第45話 迷霧の中、愛を見つける

 彼女たちを迎え入れたのは瘴気が籠ったかのような暗澹とした魔素の濃い暗室。有害物質に取り囲まれたかのように気分は暗雲となり身体すら重くなったような気がする。魔素の大量摂取は人間には有害であり、その併用で魔力構築の弊害となる。

 セルナたちには条件が悪い中、ただっぴろいだけの広間ルームの遥か先に幽遊と浮かび上る灯火だけの最下層三十階。

 広間ルームに足を踏み入れた彼女たちを迎えたのは重圧のある足音だった。


 土層が歪む轟音を耳に、そのひと脚は絶望すらもひしひしと神経に這いまわる。耳朶を次に踏んだのは獣声のような吐息の揺れ。暗い視界の中、漏れ光るは白息。幽霊のように闇に潜みその姿を如実と表すは闇夜の紅の宝石。それは眼。脅威の眼。

 そして――怪物は怒号した。


『――ガァッッァァゥオオオオオオオオオオオオッ‼』


「なっ⁉なにあれ⁉あんなの、見たことない!」

「……まるで蟲毒ね。このダンジョンで生き残った怪物……凄まじい力ね」


 咆哮が広間を轟震させ大穴に光が刺す。壁に埋め込められている魔法線が光を奔らせ高き天井に生える結晶へと集いブルーの光で照らしだした。


 怪物の姿を見止め、彼女たちは硬直を余儀なくされた。


 全長二メルから三メルの巨体に似合う剛腕からは、亜種トカゲの背中の牙のような角を片腕に三つずつ生やし、太脚には数匹の蛇が絡みつきその彩は毒々しいほどに腐敗の血を流している。腹部にはゼアとグランダルナが戦ったオークより凄まじい肉体はどこか人体の色を持ち、腹部中心には錆で何重にも塗り固められた元の大きさのわからない剣が突き刺さっている。背中は見えないが遠距離からでもわかるほどにそれは異常だった。炎だ。背中から炎が燃え上がっている。まるでファイヤーバードのような炎の翼が変形したように背中を炎が宿っていた。


 この世界には狂った賢者や悪魔によって作り出された合成魔獣キメラという個体概念が存在するが、あれとは似て非になる。キメラというよりは異質物の人マンティコアだ。人の顔を持った異質合成の化け物だ。

 ひぃーひぃーと白い息を荒々しく吐くマンティコアは両腕をゴリラのように地面に突き、前屈みにお尻を浮かせ四つん這いとなる。


「あの剣……って、来るわよッ!」

「――っ!」


 相手の戦闘態勢に集中力を最大限に引き締め剣を構え相手の出方を伺う。彼我の距離は多めに見積もって八十メル。ある程度の速度なら見てから回避できる合い間。息を吐いて荒れる心拍を無理矢理抑え込み鋭く見定める。


 怪物マンティコアの第一歩――それは風に切られたように掻き消えた。


「……え?」

「セルラーナさん⁉」


 同時、ミラーダの声と気配が隣に立ったのが視界に収まる半径百八十度の外側、左斜め背後に感じる気配と残像のそれ。振るわれたのは右腕の怪腕。セルナは半分ほど感覚と経験に頼り剣を振るい迎撃した。


「っっぐぅぅっはっ⁉」


 生命の肉は柔いと言わんばかりの剛腕の一撃にセルナの力は一瞬で押し負け、その身体はボールのように吹き飛んでいく。

 浮いた身体をなんとか立て直し、膝を曲げ追撃の態勢に入る。


「はぁああああああ!」


 直ぐに地面を蹴ったセルナが迫る。胸内から突き出した剣の穿ちは容易く掴み取られた。


「なっ⁉」


 次の瞬間、マンティコアの掌に眼玉のようなものが視え、やばいと思った時には眼は魔力を凝縮していき。


「離せ!」


 水流の弧が軌跡を綴り腕に切をつけた。それは擦り傷にしかならない。怪物にとって道端の枝に触れと同じ。マンティコアは一度ミラーダを見たが脅威とは見做さずセルナの排除へと魔力を唸らせ――


「【竜の瀑布カタラータ】」


 宙を舞い傷口に沁みた水の粒たちがミラーダの魔力と魔法の名の下に吹き上がり、それは滝のように円弧の軌跡をなぞり水流の刃となって再び肉薄した。


『ガガガァっラァアアアアアア⁉』


 墳血をもたらす水流の刃が深々と腕を殺しす。


「はっ!」


 ミラーダの意思に水滴は姿を変える。水流の刃は複数の矢へと変形し、腕の傷口のみを目掛けて穿ち刺し、集った水の矢を集束させて龍の姿へと変形させその肉を喰らう。セルナはすぐにその場を離脱し、マンティコアは瞬間の判断で腕を無理矢理振るって水を霧散。


