幕間
第14話 絹 -Cloth Road-
「雪路を巻き込めば貴様を殺す。たとえ幕府が後ろ盾だろうが、斬る」
脅しではなく、本当に
(だとすれば、この状況は何だ……?)
「ねぇ兄さま。町で噂になってる『虫斬り雹右衛門』って、兄さまのこと?」
「ほぶっ!?」
雪路に訊ねられ、仕事の休憩中だった雹右衛門は茶を噴き出しそうになった。
夏祭りを来週に控えた、夏の昼下がりである。
「……今、なんだって?」
「ほら、これ。町でもらってきたの」
雪路はそう言って視覚補助の眼鏡を掛けると、瓦版の号外を読み上げる。
「『
「それは……」
雹右衛門は、一つ咳払いをした。
「人違いだ。業物関係者で虫嫌いの雹右衛門が、おれ以外にもいるのだろう」
「そんな人、何人もいるのかな」
「でなければ、おれの名を騙る偽物だ。迷惑な話だが、雪路が気にすることじゃない」
「……本当に?」
「そもそも、その『死合い』とやらがある間、おれは旧都にはるばる出張だ」
『死合い』にでるための偽の予定を告げながら、雹右衛門は号外記事の記述を睨む。
四人の達人を殺し合わせる『鬼門蠱竜会』。
ここ数日、都はこの『死合い』の話でもちきりだった。
逝原城の前で、達人たちが殺し合う。
幕府の侍たちはそんな噂を広めた者たちを罰しようともせず、ただ黙秘を続けている。
彼らが口を閉ざせば閉ざすほどに、『死合い』のことは真実味を帯びてゆく。
『独言髑髏くも八』
『殲姫シルクマリア』
『虫斬り雹右衛門』
『天下無双の王槐樹』
四人のつわものたちの名は、今や都中の知るところとなった。
雪路がその噂を聞きつけるまでに、そう時間はかからなかったろう。
「幕府の狗め。本当に……本当に、余計なことをしてくれた」
雹右衛門は、心の中でマサを強く呪った。
「兄さま、また眉間にシワ、できてるよ」
雹右衛門の顔を眼鏡越しに覗き込み、雪路は眉間を人差し指で突っついた。。
「兄さま……ちょっと怒ってる?」
「べつに」
「嘘。何だか最近イライラしてるでしょ」
「……どこの誰とも知らない誰かに名前を使われて、少し気が立っているだけだ。ここ最近は特に忙しかったしな」
眉間に寄ったシワを指でほぐしつつ、雹右衛門は立ち上がった。
「今日は、どこか美味い処に食べに行こうか」
「いいの?」
「もちろんだとも。出張前の仕事もだいたい片付いたしな」
雹右衛門は、これから生きて戻れるか分かない『死合い』へと挑む。
その前に準備しておくことは多かった。
準備とは、戦仕度ではなく身辺整理だ。
もし『死合い』で負けて死んだとしても、城銀家の名誉と財産は雪路に残したい。
だから、これまでに鍛冶師として受け持っていたすべての仕事を完遂しておきたかった。
その重荷が、降りた今、後は雪路の笑顔を少しでも見られれば未練はない。
「近くに、美味い鰻を出す店ができたらしい。ヤツメウナギと言ってな、八つも目があるからには、視力の回復にも良いらしい。一つ、食べに行ってみないか」
「うん、行きましょ!」
その日は猛暑日続きの夏の中でも、特に暑かった。
しかも、近頃は鰻で精をつけて夏を乗り切ろうというのが、世間の流行りだという。
「混んでるわね」
「うぅむ……」
鰻屋には、一町(およそ109メートル)に及ぶほどの長蛇の列ができていた。
思い付きで家を遅く出たのもあって、雹右衛門と雪路が並んだのは、その最後尾だ。
「あっつーい……兄さまは大丈夫? そんな陽向に立って、暑くない?」
日傘を差した雪路が、隣に並び訊ねる。
流行りの着物を着込んでお洒落に日傘を傾ける姿は、兄ながらハッとするほどだ。
「問題ない。いつも鍛冶場の火に当たっているからな」
特に誇るというわけでもなく、雹右衛門は事実を答えた。
その時、ふと雪路の前に並ぶ乙女の姿が目に入った。
「ん……もし、そちらの方」
雹右衛門は雪路の前に並んだ乙女を見やり、声を掛けた。
「大丈夫ですか。顔色が優れないようですが」
「……わたし、ですか?」
町並みを眺めていた横顔が、雹右衛門の方を見やった。
その面立ちを直視し、雹右衛門は思わず目を見開いた。
妹びいきの雹右衛門ですら目を奪われる、透き通ったような目をした美人だった。
品の良い上等な着物に身を包んでいることから、良家の奥方のようにも見える。
歳は、雹右衛門よりも二つか三つ年上。
手には、短い棒状の物体を包んだ風呂敷を携えていた。
しかし、よほど疲れているのだろうか。
その顔はほっそりとやつれ、顔色は青白く、表情は物憂げだ。
(まるで、今にも倒れて、そのまま動かなくなってしまいそうな……)
雹右衛門が心配していると、乙女はクスリと小さく笑った。
「ふふ、ご心配なく。顔色が悪いのは、常のことですので」
鈴の鳴るような声で、乙女は答えた。
無理をして言っている風でもない。
しかし、暑い夏の日である。
普通であっても、心配にはなる。
「あ、あの! もしよければ、私の日傘に一緒に入りませんか!」
雪路が勇気を出して訊ねると、乙女はにこりとほほ笑んだ。
