第11話 可愛い子には旅をさせよ
「これでよかったのか?」
そこは王宮最上階の一際大きな部屋に位置する大窓を揃えた一室。アーテル王国の国王ザッツル・テン・アーテルが国務に勤しむ職務室だ。
老躯とは思えぬ鍛えられた体格にストレスが原因なのか、白髪と隈が色濃い厳格然としたザッツルは大窓から国中を眺めながら背後の気配へと投げかける。
「この行動に意味があるようには思えぬが……」
そもそもザッツルは乗り気じゃなかった。それでも、これがいつか国のため、正義との盟約のためになると説得させられてあの怪文を【正義】の手へと送らせた。
齢五十は当に越え、六十に後数年で到る身である彼からすれば、セルラーナ・アストレアは孫同然だ。アーテル王国と正義の女神アストレアとの間には何千年にも渡り盟約が交わされている。
かつて冥界の砦、北の大地を守護しては冥王ヴェルテアの恩恵すらも授かっていた彼女たちと王家の親交は時を得ても変わることはない。
生まれた時からアストレアたちと交友を持ち、成長するに連れかつての
セルラーナの母や父のことも。その親のことも。北の正義の主都が滅ぼされたことも。そして、女神アストレアがどこへ旅立ったのかも。
現状の【アストレア・ディア】を憂いる彼に、その者の言は事実救いに近かった。
「死神との邂逅で何をもたらすというか、ヘルマ・メリクリウス」
ヘルマ・メリクリウスと呼ばれた男はふっと笑みを浮かべ、腰掛けていた机から身体を離した。
白髪に黒のメッシュが入った髪に精緻な顔立ちは好青年に見える。碧き慧眼と掴みどころのない笑み。窓ガラスに映るその人にザッツルもまた目を細める。
「簡単なことだ。――彼女は知るべきだ。【死神アウズ】とはどのような人物であり、彼女自身が引く軌条がどれだけ虚しいものであるのかを」
「正義の奔走を虚しいと申すか?オマエの考え方は異常だ」
「違うね王。君こそ真実を捻じ曲げている。いや、気づかない振りをしているのかな」
「…………戯け。今の正義の在り方も一つだと考えているだけだ。オマエの思慮は過去に依存している」
ヘルマはまーねと道化のように身体を揺らし息を吐く。だが――
「すべては過去により現在は存在する。『正義』の真髄は『始まり』にのみ基幹がある」
「…………」
「現状の【アストレア・ディア】……いや、セルラーナ・アストレアでは英雄たちの帆にすらなれない。彼女の『光』では世界にのさばる『闇』には抗えない。これは一つの
「…………故に〝死神〟か」
ザッツルは得心いったと奥歯を軋ませるが、欠片も納得した顔ではない。やはり王であれ人である彼にヘルマは親心の眼で見つめた。
「ああそうだ。死神アウズの掲げる『悪質』は僕たちが知る『悪』とは形が違う。人間の悪魔などと嫌われた彼だ。理不尽にして身勝手な悪質を知ることで、彼女の正義が一層形を生み光を強めることを僕は願った。彼を知ることはセルラーナにとっていい経験になるはずだ」
ヘルマの言い分はこの上なく正しいのかもしれない。この世界の未来を憂いる彼の発想としては相応しい。けれど、やはり親心を抱いてしまうザッツルにはそれが正しいと、口が裂けても言えやしない。
なぜなら【死神アウズ】にザッツルは会ったことがあるからだ。
「…………」
「と、言っても僕がこの物語に介入することが原則ダメなんだけどね。こればかりは仕方のないことなんだ。君を利用したことは謝ろう」
「よせ【旅人】。これも最後の王命に過ぎん。我の命はもうすぐ終わりを迎えよう。世や国を動かして来た王として最後の使命を果たしたまでよ」
悲壮はなく寂寥を覚えどその眼には託す者の光が宿っていた。
ヘルマはそうかと小さき呟き、何かを言おうとしたその時、コンココンと扉をノックする音が響いた。変則的な気持ちの悪い三回の小槌。ザッツルの応答を待たずしてその堅そうな口元を不愉快な愉快の笑みを浮かべ、頭も垂れずその男はズカズカと踏み込んできた。
ダン――っ、と机へ身を乗り出したかと思えばザッツルの首元へナイフが向けられていた。
