第9話 正義の眼 黒い蝶

 静かな夜だったと記憶しては、目覚めの朝だと新緑の美しさに目を奪われた。そんな曖昧な青い空の狭間で、彼女は『その者』に出会った。


 静かな森の奥、漆黒の竜の頭を撫でる精霊のような人がそこにいた。


 夜明け前の仄かに昏い碧に染まった群青の髪は腰辺りまで伸び、黒の衣で覆われた袖口から伸びる腕の手首から先は白く細くだけれど女性らしさとは違う精緻で精巧な美しさがあり、女性としては一六六のセルラーナよりも高い身長のその人は、容姿は女性と思えるのにどうしてかそうはっきり『女性』と判断できなかった。そんな人が竜と世界を一つにしていた。

 ドラゴンの鼻がぴくりと動き、その赤い眼が彼女の眼と重なり合う。漆黒の体躯が首を持ち上げ、竜の視線の先へとその『人』は振り返る。


「ぁ……」


 儚いほどに美しい。


 精緻で綺麗な顔立ちに怜悧な紺青の瞳。中性的な相貌はなぜか性別を与えてはならないと、どうしてかそんな考えがふと頭の中に過った。

 ただその人で完成しきっている美に、心を容易く奪われは次にはセルラーナの全身が見えない圧に背後の闇へと突き落とされる感覚に陥った。

 馬鹿みたいな妄想に言葉よりも心の温度と風の嘆きの温度だけで、心臓は引き留められ逃げることを許さない。いや、足元が凍りつき逃げることができない。

 それくらいで余生における生と死を混濁させては、その脚を切り離し喉を掴まれる。

 その眼の意味を『冷酷』と理解する。


「…………」


 沈黙が流れ息を吸って吐くことさえ、阻まれた。極限の白と青の満ち足りぬ世界の隅――中心で人と竜は彼女を見定める。


 音が満ちた。色が木霊した。感情が波紋した。


 かの者の瞳が凛と、それは美しくばかりに鮮烈だった。紺青の眼のはずなのに、彼岸花リコリスのような紅の眼を擬似してしまう。


「――――」

『お主……その生血いろ……』


 竜が喋ったという事実に馬鹿みたいに大きく瞬きを二度三度とする。けれどよく考えればなんら不思議なことはない。竜はセルラーナの思考を読んだように応えた。


『我は龍人族ドラゴニュートではないが、それに近しい存在である』

「……あなたは、竜種ドラゴン……言え違うわね」


 竜種ドラゴン……それは魔物と同じルーツの異常種にして奴等の頂点に到る危険種。目の前の『竜』は浅く息を吐いた。


『その眼は知っているようだな。しかし竜魔種ドラゴヴァイスとは同郷するではない。意味を違わず理解に及ぶと言うのなら、その光の刃を下ろしてくれることを求める』


 その一言一句。記憶と噂と歴史に基づき、セルナは徐々に警戒の糸を少しずつ緩めていき、剣の柄に触れていた右手をゆっくりと放す。


「……」

『我を前にしながらも動く思考。なかなかの英傑であるか』

「さぁどうかしら。恐怖を感じないイカれた女かもしれないわよ」

『戯け。そのような者は向こう見ずにその刃を抜いたであろう。心のないものは自己完結している者のことである』

「……」


 改めて敵愾の意思はないと判断したセルナは無言で密に編み込んでいた魔力を霧散させた。最終忠告に応じたセルナに竜は「よろしくて」と頷き、ここにどちらの存在の立場が上であるのか、定められた。だとしても、セルナがみっともなく頭を垂れるなどあるわけがない。

 戦意はない。しかし闘争心は胸の中でいつだって炎を揺らめかす。いつだって大衆の前で毅然と正義を示しているセルナはこれしき億尾するような脆弱ではない。

 これまでの人生でどれだけの修羅を乗り越え、どんなに恐ろしい者どもと命を賭して勝ち抜いてきたか。【正義】セルラーナ・アストレアが怯えるものは過去にしか存在しない。故に竜など無視して隣に並ぶその人に問いかけた。


