで業物のように一切の感覚を削ぎ棄て、ただくも八だけを見ている。
(なんと、ここまで……)
雹右衛門とくも八の身体が、常人の可視速度を超越した疾さで交差した。
両者、すれ違ってそれぞれ数歩歩き、互いに背を向けたまま停止した。
そして静寂が、辺りを包む。
「げ、げげ、げ……」
雹右衛門に背を向けたまま立ち尽くし、くも八が笑う。
その首から脇腹にかけてを白い傷が走り、凍結している。
致命傷であった。
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