第31話 明星
そしてそんな勇敢など無意味と言い渡すことのできる絶望の到来をアーテル王国に残るゼアを含め、アムネシアやヴァーネ、アマリリスは体感していた。
嗚呼、彼らが見上げる空は赤かった。
どうしてそうなっていたのか誰も知らない。あれほどまで青かった蒼穹は見る影もなく赤いヘドロのような異質な空に変貌した。いつからだ。いつ、どうしてそうなった?
わからない。ただ――その遥か頭上にいるその者の『声』だけははっきりと神経を覚まさせた。
「さあ!始まるさッ!ボクが願う、ボクが叶える、ボクが成し遂げる征服の時間を今より始めよう!」
高らかに青年の宣誓が国中に響き渡り、すべての人間の視線と意識が、頭上高く留まる両腕を広げたその『悪魔』に注がれ固定された。
理解及ばず頭回らず身体動けず、ただ彼の声明に時を奪われる。
「時は満ちた。世界はボクにひれ伏す。さあ!愚弄な人間どもよ!ボクが明星にその魂を捧げろ!ボクのために死に。ボクのために絶望するがいいさァ!」
振るわれた腕。浮かぶ笑み。声の圧力。神聖と悪性の天使の魔力。
ドクンッ。一つ大きく胎動した。それは心臓の音と似ていた。
ドクンッ。すべての人間が同じ鼓動を胸に、その心の臓は魂の髄から囚われた。
ドクンドクンドクン――ッ
激しい拍動。収まらない動悸。鼓動が訴える。
嗚呼、あれは……あの頭上の存在こそが人類の最大の敵にして世界の悪――『悪魔』なのだと。
口元の笑みを深めた悪魔は胸の真ん中に浮かべた小さな赤い星に囁いた。
「【
刹那、世界は変革した。巨大化した赤い星から大地へと白金の柱が突き刺さった。血液の流れの如く白金の柱の中を赤い線が走りだし誰にも知られず一瞬にして門扉を開く。
足下、大地四方に流れ出した赤き線がまるで模様を描くように走りだし、見ずしてそれは何なのか理解できた。四方に巨大な魔法陣が描かれ、翡翠の霧のような光が空間を満たす。視界を阻み空気を移り変えまるで霜の国が如く人の視界は赤と翡翠と白に奪う。明滅するように赤い光が弾け、霧の中を駆ける狩人のように喉の唸りが僅かに耳朶をくすぐった。
そして、アムネシアが瞬いたのと同時に目の前で誰かの首が刎ねた。
「……え?」
噴水のように赤い液体が溢れ出す光景が無慈悲に意識と視界を奪い、死に逝く人の傍、その墳血を浴びながら喜々と嗤う悍ましい存在がアムネシア・アスターへ嗤いかけた。
不吉な黒き羽。鋭利な爪牙。飢えた殺戮本能。漆赤の魔物の瞳。額から伸びる漆黒の角。人間紛いの醜い獣。
それらは誕生して以来、永遠の人類の『敵』。
人間と悪魔から生まれし、殺戮の化身。世界を蹂躙する魔物と同義。
それは天の災禍。それは人類の敵。それは悪の眷属。
とある男は見た。逃げる女は知った。只人たちは……何もできなかった。
空を覆うほどのそれら――赤星の幾百の点滅が翡翠の晴れる霧から姿を現す。
名は『魔族』。奴等は飢えに飢え、欲情に盛りながら飛翔から死を戴く爪牙を振り撒いた。
悲鳴はない。恐怖はない。血の華が咲き誇るだけの刹那だった。首がはち切れ、頭蓋がひしゃげ、胴体が抉られ、内臓が吐き出し、濁流たる血液が流れだす。
血華の世界は悍ましく、美しいとは口が裂けても言い難い。絶望と酷似した一瞬は正しく終わりであった。
何千たる漆黒の悪は獰猛に嗤い、翼を広げ生きとし生ける者へと再び死を浴びせる。
一瞬のことだった。霧の晴れ切った視界は瞬きと共に無数の死体を描かれていた。息をすれば血の味が喉を抉り、唾を呑めば内臓に死臭が広がり噎せ返る。
恐らく理解できた者はいない。瞬時に動けた者はいない。死者と生者の隔ては単なる偶然。突如として現れた魔族の奇行と気分によるもの。故にアムネシア・アスターは生きていてなお死に晒されていた。
「――⁉」
喉が絶鳴を上げる。魔族の哄笑が充満する。悪魔の嗤い声が聞こえる。
悲鳴を取り戻し、恐怖が真髄を脅かし、血の華を贓物の拉げた果実だと狂いだした。
世界に奇声の雄叫びが充満し、一泊を置いて絶叫が迸った。