「それで、貴方はどうしてこんな森の中にいるのかしら?」


 少年か少女かわからぬ冷たい美人……いや、その儚き戦士は眼を微動し、神格な竜ドラゴンは高尚傲慢正義の剣の意思に恐れ入ったと笑みを吐く。


『……アハっ!貴様なかなかどうして小娘であるかっ!』

「そう、見えるかしら?その人よりはお姉さんだと思うのだけど。いえ、神話の竜あなたから見れば確かに私など小娘ね」

『アハハ!愚問。此奴などより立派なものか。しかし、我らからすればまだ浅いとしか言えぬが生き様を問われたのなら大したものと賛美を贈ろうか』

『それは光栄ね。……けれど、その人は違うと?』


 ただセルナを見つめるその少年か少女かわからぬ存在は、何を考え何を思っているのか何一つとして読み取れない。神や悪魔を前にした、またそれとも少し違った異質さにセルナは人知れず額に汗を浮かべた。


 ――死神を見定めろ。


【死神】――五年前に突如として現れた死を纏い血溜まりに咲く赤き黒い花の異名。

 奴は魔族を狩る者にして死を振り撒く者であり、理解できない者。


 人々は奴をこう呼ぶ――〝人間の悪魔〟だと。


 死の理を司る唯一の女神、『死神アウズ』の名を〝忌み名〟として与えられた戦場の黒い蝶クロユリ


 セルナは持てるすべての観察眼と経験則、純粋と邪推の二つのフィルターを持って事に聞く容姿と違うその人を見つめ――

 紺青の瞳が僅かにセルナの青金のずっと奥を見つめ返した。

 静寂が一度。時は音によって再開する。


「君は――」


 その声音は静かだった。そして、人間の声音だった。


「何をしにここに来た……?」


 セルナの心臓が動きだした。躍動して動揺して振動して起動して――鮮花を蘇らせる。

 それはセルラーナ・アストレアが強さを求めた原点にして【死神】を初めてその眼で認識した鮮血の死闘こと。

 セルナは息を忘れ、だけど直ぐに思い出し、あの日見て噂に聞いた髪と瞳の色が違う目の前の人の問いに巡らせ。


「……貴方を見定めにきた」


 そう率直に真相を告げた。

 見えたのは困惑。次には剥き出しの警戒。そして潜考せんこう。見極めようと眼光はより一層闇と光に沈んでいく。


 彼らはセルナが何者であるのか知っていた。そもそも死神の問いこそが正義への問いだったのだから。

 黒と青を基準にした戦闘服に正義の紋章が描かれた白の袖なしマントに似たローブ。青銀の髪と青金の瞳を逆にすればそれは【正義の子孫】の証。

 竜を前に恐れない精神力と人目でわかる強者のなり。腰に佩く剣の鞘にも正義の紋章が彫られており、その美貌容姿、なにより雰囲気そのものが圧倒的な正義の女神の血筋を濃く香しく脳に光の名を刻み込んでくる。いや、一致させた。

 彼らは知る。その者こそが正義の女神の子孫。正義の眷属アストレア・ディアの隊長であることを。

 そしてそれはセルナも同じこと。手紙の内容なくして、それでも姿を収めて声を聴いて雰囲気オーラを感じればセルナの中にあるそれらの記憶と一致する。


 理性と知性、自我がある竜種ドラゴンを統べる白髪の女。

 只ならぬ雰囲気を纏い、触れれば真っ赤な花びらがを咲き誇らせる。

 それらは灯火の終わりように咲き散らす死者の代行者。

 儚さと道連れする死神の意思。生と死だけが如実となる輪郭。その輪郭こそがその人の纏う異質であり【死神アウズ】である証明であることを。


 セルラーナ・アストレアは頷いた。

 【死神アウズ】とされた者は冷酷に凪いだ。

 竜が嗤う。


『脆く瓦解寸前の小さき欲望で我らを見定めるというか。その偏った裁定の瞳で』


 正義は告げる。


「その考えこそ偏見の類よ。確かに私たちは一度敗れたわ。みんなの言う通り、正義は堕ちたのかもしれない。けれど、今なおその灯火が消えることはないわ。正義は船首となり帆とならん。私たちの光は未来にあるのよ!」


