第28話 赤、黒い、偽物

 二つの場所で二人の戦士が確信した事象に名をつける少し前、時を倣い時を正し時代の巡りを歪めんとするようにゼアとグランダルナの前方頭上。麗しい濁った金色の髪をした聖者の衣を纏いし白い翼の悪魔が、爛々と物腰柔らかそうな赤い眼を喜々と輝かせ、その笑みは中性的な顔立ちの美青年には相応しくないほどにおどろおどろしい不愉快な歓迎の笑みが軌跡をひいた。

 悪辣なその悪魔はゼアたちが招かざる客だろうと福音だと言わんばかりにもてなす。両腕を大きく広げた純正な悪戯が悪心を加速させ、それは悪魔にとっての倫理でしかなく、発せられた言葉の意味に体内が掻き混ぜられた。


「さあ!ボクの明星の真核をその眼に刻み込むがいいさ‼」


 そして数百、千は及ぶ魔族の大群が部隊となって形成された複数の魔法陣。それが突如として恍惚に燐光を強めた。赤い光子が浮かび上がり幻想的な赤の風景で魔族どもは嗤う。悪魔は恍惚な表情で蕩けた顔で愉快に大笑した。


「あはははっ!すべてはこの日のためさァ‼長きに渡ったボクの研究の成果が今!ボクの望みを叶えるのさァ!あはっあはははははははは――っ‼嗚呼、嗚呼!こんなに胸焦がれることはない!こんなにも愛おしいと胸躍ることはないさ!」


 ポエマーか。それとも自己評論家か。

 兎にも角にも悪魔の真正よりもたらした法則を歪まさん世界の変動に、ゼアは強い酔いを感じ立ち眩みを起こす。睡眠とも違い脱力感とも違い眩暈なんかとも異なる。

 楽器のように繊細に組まれた細い糸のような、神経をぐちゃぐちゃに引っ張っては結んでは伸ばして回して絡めていく。元の形などわからないほどにぐちゃぐちゃに己が得体知れなく認知していく。その認知さえ既に客観的視点を越えた他人そのもので、意識のすべては本来の自分を裏切っていく。

 ぐちゃぐちゃに絡められた神経は、まるでその己の身から新しい生物を生み出すように、血液の暴走、脳の混乱、肉体の痛哭、本能の拒絶が侵入してきたそれに絶対的な忌避感を感じた。

 しかし、どうすることもできないような『赤い』それに、ゼアという構造を『何者』かに変革させようとして。


「――……クソが……クソがぁァアアアアアア‼」


 狼の『血』が叛旗した。その身に流れる唯一の存在の照明、途絶えてはならないゼアの血筋が『とある少女』を想起させてはゼアの利己心を促進させ、纏わりついてくる赤い光子を腕で薙ぎ払った。


「おまえ……っ?」


 地面に膝をついたグランダルナなど一切気にも留めず、薄い煙を吐くゼアの身体は忽ち狼人族ウェアウルフの姿へと変化していく。身体の一部が毛深く鈍色の髪の合間から尖ったオオカミの耳が現れた。一つの枷を解き放ったゼアは悪霊を振り払うが如く魔物にも勝る咆哮を轟かす。


「ウォオオオオオオオオオオ――ッッ‼」

「あはっ!実に面白いさ!狼人ウェアウルフたちの血はよく知るボクだけど、聖狼ルー・ガールの血をボクは知らない‼いやそれ以上に嗚呼ッ‼想像を絶する力を感じるさ!いいね!ボクは君を欲しくなるさっ!」

「黙れ愚図ッ。人の命を弄ぶしか能のない貴賤者。ここで今すぐ貴様ァを殺してやるゥッ!」


 戦意高々ゼアは潜めた激情で胸のずっと奥から銀の眼まですべてを滾らせ、鋭き爪牙は悪魔の首、胸、胴、間接、魔石を狙い定める。

 己に絶対的殺意を向けてくる戦士との巡り合いに悪魔は久々の高揚感を感じ、その口はよく回りだす。


「いやはや。最近はボクを見れば皆一同に逃げるか怯えるかなんだけど、君と『死神』は違うみたいだね。うん!それでいいさぁ!ボクはね!ボクの野望のためにみんな等しく死んでくれたらそれでいいのさ。でもさ、それだと面白くないだろ?だからさ!――君のような愚者がいることを心から歓迎するさ!嗚呼っ!君の威勢が崩れた時の絶望の顔はどんな魂血いろをしてるのかな楽しみさァ‼」