「きゃぁああああああああああああああああ――――っ⁉」
その一泊は意味もわからず理解できずに人が殺された初撃の時間。黒い雲と赤い光に閉ざされた国でアムネシアは知る。
頭上の悪魔の笑みの正体を。
「さあっ‼支配の始まりさ!さあさあ殺せ!どんどん死ねッ!死んで死んで死に晒せ!フハハハハハ!それがキミたちの役目でッ、ボクの役に立つ唯一の栄光さァ!さあさあ喚け哭け!哀れに命乞いをしてみろ!情けなく尻尾を撒け!」
悪魔は宣う。魔族の虐殺は栄光であると。悪魔は命じる。さあ殺せ殺せと。人よ獣よ死んでしまえと。
逃げまとう人々。誰彼構わず走りだす。身体がぶつかれど剣の先が誰かに当たろうと我先にと逃げまとう。他人を盾に後ろに押し飛ばし自分だけはと、醜悪な本性を露わにする。
「嗚呼、大丈夫さ。逃げてなくて大丈夫さ。みんな、ボクのために死ぬ運命にあるのだから。嗚呼、君たちは幸せものさ。だって、死んでなおボクという世界の支配者の役に立つことができるのだからさ!怖がらなくていいさ。怯えなくていいさ。ただ君たちは命絶えればいいだけだからさ。さあ死んで死んで死んでくれ――ッ!その命はボクが大切に扱ってあげるさ!だからボクが改めて命じてあげるよ――人間を虐殺しろ」
悪魔の命令に答えるように魔族が奇怪な鬨声を生者に余命宣告、絶望の到来を知らせるように大仰に放った。
突如として出現した魔族の蹂躙が始まる。何百、何千、もしくは万と国中に溢れかえる漆黒の魔物。殺戮のみに飢え圧倒的な群数を誇って蹂躙する獣。
アムネシアはその場から動くことができなかった。
ヴァーネは顔を蒼白にその場に膝をついて震えだした。
東部往来にいた彼女たちを守る者は誰もいなかった。
竜印の覇者の隊長クレバス・クレトハルによって魔族の討伐が始まる中、【騎士姫】アマリリス・ルスベルティアは静かに王の部屋から退室し、剣を抜いては前線へと走りだす。精強な戦士の不在に唾を吐き捨て、残っている冒険者たちは振るえる手足を必死に抑えて武具で対抗する。
只人は混沌の極めとなり、医療ギルドや商業ギルドの避難指示にさえ届かない有様。
すべては悪魔の計画通りだった。アーテル王国の国民の内、只人は七割以上を占める。どこまでギルド国家と言えどそれは精鋭な冒険者たちが集まったからに過ぎない。故に全国民三万人の中、冒険者や騎士たちは全体数で経ったの一万にも満たない。しかし、この一万と言う数は冒険者や騎士の総数でしかなく、実際に魔族と対等以上に戦える者となると半数と少し程度だろう。そして何より悪魔の策略によって精鋭のギルド戦士たちは今まさにコロニーの討伐に出ている。他の冒険者も周辺に出没する魔族の討伐に出撃しており、アーテル王国はまさに瓦解寸前の只人の国でしかなかった。
故に蹂躙が始まる。人類と魔族の相対数2:5の法則に基づき五千の兵がいるとするのなら、魔族の総数は約一万二千ほど。しかし、能力、戦力の欠ける人間を見積もれば約二万五千を相手にしていると考えるが妥当であり、それすらも正しい数字なのかわからない。
覆せない圧倒的な軍数が冒険者をいとも簡単に葬る。
路は屍の道。壁には血糊のグラフィティ。怪道のように肉片や目玉、内臓が飾り物となり潤っていた豊かな戦士の国は見るも無残な死人の墓場と成り果てていく。
「……はっ⁉ヴァーネっ⁉逃げるわよ!」
「…………ぇ」
恐らく奇跡的な思考の回復だ。アムネシアのこれまでも過酷な人生が彼女を生かす。ただひたすら呆然とするヴァーネの手を掴んで無理矢理に身体を起こし走りだす。力のないアムネシアはただ逃げるしかできなかった。
そうして保護されなかったほとんどの只人が死に絶え、戦士たちが戦況に順応してきた時、再び悪魔が動きだす。
「儀式に足りる供物は揃った。血液は大地を満たし、屍は溢れた。魂が嘆き血片が歌い残滓が巡る。それでは始めるとしようさ。ボクの新世界を――」