 死神は嘲笑う。


「正義の根源は悪の断罪だ。それを捨てると?」


 死神の罵声に正義は意志で迎え撃つ。


「勘違いしないで。正義は悪を滅し平和をもたらす象徴よ。この剣はいつだって決まっているのよ。誰の命を斬核するのか」


 故に、死を与える者は選別し、失望する。


「なら君はどうして俺に


 そう、その者が本当に【死神】ならば、その人は〝人間の悪魔〟――『悪』であるのだ。

 なのに、だけど……【正義】は威圧的に笑って見せる。


「言ったでしょ。――噂の悪人あなたを見定めにきたと」


 正義の本髄は悪を裁くことにある。

 もともと悪という害が存在し、世界の危機なるそれに対抗排除するがために正義が産まれた。理、秩序概念から見れば本筋は違うが、いつの時代どの場所でも悪が産まれそれを断罪することによって正義が産まれる。

 逆説的に言えば正義は悪を滅ぼすために存在し続け、正義とは本来意味の孕まぬ理想の象徴。けれど、『具現の悪』ゆえに『虚像の正義』は『真実の正義』として産声を上げる。

 対極にして永遠の連鎖。その本髄はこの時代、二人の間であっても変わりはない。


「私は貴方のことを何も知らない。……独裁者になるつもりはないわ」


【正義】は【死神】が悪であるのかを定める。悪であった場合、正義は産声を上げ光が闇を断罪する。その逆も然り。

 正義は定める。真実を見つめる。

 だからその瞳を愉快と竜は嗤った。


『共存でも目指すつもりか?人、もとより悪魔や神にさえ慄かれ忌み嫌われているこいつを正義の娘キサマが許諾すると申すか?』

「……真実は私の眼が制定する。今は利用……とでも言えばいいのかしら」

『ほざけ。貴様の真髄はアストレアに直結する。いくら貴様が一人の女の子どもおなごであれ、恩恵とは正しく福音であり同時に呪縛そのもの。正義の血統である貴様にその道を歩むことはできまい』