 イカれている。狂っている。正しく悪魔的思考に気圧されそうになる。

 かつて人の身であった目の前の悪魔は今や人間という意義を持ち合わせていない。思考だけではない暴力的な力も残虐を喜ぶ感性もエゴと理想の化身であることもすべてが人間とは遥かに違う。言語と形と声質に三大欲求の有無。それだけが元は同じ人間なのだと知れるだけ。今となれば知れるだけで意味は存在しない。

 悪魔は世界の絶対的な敵であり、悪魔討伐は世界の悲願。誰もが求め願う絶対の壁。

 濁った金髪の美青年は惑わされず正しく『悪魔』だった。その頭部側面左右から獣の耳のように生える二本の黒い角が何よりの証拠であった。

 ゼアは忌々しいとどこかの死神のように憎悪を滾らせ、俊足しようと腰を屈め。

 悪魔は微笑む。


「君たちの死は光栄の極まりさ!」

「黙れ――ッ!」


 俊足したゼアは大地を蹴って一気に滞空する悪魔へと迫撃した。逆手持ちのナイフを左斜め上に振り被り、穿ち殺す勢いで振り下ろされる。ゼアの一撃は赤い薄い膜ベールによってあと少しのところで阻まれた。


「ちっ……ぁあああ!」


 ナイフを下に滑り逃がし、大きく振りかぶった左手のナイフで追撃する。しかし結果は同じ。斬撃は赤い薄い膜ベールに阻まれ悪魔の身に傷ひとつとしてつけることはできなかった。それでも押し込まんとするゼアを愉快気に見つめる悪魔は掌を天井にかざし不敵に口元で弧を描いた。


「それじゃあボクには届かないさ!」


 かざす掌の上に浮かび上がる赤き星。赤星は悠然とその身を回転させ、瞬間、光が瞬いたと思えば血液で形成されたかのような棘の乱射がゼアへと一斉に放たれた。空中で身動きできないゼアは懸命に防壁から身体を弾き返し地上へと後退するが、棘の驟雨は容赦なくゼアを撃ち抜く。


「ぐぅっ……がぁっ⁉」


 両腕を交差して耐えきりながらもその身は地面に吹き飛ばされ、岩板を削りながら身体を跳ねさせて宙へ後転とともに離脱する。衣類が裂かれ墳血が見える腕を払い膝を曲げて着地。見上げれば再びの血棘の到来に弧を描くように右へ駆け出す。狼の脚力を持って追従してくる血棘を背後に疾くその身体は走り、壁際に染まった瞬間に一つ速度ギアを上げ内側へと加速する。突飛な行動に血棘は対象を見失い慌てて探すがもう遅い。

 全速で悪魔の真下近くまで迫ったゼアは大きく跳躍して背中を大きく逸らし再び悪魔へとナイフを振り下ろす。


「死にやがれぇえええええッ‼」

「動物の行動は単純極まりないね。ボクをあまり舐めないことさ」


 赤星が発光すると同時に防壁が境界を隔てる。振り下ろされたナイフと阻む薄い膜ベールが衝突し、それは奇しくも同じ現象を起こすことはなかった。

 月光色に発光するゼアの持つナイフの刃が薄い膜ベールに僅かな亀裂を走らせた。それは欠片が割れるほどの小さな傷痕。しかし、亀裂は広がり薄い膜ベールは甲鉄のガラスを金槌に打ち付けるみたいに坩堝を深くしていく。


