第34話 白き狼は吠える
そして、顔付きは敵を殺す狩人の形相。薄鈍色の髪の間から銀光が射抜く。
「貴様が誰か知らねーが、待っていてくれるなんざ優しいじゃねぇーか」
『…………』
「話せねーか?まーそうだろうな。なら、さっさと殺してやる。クソがァ!」
言葉は要らない。意味も要らない。必要なのは力のみだ。
悪魔ルシファーの〈権能〉によって生み出された悪性の怪物。明星が燐光する黒質の化け物。曙光を浴びていた怪物は消えていく光の柱から姿を見目に顕在させ、喉を唸らせた。
ゼアの直観が唸る。目の前の敵は破壊者だと。
ゼアは黒質の化け物と一切の駆け引きせず大地を蹴った。疾風迅雷が如くゼアの拳が黒質の化け物へと突き出された。しかし、化け物は左腕で拳の一撃を受け止め、打撃と防撃の衝撃が走りだす。刹那、右手に持つ
「暴力の化け物かよォ。死ねッ!」
そして迅速迅雷の狼の爪牙と傍若無人の化け物の暴力が、大地天空領域のすべてを轟震させた。
超打撃と戦斧の破壊。銀閃と拳撃。
巨大な体躯では想像のできない速度を持って
ゼアは人間の体躯で狼の瞬発力と洞察力を持ってして軽やかなフットワークで化け物の腹部へと入り込み、渾身の殴撃を撃つ。しかし、異次元極まる外殻のような黒粒の肉体が堪えることはなく、直ぐに右側面から拳が迫る。回避以外の選択を一つとして思慮せず大きく跳躍をしてその場から退避。空高くで身体を捻り態勢を整えながら次の攻撃へと転じる思考へと入り、ゼアの眼が化け物を捕えた瞬間、化け物は再びその姿を消した。
「はっ!クソがぁ⁉」
星へ飛ぶよだかが如く、強烈な逆風に視界を囚われた一瞬にして化け物はゼアの直ぐ目の前で動きを止め、身動きのできない滞空でラブリュスが振り下ろされた。
回避不可能。ゼアは咄嗟な反射行動で両手にナイフを構え、身体を右側に寄せながら、空を裂くラブリュスの刃の側面をナイフの刃で滑らせ加えられる力と加えた力によって、ゼアの全身は浮き上がり強烈な摩擦が火を噴いて吹き荒れる。衝撃と急降下の風圧によって後方の上空へと飛んでいく。
「ちっ。空中でも動けやがるとかふざけてんだろォ!」
身体を反転させたゼアは足裏を上に魔力で疑似的に足場を作り、膝を思いっきり曲げて地上へと急降下。あの化け物に地上を先手に取られるのは危うい。魔力で宙に足場を作れるとは言え、奴の速度からして回避できるのは初手のみ。次には順応され、成す術なくいたぶられる。
文字通りゼアは空を飛ぶことはできない。ゼアの目論見に気づいたのか化け物も逸走する。しかしゼアの方が初速が速く化け物の下を陣取り、着地と共に一秒もの間も入れず前方遠くへと跳躍した。
刹那、巨体の化け物がゼアの着地した位置へラブリュスを降し大地が浮き上がりせり上がる。化け物はゼアが先に地上に辿り着くと判断した瞬間、方向性を切り替え叩き潰すように真上へ移動したのだ。
「化け物如きが頭なんざ使いやがってぇ……ちっ、いい気に乗るなよ屑がァア‼」
ゼアは地面と平行に身体を預けながらまたも反転し、倒壊せずに残っていた建物の壁を足場にしてまさしく雷光の槍が如く化け物へと突貫した。反動で砕け散る建物。ラブリュスを持ち直す化け物へ槍のように穿った。突き出されたナイフが心臓……魔石へと放たれ――しかし、肩が抜けん勢いで阻みにきた左腕が渾身の一撃を無効化した。
吹き飛ぶ肘から下の巨躯の腕。墳血に呑まれながらも腕を貫き肉体へと迫ったナイフは軌条を逸れ腹部に刃渡りの半分が突き刺さるのみ。
確かなダメージ。しかし、致命傷には成り得ないそれは反撃の隙。まさかっと驚愕するゼアの一瞬の思考の誤り。
「はっ⁉」
気づいた時には遅い。左方の視界に短足の巨脚が迫り、さすがの反射能力を持ってして咄嗟にナイフを放棄して左腕を壁に防ぐ。
ゼアは【聖獣】だ。神に使える獣の一族。その身の力は遥かに人類を超越している。人間のように脆くはない獣の身体は、されど暴力の化け物の一撃には勝てなかった。
