第7話 蠱毒 -Poisonous Tournament-
「
呼びかけると、岩戸の向こうの暗闇でビクッと震える気配がした。
「い、いや! 来ないで……っ!」
「? どうしたんだ、雪路」
「来ないで!」
雪路は雹右衛門に背を向け、さらに奥の暗闇へと逃げ出した。
しかし、裸足で
「雪路!」
雹右衛門はとっさに、妹を抱きとめた。
「大丈夫か?」
問いかける雹右衛門の腕の中で、雪路は暴れた。
「やめて、離して! 兄さま! 助けて、兄さま!」
半狂乱で逃れようとする雪路の細い指先、研ぎ仕事をこなす繊細な爪の先が、雹右衛門の頬を
「……っ」
避けずに受けたこの傷が、雹右衛門がこの日に負った唯一の
「雪路……!」
雹右衛門は雪路を逃がさない強さで抱きしめた。
そして、その頭を優しくなでる。
いつものように、ゆっくりと。
「雪路、落ち着け。おれだ」
「っ!」
半ば無理やり引き寄せた耳元に
「兄……さま…………?」
「そうだ。
なるべくいつもの調子で声をかける。
すると、強張っていた雪路の身体から、力が抜けていく。
「兄さま……本当に兄さまだ」
「心配をかけたな、雪路」
「兄さま!」
雪路は雹右衛門の胸板に顔を押し付け、ぎゅっと抱きしめた。
しかし、やがて雪路は不安そうに兄の顔を見上げた。
「兄さま、気を付けて。さっき、とても
「
「分からない、けど……」
雪路は岩戸の外、地下室の方を
「屋敷の門をこじ開けて誰かが中に入ってこようとしてたから、私、兄さまの言ってた通りすぐにここに隠れたの。そうしたら、大勢の人が降りてくる気配がして……」
「大丈夫だ。そんな奴らぐらい、おれが……」
「違うの。確かにその人たちは怒ってる気配がしたんだけど、後からもっと
雪路は、雹右衛門の胸に顔を押し付けたまま、言葉を続ける。
「まるで、心が
「雪路、それは」
「
「雪路」
雹右衛門は言葉を
「ここに降りてくる前に、屋敷まわりはちゃんと見まわった。もう、
「でも……」
「見れば分かるさ、きっと、
雹右衛門は、
「ほら、何もない」
地下室には何も残っていなかった。
「
「で、でも……たしかに気配がして……」
「気のせいだ。怖い思いをして過去の記憶が
雹右衛門はほほ笑みかけると、雪路に背を向け、地面に膝をついた。
「上に戻ろう。ほら、背中に」
「う、うん……」
雪路を背負いながら、雹右衛門はゆっくりと階段をのぼる。
背に、雪路の息遣いを感じる。
「昔も、遊び
「……うん。ねえ、兄さま」
「なんだ」
「今日だけ、昔みたいに一緒のお
雪路は、雹右衛門の肩辺りに
「だめかな?」
「駄目じゃないさ」
雪路が一人で眠れるようになったのは、ここ二、三年のことだ。
目を焼かれたことで訪れた暗闇が、あの夜の恐ろしい記憶が、
そんな時期を思い出させるような出来事があったのだ。
「ただ、な……」
雹右衛門は、ややぎこちなく笑った。
「お前ももうすぐ十五だ。そろそろ
「……兄さまは、妹離れしたいの?」
「望む望まないの問題じゃない。いつか、そうしなければならない時が来るんだ。その時になって準備ができていなければ、困るだろう」
「いつかって?」
「いつかは……いつかだ」
本当は、そんな『いつか』なんて来なければいい。
雹右衛門だってそう思っている。
だが、現実はそういう風には作られていない。
「その『いつか』は、おれが思っていたよりも、ずっと近くに……」
雹右衛門は、雪路を背負って地上への階段を踏みしめながら、雪路を迎えに来るまでの十数分間に起きたことを思い返す。
◆
「どういうつもりだ。どうして、おれと
屋敷の一室でマサを捕らえた雹右衛門は、背後から首筋に
「幕府の目的は何だ? 予想通りの答えなら、殺す。嘘を言っても殺す」
雹右衛門の手は、虫を
いまさらさらに血で汚れようと痛くもかゆくもない。
しかし。
「戦国を……る…………」
マサの口から
「なに? 今、なんと言った」
「我々は戦国を……」
「はっきり言え!」
「我々は、戦国の世を終わらせたいのです」
「何だと……」
予想外の言葉に、雹右衛門の殺意は行き場を失った。