「まだまだ終わらないよ!」


 宙を舞う水は再び矢となり巨体向かって放つが、それは先に見たと言わんばかりの俊敏な動きで回避される。第一排除対象をミラーダに変更したマンティコアは地面を蹴るため膝を沈ませ。


「伸びろ」


 地面に散った水の矢が天井に向かって閃を伸ばす。それはマンティコアを何重にも囲むように水の細い柱が立ち警戒を強めるマンティコアにミラーダは笑った。


「知ってる。水の恐ろしいところはね――空気の介入を許さない唯一無二なところなの」


 ミラーダ・テルミスは降す。水の真価を。


 打ち上った柱が一斉に次の柱へと水を伸ばし柱と柱は繋がり水壁となり真向いの水壁へと移動する。まるで海に囲まれた空気の沫のように。マンティコアが息をする空間はすべて水に満たされ空気は剥奪される。水球が怪物の息の根を掌握した。


「あれが【水脈】……神童と呼ばれている水明の愛し子」


 圧巻だ。水だけを使った策略と工夫の判断能力と対応能力に感服する。力で簡単に押し切られたセルナと違い、己の特性を最大限に利用して力ではなく工夫によって弱点をついて確実に葬るトリッキーな戦略肌。

 ミラーダ・テルミスはまさに神童だった。

 ただ一つ誤算があるとするのなら、それは怪物の存在があまりにも凶悪でありそして――規格外であったことだ。



『――――――――――――‼』



 その巨躯がクマのように震わせ水圧もろとも吹き飛ばした。


「きゃっ……!」

「――っ⁉あれで生きていると言うの?」


 マンティコアはふぅーふぅーと人間のような息を吐きながら濡れた身体を振るって水滴を払い、その瞳は敵愾心のみを宿してセルナとミラーダを見つめた。その咆哮は正真正銘の宣戦布告。もしくはそれに対する了承の意。そして殴殺への儀礼。


「文字通り化け物ね。……どうやらここからが本番のようね、来るわよ!」

「っ、うん……ほんとは信じたくないけど、ヤバいね?」


 そして死闘が始まる。


 それを見た者がいるとするのなら純潔と汚醜の応酬。聖潔と腐敗の戦い。そう言ったことだろう。

 三メルの巨躯とは思えない俊敏な動きは完全に捉えることすら困難。放たれる拳はセルナの斬撃を持ってしても威力を観見した故にすべての打撃は回避に努める。が、腕から伸びる三つの角がまるで刃物のように回避の間合いを攻撃する。必要以上に大きく回避する必要が故に攻撃に転じ切れずミラーダの魔法で襲撃する。しかし、マンティコアはあまたの肉を喰い魔石を砕き力を得たのか、背中の炎が唸りを上げ濁流のように水流のすべてを打ち消す。


「っ⁉このままじゃ水がなくなる!」

「私が盾になるわ!砲撃に専念してっ!」


 近接型のセルナが前に出て剣を振るう。マンティコアに攻撃を許さぬ神速の剣舞が強固な腕を裂いていく。僅かであれ墳血の舞う戦場は更に加速する。


 そして波紋する。


「【彼の世、現し世、今際の世。一世の床より其を招く】」


 ミラーダの詩が響き、剛腕と斬撃の応酬が異次元を逸して力のみを極め合う。蛇の毒に呑まれた足蹴りを身を捻って回避し、迫る蛇の数十を瞬時に切り裁き光の閃を放つ。軽々と跳躍して回避するマンティコアを頭上に背中より集束された火球の投下を魔力を纏った斬撃で切り開く。爆風爆炎を抜けて天井を蹴ったマンティコアの足蹴りが大地を粉砕した。回避した身体は宙に浮きながら飛ばされ、広間の壁へと到り同じように壁を蹴って突貫。垂直飛びのように前方へと跳躍して身体の回転を加え斜め頭上から旋撃を撃つ。両腕の交差が頭を守りセルナの渾身の一撃を防ぐが、痛哭を上げノックバックしたマンティコアに好機と着地したセルナは迷いなく内部に迫る。