「――っっがぁぁぁっっぁ⁉」
呆気なく吹き飛ばされていくゼアの身体。骨が粉砕されたような激痛と共に身体は流れせり上がった断層を貫き地面をバウンドする。
止まらない身体。悲鳴の痛覚。判明の仕切れない脳と視界。けれど、獣として狼として、数多の戦場で鍛え上げられてきた感覚がゼアの意識を呼び覚ます。
流れる身体に追いすがるように、はっと開いた視界には黒い巨体と振り上げられた化け物を殺す戦斧。赤き空の下、それは断罪のギロチン。ゼアの罪を裁く暇もなく慈悲の一つもなく処刑の斧が振り下ろされた。
「ガァッ……がぁあああああああああッッッ‼」
両手で咄嗟に構えるナイフ。冥王ヴェルテアにも勝る暴力の一撃はゼアを軽々と地面を叩きつけた。出来上がるのは陥没の穴。獣の持つナイフは砕け散り、その身は宙へ投げ出される。血反吐が舞い肉が弾け骨が割れる。すべての破壊音を一つの葬祭にしてみせた黒き化け物は獰猛に嗤い声を轟かせた。人のようで魔物のような奇怪な声を。
ゼアはそのまま大きく弧を描いて大地に叩き落ち、そのまま転がっていく。
見ていた者は『旅人』おいて誰もいない。もしも視ていた者がいたとすれば、獣人は死んだと嘆かれることだろう。
ああ、おしまいだ。勇敢な戦士は死に散った……と。
しかし、ここには誰もいない。
誰もゼアに嘆き憐み失望もしない。誰も諦めを与えてはくれない。
故に、そのただ一つの感覚はゼアの諦観を許さない。
ゼアには一人の妹がいる。己よりも逞しく、己よりも優しく、己よりも勇敢な笑顔のかわいい妹が。かつて交わした妹との『約束』。そして誓った妹への『願い』。そして己に誓約した、ただ一つの『望み』と『命』。
嗚呼、それは走馬灯か。否だ。それは夢か。否だ。それは――理由だ。
ゼアに許しは与えられない。願いを叶えるまでその身は走り続けなければならない。その意思そのものが己の死を認めない。
さあ吠えろ。啼け。立ち上がれ。爪を立て、牙を剝け。本能を唸らせ願いに忠じろ。眼を開け疾くと見よ。
さあ立ち上がれ。声を上げ牙で唸れ。爪を磨き戦意を燃やせ。意志を高らかに獣となれ。
さあ狼煙を共に。さあ願望を力に。さあ死に果てるその日まで、その命、業火に染まれ。
「ああ……わぁーてる。わかってやがる。んなとこで無様晒して死ぬわけねーだろうがぁ。クソが……ァ」
その身は半壊している。獣の治癒も遠く及ばない。左腕の骨は砕け、背中の肉ははち切れ、獲物は何もない。残されたのは走れる両足と殴れる右の拳。
ああでも問題はない。牙はある。爪はある。誓いはここに約束はそこに願いあそこに。
獣は死体のようにゆらゆらと立ち上がった。狼の身体は半壊の状態。哄笑していた化け物はギョッと真っ赤な瞼を大きく開く。
揺れる身体。定まり切らない照準。動かない左腕。走り続ける激痛の背中。血は止まらない。痛みは帰らない。死が隣で笑い続ける。
「黙れ、黙りやがれッ!……痛みなんざ知るかァ!恐怖なんてもんはねぇーー!あるのは貴様を殺して、妹を取り戻すだけだァ。あぁ、失態だなぁ。マジでクソだろ……ハッ、だからここからは本気で貴様を殺す。殺して殺して殺しまくってェ……生まれて来たことを後悔させたやらァ‼」
ゼアの全身がブルリと震え上がり、その身はそう誰もが一度は見たことのある『獣』の姿へと変わり移る。
薄鈍色の獣毛が全身を覆い、四足歩行となった体躯の下半身から尾が伸び、白き雪の光と共に人の身から狼の身へと変芸した。
名は【白狼】。白き狼はその瞼を開いた。
銀月を想起しては雪山を統べる一獣のよう。その神秘的な姿は神話に出てくる聖獣や神獣そのもの。
嗚呼、見る者は知る――
喰らう者がやって来たと――
白き狼は高らかに咆哮を轟かせ、それに応えるように化け物もまた奇怪な哄笑で吠えた。
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