あと数セルチ、男が詰め寄っていれば黒鉄のナイフはザッツルの首を突き刺していたことだろう。
ザッツルは冷汗脂汗を身体中に発熱させ、喉の生存を確かめるように本能が唾を呑み込む。
「言いましたよね?私に断わりもなく勝手なことしないでくださいって。老害の頭は蟲の巣でしかないのですからね」
知数高そうな眼鏡の男は灰色の髪を掻き揚げ、イラつきを存分にザッツルへぶつける。傍から見れば王に
眼鏡の男へザッツルは一度目を伏せて謝罪した。
「申し訳ない、シュナイゼル」
王の謝罪。どこの誰とも知れぬ不届き者への謝罪。否。シュナイゼルと言う名はこの国の誰もが知る名だ。『王の右腕』にして宰相の席を持つ政治の君主――シュナイゼル・エリトリック。
目の前の男は皆が知るシュナイゼルからは豹変した男に見えたことだろう。
シュナイゼルはザッツルの瞳を奥をじぃーと覗き込み。
「まあいいでしょう。今のところ私たちの目的に支障はでなさそうですしね」
と、ナイフを引き戻しザッツルの命は空気を求めた。
シュナイゼルは片手でナイフを遊びながら不愉快な嘲笑で見下す。
「ハハッ!そうですよ。そう私に従順していればいいいのですよ。私を恐怖し私に膝間づけばいい。こんな快楽を得られるならこの身を授けてよかったと思いますね」
「…………餓鬼の妄言など反吐がでるわい。貴様の野望がなにかは知らぬが、我が認めるここギルド国家にて貴様など直ぐに討ち取ってくれよう!」
「ハハッ!よくぞ毎度毎度吠えますね。ほんと、痛い目みないとわからないってあんた馬鹿ですか?いえ、馬鹿だな」
シュナイゼルの狂気の眼差しがザッツルを穿ったと思えば、ザッツルの顔面は勢いよく机に叩きつけられた。
「がばぁぁっっ⁉」
「ほらほら痛いですよね。痛いでしょ!もっと痛くもできるんですよ。だからね。あんたは私に従っていればいいんですよ」
「くぅっ――がぁ――っ!」
「あなたが敵意を見せたのはこれで何度目でしょうか?まー寿命がもうなくて焦ってるんだけだと思いますが、決して変な真似をしないでくださいね。そうすれば、みんな仲良く過ごせますから。この世でかは知りませんけど」
「―――っ!」
ザッツルの顔面を押し付けて擦りつけるシュナイゼルはハハッと笑みを吐いて手を離す。ゲホゲホと激しく息を吸って吐くザッツルは顔面に走る痛みに堪えながら、その眼は決して屈することはない。だが、その口はそれ以上開かない。
シュナイゼルにとっては恐怖しない眼など不快で仕方がない。
「本当はですね。もっと痛みつけて恥辱に晒し、民衆を一人ずつ殺すショーなんかもしてやりたいのですが、あなたの外面に傷があれば怪しまれるのでこれくらいにしておいてあげます。まーあなたはその心臓が痛くて痛くて仕方でしょうけど」
そう言い残してザッツルは嗤い、扉へ足を向ける。
やっと解放されたと安堵するザッツルの心を読んだかのようにシュナイゼルは足を止め振り返り。
「あ、そうでした。私は王に訊ねたいことがあったのです」
まるで王を慕う従順な侍従のようににっこり笑顔で――
「誰かと話していませんでしたか?」
「――――」
肝が冷える。まるで盗み聞きされていたのかと疑っては焦ってしまうほどに。けれど、ザッツルはシュナイゼルに脅されているとは言えこの国の国王。この程度のことで動じることはない。故に。
「さてな。我はずっと一人で作業しておったが、貴様には何が聞こえたか?」
冷戦的な視線が衝突。
「喰えない爺ですね」
そう言い残してシュナイゼルは今度こそ王室を後にした。
「…………」
もうここにはいない【旅人】と、どうしようもない不甲斐なさに痛む顔を腕で覆って天井を仰いだ。
「我はどうすればよかったか……」
自問に答えてくれる者など、ここにはいない。
王の心臓は訪れる『何か』に対してか、心臓の痛みは何倍にも膨れ上がり、視界のずっと奥、意識の底は赤い世界を幻視した。
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