第43話 白き狼の牙

 黒き粒子纏う邪の身体は体躯三メルは余裕で越え、背中に大きな一つ目を生み出し身体中から無数の触手さながらの手房を伸ばす。婉曲湾のような角が一つ額から天井に生え、猫背の醜き化け物サタナキアは人間の耳下まで口を裂け人間を呑み込める大きな顎で狼に戦意の咆哮を進撃させた。

 邪の威勢を受け止める白狼ことゼアは、口に溜まった血片をぺっと吐き捨てる。


「歪な醜悪め。元の記憶かたちすら保てないクソが。……喰う気にもなれねー肉を纏いやがって、どれだけ聖獣おれに歯向かえば気が済むか。アァ、イラつくぜ。クソがァ」


 白狼と化け物の死闘はこれまた群を抜いて凄まじかった。


 狼の身体となったゼアの俊敏こと疾風迅雷は文字通り目にも止まらぬ速さ。魔力で足場を作り衝撃によって浮上する瓦礫も利用して糸を繋ぐようにその糸を雷が疾る。

 爪牙が肉を剥ぎ、魔法を纏った身体が巨躯を押し返す。細やかな立ち回りは瞬時に人体に戻り針を縫う所作。狼と人を持ち合わせた至高の攻防は一進一退などではなく、明らかにゼアが押していた。

 現状のゼアの状態、身体の到るところの骨が折れ口からは血。肉も裂け皮膚も抉れている。鈍色の獣毛が隠しているとは言え、鈍色は濁った紅を滲ませ美しい毛並みはもう見られない。

 それ以上に酷い有様だったのがサタナキアだが、今顔を上げればどうだろうか。


「元通りかよぉ。むしろ俺にハンデが課せられてやがるってか……クソが。醜い獣は死ね。俺の邪魔をするなら殺す。貴様の身がどれだけ悪臭を纏い悪魔的であろうと、俺の瞋恚が殺すっ。俺の殺意が殺すっ。貴様の穢れた目玉、咬み千切り引きずりだってやらァァァァア‼」


 悍ましい醜魔に向かって怒号さながら上げる産声と共に白狼ゼアは大地を蹴った。


「ゥォオオオオオオオオオオ‼」


 狼の唸りが爪牙を振り下ろす。


『―――――――ッッッ‼』


 奇怪な声。馬車で倒木を踏み潰したかのような轍音。威嚇、嘲笑、殺声、挑発、動物的本能。

 化け物は総勢三十は超える手房を肉薄しにくる疾駆の狼へ迎撃に赴く。爪牙が手房を切り裂き黒い粒子が霧散するように弾ける。しかし一つの相殺に終わらず三十の手房はゼアへと肉薄し、ゼアもまた爪で切り裂き牙で咬み千切り脚で蹴りつけ魔力を纏わせた咆哮で相殺した。


「しゃらくせぇぇのは仕舞だァ。貴様の首捥ぎ取ってやらぁぁああああ‼」


 純然な力が拮抗する。化け物は腕を引きゼアを見据え肩を大きく突き出すように怪腕を繰り出す。負けずとゼアは頭から突撃した。混じり合う衝撃は揺蕩う炎を消し飛ばし僅かな静寂を生み出す。しかし、刹那怪腕が振り抜かれた。


「っァガァっッ⁉」


 ゼアの身体が弾丸が如く殴り飛ばされ突起する物のない戦場を並走し、燃え盛る炎に呑まれる寸前に後ろ足でなんとか地面を削り二度の跳躍を繰り返しながら踏ん張り態勢を整える。


「クソがァァァァッ‼」


 前脚を地面につけたと同時に俊足。彼我の距離は四百メル。狼は戦野を駆け鎮座する化け物へと再び牙を振り下ろした。


「ガァルルルルゥゥゥ‼」


 倒壊音の轟声を掻き鳴らし迎え撃たれるは怪腕の一撃。再びの激しい振動は空間に浸透して戦野一帯を周囲から隔離する。隔絶した死野にて始まるは神の脚と怪物の拳の応酬。銀の刃が煌めき醜悪な手房が濁流する。咆哮が耳朶を劈く。かいなが矮小を吹き飛ばす。