「あらいいの。せっかくご兄妹水入らずのようでしたのに」
「兄妹って、分かるんですか?」
「ええ、よく似ていらっしゃるもの。とても仲良しさんみたいで、うらやましい」
「えへへ」
雪路が照れているのを見て、思わず雹右衛門まで顔が綻びそうになった。
咳払いで誤魔化しながら、雹右衛門は列を見やる。
暑さで並ぶのをやめた客が複数組いたおかげか、最初は絶望的に思えた長蛇の列も半分ほど消化されている。
もう半分、されどまだ半分だ。
「まだ、ずいぶんと並ぶことになりそうです。もしよければ、どうぞ」
「ではお言葉に甘えて」
乙女は小さく頭を下げると、雪路の作る影に入った。
乙女は、名を『絹』といった。
雪路は彼女のことが気に入ったようだった。
「絹さんは、都のどこに住んでらっしゃるんですか?」
「ううん、都には住んでいないの。旅をしてきて、今は三疋町のお宿に泊まってるのよ」
「へぇ、旅人さん! どんなところを旅してきたんですか」
「色々よ。旧都のお寺を見てまわったりもしたし、祭日山に登ったり、それに、滅びた於頭藩の土地にお参りもしたわ。列島のあちこちを歩き回って、良いものも悪いものも、たくさん見てきた」
「いいなぁ、旅人さん……私、生まれてから都の外に出たことがなくて」
「ふふ、それは良いことじゃないの」
「そうですか?」
「そうよ。だって、帰る故郷や家があるんだもの」
「え……」
雪路は、目を丸くした。
数秒、意味を受け止めきれずに目をぱちくりさせたあと、慌てて首を横に振った。
「あ、え、その……ごめんなさい」
頭を下げようとした雪路を、絹のほっそりとした白い手が優しく撫でた。
「別に、謝ることはないわ。ただ、雪路ちゃんには雪路ちゃんの幸せがあると思うの。外を探さなくても、きっとそれは近くにあるわ」
絹は、優しく言葉を続けた。
「今ある幸せを大切にね、雪路ちゃん」
「……うん」
雪路はうなずいた。
その時、前方から声がした。
「次の御三方、お待たせしましたどうぞー」
鰻屋の給仕が三人に声を掛けると、絹が慌てた。
「いえ、あの私はこの方たちとは……」
告げようとする絹の着物の袖を、雪路の手がちょんと引っ張った。
「お絹さん、一緒に食べましょ? みんなで食べた方がきっと美味しいですって。ね、兄さま」
「ああ、そうだな」
雹右衛門は、絹を見やった。
「これも何かの縁、妹とご一緒してもらえませんか」
すると、絹は少し逡巡したのち、ふっと息を吐いた。
「……そうですね、せっかくのご縁ですし」
「やった!」
嬉しそうに笑う雪路を見て、雹右衛門は思う。
(大丈夫だ。雪路なら、おれがいなくたってやっていける)
肝心の鰻の味は、よく覚えていない。
ただ、雹右衛門の胸には寂しさと安心が入り混じった、奇妙な感情が満ち満ちていたのを、よく覚えている。
「それでは、私はここで」
鰻屋を出ると、絹は二人に一礼した。
「え、絹さん行っちゃうの……」
残念がる雪路に、雹右衛門は首を横に振って見せた。
「こら、雪路。流石にこれ以上引き留めては迷惑だ」
「う、うん……」
「ごめんね、雪路ちゃん。このあと用事があるの」
「用事?」
絹はうなずいた。
「この辺りで、城銀さんというお宅を探しているの。なんでも、業物の修理をなさってる鍛冶師の家柄だそうで……」
「「……っ!」」
雹右衛門と雪路は、顔を見合わせた。
「それって私たちのお家ですよ!」
「えっ?」
雪路は、自らの胸に手を当てた。
「私、城銀雪路っていいます。私たちが城銀家です」
「! それはそれは……」
そんなことがあるのだろうか。
絹は目を丸くしつつも、物憂げな顔にフッと笑みを漏らした。
「世間は意外と狭いものなのですね。まさか、こんなところで探し人に出会えるとは」
「当家に御用のお方でしたか」
雹右衛門は、一応威儀を正して一礼した。
「もしや、あなたさまが城銀家の……」
「申し遅れました。城銀家の第七代当主、城銀雹右衛門と申します」
それは、何気ない挨拶だった。
何十、何百と顧客に対して繰り返してきた、城銀家当主としての名乗り。
そのはずだった。
「雹右衛門……?」
その名を聞いた瞬間、食後でやや紅潮していた絹の頬が、サッと青ざめた。
「お絹さん?」
「まさか、あなたが……」
絹は、それまで大事そうに抱えていた包みを取り落とした。
その拍子に風呂敷の結び目が解け、中にしまわれていた依頼品が姿を見せた。
「あっ……」
それは、業物とは思えないほどに小ぶりな小刀だった。
奇妙な点と言えば、暗く輝く黒い
それこそがこの業物の機能を決定づける器官だと、雹右衛門はよく知っていた。
「どうして、この業物が……」
雹右衛門は、つぶやいた。
業物の名は『
かつて城銀家の蔵に収蔵され、七年前の事件で奪われた業物の一つ。
(雪路の目を焼いた業物が、どうして彼女の手に……ッ!?)
いつしか、あれほど激しかった日差しは暗雲に塞がれ、湿気が立ち込め始めていた。
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