第47話 月歌の遠吠え

「――ヴァーネ」


 その声はいつの間にか近寄ってきていたアムネシアの声だった。アムネシアは壊れた人形にようにふらふらと彼女に近づき。


「ヴァーネっっッ⁉」


 もう一度彼女の名を呼んで走りだした。

 横たわるヴァーネ・シンベラーダの状態を見て一瞬で悟る。


 ――死は免れないと


 ヴァーネの身体を襲る襲る抱きかかえ膝をつくアムネシアは自分の膝の上に頭を乗せて覗き込む。

 ヴァーネの翡翠色の瞳は僅かな光を残し細めて笑った。


「アムネシア……そんな顔、しないで」

「っ無理よ!アンタがこんな状態でっ……平気な顔、なんてできるはずないわよッ!」


 ハチャメチャな感情の爆発は怒りや悲しみや拒絶が涙となって荒れ狂う。

 そんなアムネシアにやはりヴァーネは微笑むのだ。


「わらって」

「――――」

「あなたは……あなただけはいつものよに逞しくいないと、ね。みんな元気がなくなるから」


 そのみんなももういない。市民を誘導していたギルド職員はほぼほぼ死んでしまった。同僚や先輩、後輩が『亡者』となり徘徊する姿をこの眼に映した。

 アムネシアが元気にできる人は、もうどこにもいない。そう、残っていたのは彼女だけだったのに……。


「ならっ!アタシが笑うからっ、あんたも元気になりなさいよっ!それで、また二人で馬鹿みたいに遊んで食べて飲んで寝て……っアタシは――」

「大丈夫。アムネシアならきっと大丈夫よ」


 ヴァーネの手がアムネシアの手を触れる。消えていく熱に冷たくなっていく感触に、いやだダメだ無理だ、と首を横に何度も振る。


「アタシは……まだ、あんたに何も返せてない。あんたから居場所もアタシの命もぜんぶ、アンタがアタシにくれた!この国で生きていく場所をくれた!アタシはっ、あんたに何もできてないっ‼」


 悔恨の念。想像もしていなかった結末に思いの丈が溢れ拒絶の言葉がヴァーネを引き留めようと視界を滲ませ声を震わす。


「アンタがいないとアタシはっ――」


 だけど、ヴァーネは微笑むのだ。


「大丈夫。あなたには素敵な人がいるわ」

「――――」


 ヴァーネ・シンベラーダは告げる。この行動に後悔はないと。


「エルフ――」


 のろのろ立ち上がり溺死寸前のゼアがヴァーネを見下ろす。ゼアとヴァーネの間に何かがあるわけじゃない。そう、助けてもらう義理なんてないし、まして命を預けられる意味も――


「私、後悔はしてないからね」

「――――」

「だからどうかお願い。わたしの分、ぜんぶお願い」

「――――」

「わかってるよ。それでも、お願い。どうか、わたしの大切な人たちを守って」


 数年前からの関わりだ。ゼアがヴァーネのお願いを煩わしい思うことはわかっている。それでもヴァーネは託す。この恐ろしい世界で大切な人をきっと守って救ってくれる狼へ。

 ゼアは静かに膝を付き、ヴァーネの右手の薬指に己の薬指を絡めた。

 口約束はしない。そもそもゼアに義理はない。だけど、意志だけは尊重する。そして告げる。指の先端から熱として。

 嬉しそうに微笑んだヴァーネは残りうる命を歌に変えた。


「【あの森の産声よ、生まれた命の輝きよ、愛しき胸に芽吹く花の微笑みよ】」


 妖精が奏でるのは愛しき微笑みの歌。慈愛の御手。


「【私は誓う、愛することを。私は祈る、歌うことを。私は笑う、あなたのために】」


 風の囁き。愛の芽吹き。命の輝き。祝福が呼ぶ。愛情が微笑む。彼女が歌う。それはまるで子守歌のように。


「【どうか小さき祈りよ、奇跡とならんことを】」


 翡翠色の光がゼアへと捧げられ。


「【夜明けの愛歌リヴ・アルバ】」


 祈りの愛が込められた。ゼアの傷口へと寄り添う翡翠の光子は撫でるようにそっと傷口に触れては消え、その傷口を癒していく。傷口から体内へと入り込み、破損した部分を癒し命を与える。傷口が塞がっていく奇跡の光景に唖然となるゼア。アムネシアの泣き顔。