大地は業火に燃え上がった。東西南北の大地に彫り込まれた幾何学模様は血漿を宿して悪魔の神聖と共に出現する。胎動だった。邪の産声だった。その大きな幾何学模様は魔法陣。得体の知れない死人と共に作られた血漿の痕跡。
強烈に発光する業火の魔法陣を足下に、けれど人々の視線はそこにはない。
嗚呼、彼らが見上げるは赤き星だった。
どうしてか気づかなかった。それは血のような赤をご照覧させる。
胎動の意味は母胎内で胎児が動くことにある。ならそれをそう表現してなんら変ではない。
胎動する赤き星の胎内。そこからはまるで獣を生み出すかのように何かが血片をバラバラと落しながら産まれてくる。蛇のように竜のように鉄のように鎖のように。顔を覗かせたそのものの答えをアマリリスが誰に知られず呟いた。
「あれは……
まるで存在を確証したかのように弾丸のようなスピードで二対螺旋状の体内をした鎖と共に先端が魔法陣の中枢に突き刺さる。民家三つ分ほどの大きな楔は周囲の人間を一瞬にして血糊に変え、魔法陣は血池に溺れる。四方の魔法陣に同じように突き刺した楔。
今、大地と星は繋がった。
そして、地中に蠢く地脈から莫大なエネルギーが楔を霊脈に昇っていく。収斂されていく力。純粋なエネルギーは邪の道を辿り邪に染まる。悪性が悪道へと唸りだす。
静寂の中、力の蠢きだけが拍動する空と星の中、すべての人間が時を止め、すべての魔族がその胎生を待ち続け、永遠に感じられた刹那の時は天と地に放たれた曙光によって変革を為した。
天を脅かす黒赤に突き刺さり、アーテル王国中心部の丁度真ん中のとある人物が曙光に燃え、悪魔は名声を響かせる。
「さあ刮目しろ!明星が称える屍の
世界は音を立てて変わっていく。理を破り法則を崩し神をも敵とする倫理の忌憚と愉悦による冒涜。
それは死に似ていた。
それは血に似ていた。
それは絶望に似ていた。
それは歪んだ魂に似ていた。
嗚呼、それは浅ましくも愚かで冒涜的な
「あれは……
『生を司る』魂の炎を知るアムネシアの真意は見極める。
「くそっなにがどうなってって……あれは命かぁ?……いや、終わり果てた
ダンジョンから戻って来たグランダルナは直感的に、否、どこかでの記憶でそう零した。
赤い星の赤。それは魂の血片。魂そのものではない。魂の残骸からなる記憶だ。
「私たちの国に何が起ころうとしているのですか?」
アマリリスはただ静かに世界の変革を見定めながら凡庸な声音で真意を呼びかけた。
王は瞠目、戦士は恐怖、只人は絶望、騎士は震え、子供は泣くこともできず、英傑はされど静かに怯える。
「ここに力は集まったさ!儀式は完成した!嗚呼、ボクの明星が今輝きだすッ!」
青年の声音は狂気的で穏やかで興奮的で享楽的な狂わす声音。
誰もがその姿、声、形、色、表情、羽、腕、黒と赤を眼に収めて、ああ、恐怖を真髄から再び覚えたのだ。否――思い出した。
――悪魔とは『絶対悪』であると。
そして、悪魔ルシファーは綻んだ。
「さあ!〝明星よ、魂血の呪いに支配しろ〟!――〈
その歪めの名が世界に干渉した刹那、権能の意義が理を紡ぎ悪魔の意思を顕在させる。
紡がれたのは欲望。満たされたのは血の嘲笑。残ったのは魂の欠片。
赤は吠え、黒は唸り、白は目を閉ざす。藍は呑まれ、緑は枯れ、灰色が情景の裏となる。大地は呪われ、天は支配され、領域が誕生する。
悪魔の権能の発動。
天地穿つ曙光を軸に四つの楔で繋がった心臓の赤き星。曙光穿つ先端から黒い雷のような亀裂が竜のように空を泳ぎ、それは数百か千か。黒き稲妻は星屑のように国を囲むように流れ落ちた。すべての黒星が落ちたと同時に明滅を繰り返し最後に真っ赤な光が世界を染める。夕焼けよりもおどろおどろしく、朝陽よりも悍ましく、紅月よりも遥かに人体に流れる血に近い色を光として、生きている人間の意味を奪った。
視界を取り戻したのは己の存在を思い出したのと同じ。
「ぅっ……今のはなに……なにか……?ヴぁ、ヴァーネっ!しっかりしてっ⁉」
隣りでぐったりと両ひざをついて今にでも倒れてしまいそうなヴァーネが一番に視界に入り彼女の身体を揺さぶる。すると確かな息と共に目を開いて安堵したアムネシアははっと悪魔の奇行を思い出し、天を仰いで――