「【迷夢の国よ招きの猫よ、異端と水霧の鏡より時世を迷え】」


「はぁあああああああああ‼」


 セルナの叫喚。光の閃がマンティコアの体部を切り刻む。


『ヴァっファァっっッォォオオオオオオオォォ‼』


 血が咲けば落ちる前に咲き誇り、幾度も続く斬撃の無双。光の閃が邪を祓うかのように命を削る。

 マンティコアは調子に乗るとばかりに怒号を放ち腕を振り落とす。咄嗟に後退したセルナにマンティコアが肉薄した。両腕を前足に四足歩行の獣となってセルナに突進した。


「ぐぅぅぅ⁉」


 避ける暇がなく剣で迎え撃ったセルナだが勢いに負けその身体は軽々と押されていく。そのまま壁に突っ込まれ隣の空洞へと出る。


『ヴァァアアアアアア‼』

「ミスったわね……でもまだまだこれからよ!私の正義がこの程度で終わると思わないでっ!」


 骨が砕けた音。弾けた血管。激痛の熱。死へ一歩ずつ近づく恐怖の咆哮と残酷な力量。されど正義は折れない。この程度で負けるほどセルラーナの正義は軟ではない。強固かと言われればそれもまた違うが。セルラーナの正義は揺らぎを知らない、それだけだ。

 故に第二ラウンド。互いに負傷しながらなお更なる激闘へと己を賭す。


「あの日みたいに、誰も守れないなんて……絶対に私が許さない‼」


 壁は崩壊し広間が歪に広がり、身体の位置を変えてまた中央へと戻って来る。

 そんな死闘の傍ら、とある水星に憧れた少女が歌を完成させた。


「【私の身にあなたの瞳、其を見る眼に迷霧の現を】」


 ミラーダの身体から白い霧が零れていく。巨大すぎる潜在能力が魔法の名を告げずして零れだしていく。一度、セルナに視線で合図を送ったミラーダ・テルミスは魔法の名を告げた。


「【蜃気楼ミラージュ】」


 白い霧が濁流のように流れ出し蜃気楼がマンティコアに襲い掛かる。迷霧への誘いにマンティコアは閉ざされ標的を見失う。視界を覆うのは霧の森。気配は遮断され音も反響して情報が曖昧となる。


『ウォっオオ。ヴァァアアアアアア‼』


 暴れ暴れ暴れ狂う。気さえ狂いださん白い世界は邪を源とするマンティコアにはまさに地獄。己を否定する鎖がない夢。


「そう――流れてくるわ。それが――」


 朧げに耳朶を踏んだ声は迷夢の戯言か。ただ、続きが聞こえなくてマンティコアはなぜが不安に駆られた。そんな有り得ない感情、伝わることのない戸惑いは、一瞬にして純白に触れられる。


 そして再び歌が魔女の微笑みのように反響した。


「【そこは彼の世、あなたの心】」


 紡がれるのは繋ぎの歌。


「【そこは現し世、あなたの瞳】」


 迷霧より生まれし幻想の鑑。


「【そこは今際の世、あなたの身】」


 マンティコアは狂おしいほどの狂い暴れる。端から端へと走りぶち当たるものすべてを抉って走り回る。その憐れで滑稽な姿を憐れ哀しむかのようにその歌は続く。


「【そこは迷夢、あなたの夢の中】」


 最終章。決着の歌は静かに過酷を強いる。


「【幻想の華は咲き、存在の証は彷徨った。時世の人よ幻想に酔え】」


 白き世界に淡い青光が灯る。天井には星のように、地には花のように、宙には精霊のように。

 いるはずの存在が消え、いるはずのない存在が生に縋る。

 声の主は怪物の瞳にしか映らない。


「【竜城の蜃ファタ・モルガーナ】」


 白き世界は青光を屈折しては繋ぎ幻想を映し出す。

 後光に瞼を開け、そこは青空が広がる草原。風が心地よく日差しが気持ちよい平和な外の世界。

 マンティコアは困惑する。見たことのない景色に誰もいないただ一人の世界に。


 マンティコアは一つ定められた命令にとある物を探す。

 マンティコアが生み出された由来にして、課された約定。しかし、視界のどこにも守るべきそれは見当たらない。

 マンティコアは困惑に困惑を重ねた。ただ魔物を喰らい魔族を呑みそれだけで育てられてきたマンティコアにはすべてが未知であった。破壊と破滅しか知らない怪物はこんな穏やかな景色を知らない。約定と邪悪だけを糧としてきた怪物はそれ以外の生き方を知らない。