 二人を見るヴァーネの顔はやはり笑顔。

 そして、お願い……妹を愛してる、と最後まで祈りと愛の言葉を口にヴァーネ・シンベラーダは命を絶った。


「ヴぁ、ね……ヴぁーね……っっっ⁉」


 歯を食いしばる。これ以上泣くわけにはいかない。これ以上無様を晒すわけにはいかない。アムネシアはそっと彼女を膝から下ろし、安からな寝顔を見つめ涙を拭い立ち上がる。そして、ゼアもまた立ち上がり敵を見据えた。


「最大の恥だ。助けられるなんざ……最悪だぁ。最低だぁ。俺は俺を許せねー」

「ええそうね。ほんとうに最悪で最低で、アタシも許せない。でも……ヴァーネらしいわ」

「……ちっ。恩ができた。けど、俺には俺の使命がある。だから叶えるなんて嘘でも言わねー。……言わねーよ」

「…………そう、なら示して。アンタの生き様をアタシに見せて。それをアタシがヴァーネに魅せるからっ!」

「…………クソが。どいつもこいつも勝手な奴ばかりだ。自分のことばっかで、他人に頼って利用してクソみてぇーだ。あー俺は俺が嫌いだ。ああそうだ。俺は、あいつを殺すだけのケモノだァ――」


 ぶわり、震えたと思えば薄鈍色の毛並みで覆われた銀狼がそこにおり、運命を駆けだす。いや託されたものを決して離さないように駆け出した。

 そして、アムネシアもまた駆け出すのだ。

 彼女は戦えない。だから戦場にいても足手纏いでしかない。

 だけど、その身は心の内から響く。


 ――貴女には『炎』がある。

 ――『生火』を司る者よ

 ――目を覚ませ

 ――命を歌え

 ――『私』がいる

 ――■■よ


 眼を開く。時間の動きがゆったりと空間を流していく。見える景色のすべてが鮮明に燃えている。

『彼女』は目を覚ました。誰でもない誰かが腕を振るった。深紅の髪がばさりと翻る。同じ真紅の瞳が黄金の淵を纏って世界を視た。


「【万物の叡智、それは其の始原にあり】」


 その声音はアムネシア・アスターのもの。しかし、その魔力も気配も存在もすべてが違う。彼女であって彼女ではない。


「【森羅の揺り籠よ、眠れる精霊よ、原初の現よ其を顕在させよ】」


 歌は紡がれる。静寂に似た真紅の歌。苛烈に似た森羅の歌。神話に見た祈祷と偉跡の歌。

 時よりもなお嫋やかに。命よりもなお熾烈に。想いよりもなお切情に。

 真実の紅は軌跡を綴る。


「【原罪の標に生誕を記す。司るは『生火』の万象。生まれしは肋骨の灯火。名は生命の灯火いのち】」


『彼女』の周囲に炎の渦が衝動し始め、邪悪へ向ける掌を裏返して邪悪を掌に載せる。

『彼女』が纏うそれは人間のものではなかった。誰もが気づくなか、誰も視ることのできない新生の夢想のようなもの。されど、知る者は知る。

 それはまるで――


「【祓え。命の炎】」


 神のようだと――


『彼女』は名を告げた。


「【エヴァ・ウェスタ】」


 掌で邪悪を握り囲み振るった。

 炎が邪悪をくべた。炎が黒き粒子を包み込み剥いだのだ。いや、燃える燃える。それは浄化か。邪気が燃やされていく。削がれ剥がれ拭われる。

 生火の御手が邪を祓った。


『~~~~~~っヴぁっぁぁぁアアアアっッ⁉』

「今よ」


 白狼は駆ける。世界を置き去りに彼女を置き去りにそれでも大地を駆ける。

 決して止まることはない。決して臆することはない。託されたもの。受け取ったもの。描いたもの。決めたもの。


 ゼアとはどこまでも駆ける狼の名だ。

 故に邪の剥がれた怪物の身へ牙を降した。


「ゥォオオオオオオオオオオオオ‼」


 銀閃が天地一閃に切り開く。それはどこか冬の山に見る空の開闢のようで、けれどどこまでも純粋な軌跡だった。

 銀の一閃が空へ駆け、そしてもう一つの光が空へと昇る。


 静まる世界。変わりゆく景色。

 銀の粒が降り注ぐ戦野に立つのは白き狼。

 狼の銀の眼が膝をついて座り込むアムネシアを見て、そしてまた元に戻ったアムネシアもゼアを見て。

 そして――笑うのだ。

 とびっきりの涙さえ浮かんでくるうような笑顔で。

 ゼアは等しく知らぬ感情にただただ空を見上げる。


「今はこれでいいか?」


 返事は返ってこない。それでも降り注ぐ銀の粒は雪に似ていた。

 彼女の魔法の光のように、ほんの少し暖かかった。

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