思考の大前提をくつがえされたかのようで、頭の裏がジリジリして落ち着かない。
「馬鹿な。戦国の世はおれが生まれるより前に終わった。お前たち
マサは、雹右衛門に
「残念ながら、終わったのはただの『
マサに、雹右衛門を恐れる様子はない。
それに、
「一五○年も続いた戦国が、たかだか覇者が現れた程度で終わるはずがない。幕府が倒れればまた戦が始まる。みんなそう思っていますよ。雹右衛門先生だって、そういった可能性を考えないわけではないでしょう」
「それは、そうだが……」
「我々は人々の頭から
マサは、
「雹右衛門先生、あなたは
「これは……っ!?」
そこには、名前が
ぐいん
かまいたち
ヰ
やんしゃぐるむぃ、
巻物に記された名前の大半は、既に
「
「そんなことはどうでもいい。これは……何だ」
「『
マサは、拘束されたままチラと雹右衛門の方を振り返った。
「雹右衛門先生もその一人。あなたの
「ふ、ふざけるな! おれは、そんなことをするつもりはない!」
「意思の問題ではありません。業物は、存在しているだけで人を戦いに駆り立てるではありませんか」
「……っ!」
自身の言葉で痛いところを突かれ、雹右衛門は言葉に詰まった。
「
「……」
マサは
「
ざわざわと、屋敷の周囲に無数の気配が
マサが昼間に連れていた忍びたちだろう。
数までは分からないが、気焔流よりもはるかに
「最初からおれを使い捨てる気だったか……だとしても、ただでは殺されんぞ」
雹右衛門はマサに突き付けた
しかし、マサは平然としている。
「我々は
マサは、歯を
『
「我々は、あなた方で
だとすれば、さきほどの
「来たる八月の盛り、都にて
「……それが、昼間に言っていた『大仕事』か」
雹右衛門のつぶやきに、マサはうなずいた。
「みごと最後の一人に勝ち残れば、あなたの存在は
「もし、断れば……」
「幕府から追われる身となるでしょうね。もちろん、あなたの妹君も」
「……おのれ」
雹右衛門は、マサの首筋に突き付けていた
雪路を
雪路には、罪なき者にふさわしい清らかで幸福な未来が待っているはずなのだ。
「お前たちからしてみれば、おれは最初からカゴの中の『虫』同然だったわけか」
にらみつけることしか、できなかった。
「……お前たちの言う通り、その殺し合いとやらに出てやる。その代わり、おれが生き残ろうが死のうが、雪路にはもう手を出すな。今回みたいなことも無しだ」
「ええ、約束いたしましょう。殺すか、死ぬか。先生が『大仕事』を果たしてくだされば、我々はそれでよいのです」
マサが指を鳴らすと、周囲に潜んでいた忍びたちが、
「またご
マサは一礼すると、夜の闇へと消えていった。
自分よりも大切な、雪路の命運。
雹右衛門の生きる目的そのものを
その背を、雹右衛門はただ見送ることしかできなかった。
◆
緊張の糸が
雪路は雹右衛門の
「おやすみ、雪路」
雹右衛門は、雪路を起こさないように
そして、考える。
いつから、人を殺しても心が痛まないようになったんだったか。
いつ、どこでどうすればこうならずに済んだのだろう。
それとも、
いや、そもそもあの夜に自分が間に合っていれば……
いくつもの筋道を頭に思い浮かべるが、その全てがどこかで分厚い門にぶつかるような気がした。
結局、自分が業物づくりの家に生まれた時点でどこかしら詰んでいる。
とすれば、雹右衛門を
だとすれば。
もはや、迷うことに意味などない。
雪路のために、薄汚れた自分にできることはただ一つ。
「ただ、殺すだけだ」
雹右衛門は、空に浮かぶ涼しげな月と、その隣に並ぶ
「奴らめ、おれも『虫』だと言うならば、最後の一匹になるまで戦い抜いてやる。雪路の未来を見届けるまで、おれは絶対に死なん……ッ!」
その
『
『かまいたち
『
『
『
『
あとたった五人、死ねばよい。
今日殺した人間の数を思えば、雹右衛門にとっては何でもない命。
……の、はずだった。
第1章 虫斬り雹右衛門 完
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