 三十の手。留まらぬ銀。衝突と回避と策略と力勝負。


 自我すら薄れているのではと錯覚させる猛獣は動物的本能をより洗練させていく。より等しく孤高の王へと。

 群れを成す狼の中、そいつは孤独だった。その狂暴性は孤独が為した万全の斬核者の証。

 奴の爪は万物を破壊する。奴の牙はその肉を平らげる。奴の孤独は執念と悲願。奴の強さは妄執紛いの願望のそれ。

 孤高の王は覇者ではない。孤高の王とは愚者にしてあらず。ただ、誓い守ったものがあり、守りたかったものがあっただけにすぎない。故に白狼の銀眼が死を恐れない。


「死ねやァアアアアアア‼」


 唸る喉が唾を撒き散らして剛腕に噛みついた。驚愕する化け物へ更に牙を喰い込ませ肉を引き千切る。ただその身体は元は人間としても今や粒子の集合体。肉のように固い腕も千切れば光の粒となって霧散する。


「クソ不味いだろうがァ!貴様の存在事態喰い殺して、悪魔を見返してやらぁ‼」


 右腕に掴まって貪る獣を払い落そうと振り回すが爪は食い込んでは放すことを知らない。次に三十の手房がゼアへ迫るが、形成した結界が手房を阻む。


「俺を舐めるなァ。他の同族と同じにするなァ。俺の牙はいずれ月すらも喰らってやるゥ!だから、貴様如き俺が喰い殺すッッ‼」

『――――――ァァァァァァ‼』


 牙が剛腕の肉半分ほどを食い破ったと同時に反対側の剛腕が振り下ろされ、それは容易くゼアの結界を破壊し獣の身体を穿った。


「グゥッガァッッ――っっ⁉」


 鈍色の毛並みは地面に叩きつけられ食い込んでは浮き上がり、穿った腕が振り払う所作でゼアを弾丸さながらに薙ぎ払った。

 声も出せないままゼアは彼方へ飛んでいき、歪んだ半円を描いて肉は大地に戻る。


『シャァァァァァァッッッ!』


 放たれた三十の手房は蛇が如く、ゼアが落ちた坩堝へと迫り流星群のようにもしくは花開くようにそこへと紡ぎ、次には墳血と粒子が花乱れのように粉砕した。大地一帯がせり上がった地脈が膨隆して吹き飛ばした。


「ゼアっ⁉」


 彼の名を呼んだのはこの場にただ一人居合わせた只人のアムネシア。深紅のツインテールは爆風に晒され解けその髪には灰と砂まみれ。衣服も擦り傷だらけで所々から血色が伺え道のりを垣間見えた。

 そんな心配気な声を上げる彼女にイラつきの声が頭上から落される。


「うるせーなァアアアアア‼オマエは黙って見てろォ‼」

「ゼアっ!」


 アムネシアのすぐ傍に着地したゼアに歓喜と安堵するアムネシアだが、その状態を見てすぐに息を呑んだ。

 狼から人間の姿に戻ったゼアの右腕はだらりと爛れ肉のように腕として機能しておらず、衣類は襤褸となり背中から大量の血が流れ続けている。左の膝の皿は割れ額から流れる血液が綺麗な鼻筋の隣を通り唇を潤す。鉄の味の充満にゼアは顔を顰めた。


「オマエは黙って隠れてろ。こんな戦場に来やがって……俺がなんのためにオマエを逃がしたと思ってやがる」

「別に……あ、アタシの行動はアタシの自由よっ!アタシの行動をアンタに規制されるなんてごめんよ!」


 と、威勢を張るアムネシアだが身体は素直か恐怖に震えている。


「そもそもどうして来やがったぁ?オマエ一人か?」

「え、ええ。アタシ一人よ」

「理由を話せ。オマエに構ってる暇はねー。理由がねーならオマエの身体放り投げんからな」

「それアタシ普通に死ぬから⁉」


 そうだ。アムネシアは高度からの着地すら普通にできない只人だ。魔法はあるのか知らないが、素人冒険者の足元にも及ばない身体能力だ。


「ここは戦場だ。オマエの居場所じゃねーー」


 吐き捨てる声音は優しいと知る。ゼアはゼアなりに危惧してはアムネシアを慮っているのだ。それは十分アムネシアにも伝わり頬を赤く染めてしまうが、「バカじゃないのっ」と自分の中のそいつを殴りつけてただ今にも倒れてしまいそうな有様の彼を見上げる。

 その身体は動けるのだろうか?彼の意志は死なないのだろうか?あの化け物に勝てるのだろうか?