 未知の世界で約定の目標を見失い動揺するマンティコアにとある女の声が届く。


「君は元は人間なんだよね?」

『ヴァっ……?』

「大丈夫よ。怖がらないで。私の水面の音を聴いて」


 水面の音、自然の穏やかな優しい気配。ぽとりぽとりと波紋する水滴は心地よいと眠りに誘う。


「私の水星は知ってるよ。君に触れて君を知った。――優しい君は今も優しいね」


 怪物は女の意味がわからなかった。何を言われているのか、何が目的なのか、女がだれなのか。何も一つとして何もわからなかった。怪物は怪物だ。人ではなく魔族でもなく精霊や悪魔なんて高尚なものでもない。生まれた時から魔物を喰い、縛られ門番として生きて来た化け物だ。そう、化けた者だ。


 ――――――


 ふと、その突き刺さった剣に誰かの手が触れた。

 払い落とさないといけない。殺さないといけない。斬り落として喰い殺さないと――

 でも、その手は温かかった。


「君を彼女は覚えてるよ――」


 女の存在は消える。水に流離って流れていくように。怪物は孤独になった。怪物は何をすればいいのかわからなくなった。怪物は――聞こえて来たその声に振り返った。


「【正義を宿すこの御身、いつか来る災厄に私のせいぎで天へ導かん】」


 怪物は駆け出した。その歌にその声音の方に、その少女の姿へ――

 それを【旅人】はこう綴る。

 祈祷の光であり、弔いの歌であったと。


「【さあ英雄よ、正義のつるぎに誓いの光を】」


 怪物は駆けた。走った。脚を動かした。その少女の下へ。その少女の傍へ。その少女に死を――


 剣を構え光を蓄える正義の少女へ、怪物は拳を振り落とした。大地を粉砕し轟震させる一撃が少女の身体を砕き殺し――


「ごめんなさい。貴女を今まで見つけてあげられなくて」


 砕けた少女の身体は霧のように霧散した。声は頭上、謝罪が述べられた。

 幻想の世界で正義は紡ぐ。


「貴女を一人ぼっちに……いえ、助けられなくてごめんなさい」


 怪物は凶荒の喉を震わせ宙から落ちてくる少女へ右のストレートを放つが、それもまた霧散する。


「貴女のことを忘れた日なんて、私はない。貴女がいたから私は今も生きているわ。嘘なんかじゃない」


 右方から声が耳朶を揺らし怪物は慌てて腕を薙いで少女を払う。またも少女は霧となる。


『――っァ⁉』

「大丈夫よ。私は大丈夫。だから言わせて。ごめんね……そしてありがとう。グレンを守ってくれて――」


 困惑する怪物は腕をむやみやたらに振るい砕き壊し、それは何もわからない赤子のように。


「そして、今もずっと殺さないでくれて」


 怪物は理解できない。殺さない?なぜそう言われたのか、既に言葉が意味とならない。それでも、その悲し気に見止める彼女の瞳が、どうしてか妙にあるはずのない心をざわつかせ。

 そして――正義の手が胸に刺さる剣に触れた。


『――――――』


「【さようなら、大好きよ。――セメーレ】」


 魔法の変わりに呟かれたのは友への最後の言葉。弔いの光が剣より怪物を消し去った。



 あの日、グレンを守り剣を胸に刺され亡くなった最愛の友へ。



 剣の錆がぼろびろと零れていき、それは一年半前、セルラーナが愛用していたステラの剣。彼女と契約していた精霊の神器。

 まるで役目は終えたと言わんばかりに、言葉など一つもなく三年間共に戦場を駆け抜けた精霊ステラは粒子となって零れ消えていった。


「ありがとう、守っていてくれ」


 零れる天へ昇る灰の粒子の中、それは確かな形、光、輝きとして浮かび上がる。

 彼女の『魂』が幻想の世界より天へ昇って逝った。


 正真正銘最後のお別れ。


 あの日、守ることができず、この手で亡者となった彼女を殺してしまった痛みを。

 あの日、言えなかった言葉を。

 何よりも大好きな貴女へ。


「……貴女の分まで私は生きるわ」


 セルラーナ・アストレアは再び正義を誓った。





 幻想の世界は消え去り、広間の中心で佇むセルラーナを後ろ目にミラーダは寂寥を帯びながら〈権能〉の制御装置を破壊した。

 赤い光が空洞を開けて空へ打ち上り、天井の監獄に突き刺さり監獄と赤き柱は罅を入れガラスのように砕けていった。



「任務完了……あとはお願い。リリヤさん――」



 そして決着が訪れる。


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