「⁉これは……君、面白いものを持ってるじゃないか!まさか魔力を喰う牙か?」

「貴様に答える義理はねぇぇーーっ!。兎に角にも死ね。死んだら教えてやらァアアア!」

「ふっフハハハハハ!君は最高さァ!あの一瞬にもう違う手を考えていたのかい?相当な場慣れをした戦狼!やっぱり君は素晴らしいさ‼ボクは君が欲しくなったよぉ‼」

「黙れ悪魔ッ!気色の悪いことを喜々と話すなァ。貴様は俺らに殺されりゃいいんだよォ!」


 魔力を喰う牙のナイフは悪魔の薄い膜ベールを噛み砕き崩壊させた。ガラスが砕ける音と舞う魔力の欠片の中、次のゼアの一手を愉快に待ち望む悪魔は赤星を発光させて――


「あー俺もいんだけど……忘れてくれるなよ!」


 そんな気怠そうな声が背後から耳朶をくすぐったと思えば、風を切って投擲してきたワイヤーに悪魔は羽を上下させ咄嗟に右側に身体を捻るがワイヤーの先端、槍の先のよう尖った爪が悪魔の腕を切り裂いていき天井に突き刺さった。


「――っ⁉」

「アレ避けるとかマジもんでヤバもんだろ」


 ワイヤーを収納するための術か天井に突き刺さりビクともしないワイヤの持ち手、振り返り見下ろした悪魔がみたのはワイヤーに身体を引っ張られ突貫してきた男の姿。男は舐め腐ったような軽率な言葉を吐きながら悪魔に左の拳を放つ。純粋な力の申し出。

 しかし、悪魔の方が瞬時行動が速く赤星から放たれた巨大な一槍の襲来が拳を相手取る。純粋な力の拳と悪性の集いし槍撃が有無言わせず衝突した。激流が走り衝撃がダンジョン内を震わせ辺り一面の脆弱な岩石を粉砕しては薙ぎ払う。複数の魔法陣と魔族たちが集う広場は結界が張られており赤い壁が衝撃を防ぐ。

 激熱する競り合いに哄笑する悪魔は。


「奮闘する君にプレゼンをあげるさ。なに、君の死が一瞬でも早く楽になるようにボクからの慈悲さ。丁重に受け取ってくれ」


 それを慈悲と呼ぶのなら女の子に罵倒されるのが慈愛になってしまうほどに、その名は殺人と呼ぶに相応しい。慈愛を込めたプレゼントとして更に二つの槍が創造され振り下ろされた手に倣うように投擲された。


「おい⁉待て待て待てっっっ⁉」

「待たないさ。君の死はボクが将来大事に育んであげるさ。だからさようなら」


 慈愛と言う名の無慈悲な槍の二双が加わり、グランダルナは三本の槍撃に巻き込まれダンジョンの壁を貫いてその場から退場となった。

 並みの魔法じゃ破壊することなど不可能なダンジョンの壁を貫く一撃など人の身を容易く粉砕崩壊してしまうことだろう。悪魔はそうだが、誰が見ていてもグランダルナの死は確定的だった。あれを受けて生きているとすれば何等かの魔法やスキル、人ならざる強靭的で甲鉄な身体を持ってるかだ。その仮説は事の成り行きでいずれわかること。

 もしも立ち上がったと言うのならグランダルナは悪魔の眼につけられ、ゼアのように愛される。

 悪魔はそんなあるかどうかわからない未来を愉しみに笑みを浮かべてたその時。

 なぜ?……そう悪魔は思わずにはいられなかった。

 悪魔はかつては人間だったこともあり人間の習性をよく理解している。

 悪魔が歩んできた時代の中、どれだけ人間と交戦してきたことか。どれだけ殺し。どれだけ愛で。どれだけ利用したことか。

 故に習性を知っている。人間は死に敏感であると。特に仲間の死には一層過敏に反応を示し、それこそ感情を捨てた大切なものなど何もない極一部の人間でない限り意識はその者へ奪われる。

 悪魔は確信していた。狼は男の死を見て放心すると。どれだけ憎悪を猛らせ殺意に埋もれても男がただの付き添い人でしかなかったとしても、それでも意識のどこかに完全な隙はできる。