 アムネシアは瞼を閉じては視線の先、腕を再生している化け物を見た。


「魂が邪火に犯されてるわ」

「……」

「悪魔ルシファーの【明星】の証明は『一番』なの。ルシファーの〈権能〉は魂を昇格させる。人の魂に生きる記憶から『一番』の記憶を投影させるのよ」

「つまり、あいつの素体は過去一番の状態ってか?」

「ええそうよ。けど、ルシファーは集束していた力を目の前の化け物に注いで『邪鬼マレフィクス』へと進化させたわ。それによって遥かに強大な力を宿したわ」


 そして、一度言葉を切った彼女は今だに震える腕を隠すように背中に回して逆の手で抑え込む。

 けれど、その声は震え凍え怯えを含んでいた。


「あれは……あんなのはいちゃダメな存在よ。……っあれは!……言葉通り化け物。世界の秩序に背いた理に収まらない怪物」

「……」

「お願いゼア。……アタシと一緒に逃げよ。あれは戦っちゃダメなのよ」

「…………」

「……お願い……わかるでしょ……?『マレフィクス』の邪悪な力」

「………………」

「お願い……じゃないと――」


 ――アンタが死ぬ


 アムネシアとゼアの出会いは正真正銘最悪だった。互いに毛嫌いしたのも始めの衝突からずっと。馬は合わない顔を合わせれば喧嘩、互いに嫌な奴。

 だけど……今はもうそれだけじゃない。数年に及ぶ関係性は変わらないところも顕在する。だけど、嫌ってばかりの心じゃない。どうでもいい感情じゃない。失ってほしい人じゃない。


 アムネシア・アスターは希う。


 ――ゼアに生きていてほしいと。


 そして、それもまた理解していた。


「――――――」


 見上げていた視線に背中が映る。大きくて頼りなくてボロボロで、でもかっこいい背中。


 コツコツ。


 足音は大地を震わせる。芽吹くのは意志。潤うのは戦意。高鳴るのは誇り。


 嗚呼、狼はどうしようもなく愚直だった。


「どうして……」


「……」


「なん、で……」


「…………」


「いかないでっ……」


「………………」


「いやぁ……っ」


「……………………」


「だめ……」


「…………………………」


「とま……て」


「――……止まるか、馬鹿」


「――ッ⁉どうして⁉あんた死ぬわよっ!そ、それなのに……どうしてっ⁉」


 一匹の狼は振り返った。闘志を抱く銀の瞳。迷いのない強き瞳。


 ああ、理解してしまう。わかってしまう。

 もう、連れ戻せないこと……見送るしかできないことを知ってしまう。


「オマエみたいな奴がいるのは今だに信じられねー。俺を知る奴は大抵あの『死神様』と同じ視方をしやがる。なのにオマエだけは俺らをそう見なかった」

「ゼア……」

「俺もあいつも基本誰かを信じねーし利用はしても利用されんのは嫌いだ。悪いが譲れねーもんがあんだよ。誰にも踏み込むことを許せねーもんが」

「…………っ」


 俯いていたアムネシアが視線を上げた時には既にゼアの標的は『マレフィクス』へと定められ。聖獣の血で治っていく傷だらけの身体は一度震え、瞬きと共にそこにいたのは名も流れる死神の使者と噂される【白狼】。

 狼は地を深く踏んだ。


「けど……今なら、俺はオマエを許せるかもな」

「――っ⁉ゼア!それって――」

「これは、オレの使命ダ」

「―――――」


 白狼は再戦の狼煙を打ち上げ大地を駆けた。マレフィクスは再戦の申し出に憎たらしいほどの奇声を持って受け入れる。


 疾駆の獣は銀光となり邪火へと挑んだ。


 その姿を見送って、見つめて、見離れて行って。

 嗚呼、どこまでも遠かった。

 もう無理だった。泣かないなんてできなかった。

 だけど、泣くこともできやしなかった。


 帰りを待たないと、約束をたった一つだけの約束を交わさないと。


 濡れる瞼を擦り鼻を啜って、どうか願いだけでも込めて――彼の意思を胸に抱いて――


 アムネシアは戦えない身でありながら、戦士の唯一の居場所となるように強く強く声を張った。


「勝ちなさいよ!死んだら許さないんだからっ!」


 アムネシアは己に課された使命を信じ、彼を信じ、炎を灯した。

 打ち上げるは銀閃と邪火。


 聖邪の決戦が咆哮と共に狂おしいほどに始まった。

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