「………………なにあれ?」
それを見たのはアムネシアだけではない。
「……ほんとうに、ここはどこなのですか、と言いたくなりますね」
アマリリスは信じがたいとばかりに吐き捨てながらも、その眼は嫌悪に溢れている。
「はっはは、冗談じゃねーだろ!は?んだよこれ……笑えねーぜ」
道化を演じるグランダルナも口調をいつも通りにしていようとも口元は引き攣り眉が眉間を狭める。
「これは……なにごとであるかッ⁉」
アーテル王国の国王ザッツル・テン・アーテルはガラス窓をドンと叩いて、その仰々しいまるで『異界』と称するに値する我国を王宮の最上階から見下ろしては腰を抜かしてしまう始末。
生きている人間はその風光とは決して呼ぶことのできない人工の地獄とも取れる悪魔の領域を目にしてしまった。
異観は逢魔が時。魔物が人の住処に夜行する侵略の夕暮れ。
空を見よ。黒い淀みが赤い空を混じり合う血海。想起させるは見たこともないはずの神聖紀最後の時代。七体の悪魔と神々、八竜王との戦いの空。
それは悪魔の侵略。悪魔の降臨。悪魔の権能。欲望と絶望の象徴。
そんなおどろおどろしい景色を背景に悪魔は数万の魔族の軍勢を携えて哄笑と共にその名を知らしめた。
「ボクの名はルシファー。【明星】の名を戴きし七人の悪魔の一人にして天使失墜の堕天使さァ‼」
ルシファーと名乗った悪魔は悠然と白き羽を羽ばたかせ、上空から矮小にして死ぬべきゴミ共を見下ろす。
その赤き魔性の眼が、みな自分と目があったかのように錯覚し凶荒となる。
――誰かが悪魔だぁぁぁあああと叫んだ。
――死にたくないと、逃げろォオオオオと、嫌だ嫌だ嫌だと。
恐怖の渦に呑まれ精神をズタボロに掻き回され皆一同に逃げていく。こんな国から出て行こうと。
しかし、誰も出ることは叶わなかった。
――なんでっどうしてっふざけるなッ!
そんな声が国中に響き渡る。見ていないアムネシアでも理解できた。何かがぶつかる度に国を囲むように天の光の頂点を結んでドーム状に血界が目に映る。
どこかで魔法がぶつかった。どこかで金属の音が響きだした。どこかではなくそこら中でまるで戦争時のように叫喚と絶叫、嘆きに呻吟に泣き声、混乱、焦燥と意地の威勢と許しを請う無様な震えの声。
そんな者どもを見下ろす悪魔は嗤い笑いワライ。
「さあ、支配の時間さ!」
悪魔ルシファーの宣誓と共に数多の死体がゆらりと炎が揺れるように立ち上がり、上空から魔族の奇声が劈き、邪悪が胎生した。
生命の果てと亡命の嘆き。
血液の懺悔と魂の虚ろ。
死んだそれらに意識はない。あるのは留まるなにかのみ。
だからそれは冒涜ではない。
言うならば後の祭りから始まる魂血の祭り。
明星の顕花。
人間の侮辱、人間の傀儡、人間の存在否定。それこそ罪深き冒涜。尊厳の命の自己の冒涜。
死人を持って、魔性を宿して悪辣に悪行に悪制に。
悪魔の〈権能〉は真価を見せる。
「さあァ‼君たちの『
強者があまりにも少ない隔絶された世界で、絶望に潜まる人間に、どこまでも抗い続ける人間に、どこまでも愉快に軽快に昂揚に笑って抱擁した。
悪魔の支配が五つの狂声を打ち上げた。
その祭殿を視ていたひとりの狼は、その身体を大きく震わせハァアーーと獣のような白い息を吐く。
男の視線はそいつだけを捕えていた。そしてこの国で誰とも違う感情を持ち合わせていた。
男の回りには無数の魔族の死体。そこだけ死体の意味が違っていた。
男は『狼』だ。獣であり『神の使い』でもある。
その身は『強き者』。その身は『取り返す者』。その心は獰猛な『簒奪者』。
男は憎悪と殺意の合間に軽く嗤った。
「やっと見つけたぜェ。悪魔ルシファー」
その男の名はゼア。彼もまた復讐に身を堕とした者。
「あいつには悪いが喰わせてもらうッ」
そして悠然と血海を歩み始めた。
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