 悪魔は好きだった。失った時の人間の顔が。そして死に晒されると理解した時の絶望の顔が。

 だから悪魔は愉しみだった。殺す殺すと威勢があった狼の絶望していく表情を見るのが。見れなくともその心の隙間を付き、死の味を味合わせ絶望をさせ屈服させることが。


 悪魔は勉強が終わり遊びに出かけようとする子供のような無邪気な笑顔で振り返り――その声を聞いてなお理解するには遅すぎた。


 グランダルナの姿が槍に攫われ生死の分水嶺を眼にした次の瞬間、一歩遅れて狼に視線を向けようとした悪魔の視線の先、彼我の距離は空中と地上とあったはずの確かな光景はゼアの跳躍により彼我の距離は五メルもなくなっていた。

 構えられた牙のナイフ。その眼は男の生死など一切に億尾にせず感情にも為さずただただに悪魔を殺すことのみに支配されていた。ゼアの怜悧な銀眼は最初から悪魔しか見ていなかったのだ。

 驚愕の悪魔を滑稽と想いながらゼアはナイフを穿つ。


「死にやがれ糞悪魔ァ――ッ‼」


 悪魔が耳にした一音はそれだった。単純な死の宣告。獣の内なる本能。野生の狩心。魔力を喰った牙のナイフは間髪入れず悪魔の首を撥ね、膨大な魔力の奔流が身体ごと握りつぶした。

 魔力の暴力が悪魔を喰らい殺す。そう、殺したはずだった。そんな感触があった。なのに、跳ねた悪魔の顔は赤い煙を噴出させ灰も残らず赤星へと吸い取られていく。


「なっ……⁉偽造か!」


 地面に着地して空を見上げども消え去った魔力の暴走は赤い煙を吐くだけで、血の一滴肉片すらも地上には降り堕ちない。


「どういうことだ?あれは偽物?なら悪魔はどこにいやがる……。違う、まさか――」


 ゼアはとある可能性に気づいた時には既に遅かった。

 そもそもここに辿り着いた瞬間から勝負は決していた。

 悪魔と戦う必要もなくゼアの行動は無意味に終わる。

 猛烈な数百の魔法陣の燐光。広場の最奥から悍ましく雄大なマナの気配。唖然とするゼアを嘲笑するようにそんな声が届く。



『時は満ちたさ。さあ、支配の時間だァ‼』


「クソがぁアアアアアアアア!」



 まるで炎の海のような光景の中、魔族たちの歓喜が打ち上り、天井から反響する悪魔の嘲笑に舌打ちをしたゼアはとにかく走る。魔法陣の合間を抜け、魔族になど構う暇などなく駆ける駆ける駆ける。広間の最奥。悪性の根源。偉大なマナの暴走的な変革の兆し。


「クソがぁ!……っふざけるなァアアアアアア‼」


 狼は風を切り光を払い赤を薙ぎ声を打ち消し駆けて駆けて駆けて――その牙が最奥の装置へと肉薄せんとした瞬間。


『君の負けさ』


 それを死の宣告と誰かが呟いた。


「狼ぃぃ⁉」


 誰かの声がした。知っているけど別にどうとも思っていない男の声。

 爪が牙がナイフが届く前にゼアの視界は光に塞がれる。ゼアが最後に見たのは赤黒く輝く奇怪な装置。そして、こちらに振り下ろさんとする巨大な腕だった。光がゼアの視界を包み込んだと同時に腕は降ろされた。

 恐らく一秒未満でも早く走りだしていたら、その身は抉れ半壊していたことだろう。

 ただ最後に見た魔物の脅威を刻み込められながらゼアは魔族たちと共にダンジョンから姿を消した。


 取り残されたのは負傷したグランダルナただ一人。広場の最奥から劈く魔物の咆哮。それはドラゴンとは比較にならないほどの脅威。

 その赤い眼がグランダルナを捕えた瞬間、男は来た道へと走りだした。


「ヤバいヤバいヤバいッ‼あれはヤバいッ‼」

『キュァアアアアアアアアアアンンンンッッッ‼』


 不吉な魔物の産声がダンジョンすべてを震撼させた。

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