「空論よ。でも真実ね。それでもと、私が求めることは悪いことかしら?」

『はっ。アストレアも地に落ちたものよ。こんな変わり種しか生かすことのできぬ貞潔など奴の底は知れるというもの。貴様では女神の『悲願』にはとど――』


 竜の文句はただ一風の刃によって先は紡がれなかった。抜かれた白き剣。剣は竜の喉元に向けられ、セルナの瞳はこれ以上ない激情を宿していた。


「アストレア様への侮辱、大罪に値するわよ」

『主神だからか。我はあ奴と何千年前からの知己よ』

「マウントを取って来る辺り貴方の底が知れるというものね。斯様な人間の戯言すら流せない狭量。貴方の片想いでしょうけどね」

『言わせておけば――ッ。喰い殺してやろうかァ』

「黙りなさい。アストレア様の侮辱を許されない。ここで相手してあげるわ二度目の敗北を思い知らせてあげる八竜王ドラグテインが一竜――『冥王ヴェルテア』」


 今それは世界の神秘を解き明かしたような、もしくはパンドラの箱を開いてしまったような、そんな感覚が世界の風に流れ空気に伝染する。

 かの竜の『名』は震えを許さない。

 かの竜は己を知りながら愚かに剣を向ける【正義】に、嗚呼おもしろいと怒りと好奇と殺意に咆哮した。


「おいヴェルテア……時間がないことを忘れたか?」

『なに、直ぐに終わらせてやる。正義の娘、貴様の英姿は愚直のそれではない。驕りのそれだァ!』


 ヴェルテアと呼ばれたかの竜は、その名に相応しい『暴君』を見せつける。


『ゥオオオオオオオオオオオヴヴッッ‼』


 ヴェルテアの爪牙が暴風すら切り裂く勢いでセルナに降ろされた。


「はぁああああああああ!」


 それにセルナは真っ向から剣を振り上げた。

 水流のように螺旋を描いて昇る光と、全てを砕かんする星の到来がぶつかり合い、白熱と白夜をもたらし銀環が波紋した。

 音が跡を追い、光が轟き、それらが意味を作る時、剣と爪は再びぶつかり合う。

 豪風が森を荒らし自然を脅かす。

 セルナはふうーと胸いっぱいに息を吐き、暴君を言わ示し古代の冥界の覇者からいっさい目を離さない。

 ヴェルテアが見るは笑ってしまい想起してしまうような純正にして輝かしい青の眼光。その瞳を見れば理解する理由がわかった。


 彼女こそが【正義】だと。愚かな純正の民だと。


 ヴェルテアの咆哮が劈く。セルナの威勢が熱を発する。


『灰となれ‼』


 蓄積していく魔力の暴力。口へと収集された膨大な魔力は破壊のエネルギーとなって放たれる。山一つ砕かん暴力の放射物。一瞬にしてセルナの視界はエネルギーの渦に包まれ――


「貴方の攻撃は知っている」


 セルナはなんの迷いなくその魔力の蓄積と共に深く膝を曲げ、放たれ全身が熱に炙られ呑まれる寸前、空高く跳躍した。

 破壊の音は擬音では表せられない。山を一つ抉った。そう言うしかない地上を見下ろして、宙を舞うセルナは風に身体を任せながら標的を定める。

 ヴェルテアの眼光がセルナに向く。しかし、その身体は動かない。インターバル。膨大なエネルギー消費によるノックバック。それはセルナにとっての一度の好機。


「きっとあの人なら真向から立ち向かっていたでしょうけど、これはただの喧嘩。ただ私の力を示し貴方に謝罪させるもの。私が貴方に抱いた人柄は嘘じゃないはず」


 一瞬だけ煩わしそうに見守る『あの人』に視線を送り、セルナは宙で右肩を引き左肩を前に剣を横に構え穿つように。


「【正義の剣に誓いの光を】」


 短縮詠唱が奇跡の光景を綴っていく。金色の粒子が剣に渦を巻きそれは世界に触れ魔力は奇跡の具現を作り出す。


『過信は見えている物すらも歪めるであろう。貴様の文句、甚だ傲慢だァ』


 ヴェルテアが動き出そうとする寸前、セルナは魔力で作った足場を蹴り急降下。

 そして正義の魔法の名を叫んだ。


「【エウノミア・ルウ】――‼」


 叫びと共に魔力は魔法へと到り、ヴェルテアへと向けて突き出された剣はまさしく聖剣の如き。眩い魔法の剣はその巨体を吹き飛ばさんと穿たれた。


『ゥゥオオオオオオオオオオォォォォォ――ッッッ‼』


 初動はセルナが上回った。剣の光がその鱗を貫き肉をくべる。しかし、剣の先端が肉へと到るその時、防壁が割り込んだ。

 圧倒的純然な暴力の防壁と正義の血を受け継ぐ純正の剣の一撃。


「はぁあああああああああ‼」

『ゥゥゥオオオオオオオオオオ‼』


 正義と竜は咆哮した。

 力場が荒れ狂い大地を脅かし明暗を繰り返す。

 魔力の唸りが複雑に絡まり合い力の焦点から莫大なエネルギーが産まれ視界のすべてを呑み込んだ。

 天に昇る魔力の奔流と大地を丸く覆うエネルギーの領域。破壊の音を立てて光はドームを作り、やがて山の奥に太陽が沈むように消えていった。


 その戦場の真ん中、ヴェルテアとセルナは互いに距離をとって体勢を整える。

 ヴェルテアは魔力が淀む息を吐き爪で地面を抉る。

 セルナは肩の位置に両手で剣を持って構える。

 その一挙一動の一触即発を見ていたのは傍観している死神のみ。

 ただもう一つ。そいつらはその魔力のぶつかりに引き寄せられてきた。大地に蔓延る人間の敵にして世界の絶対悪。

 その襲撃を三人とも感知した。


「あれは……!」

『魔族か……』


 森の奥、空の上を黒く覆う魔族の大群の襲来。奇怪な叫喚と血盛んな狂気の赤い瞳。それは目の下の獲物を狙う獰猛な食事の飢え。

 自然を揺るがす数多の応酬は当たり前のようにセルナたちへと欲望を向けられた。

 瞬間、死神は動いた。彼らが中心に囲むように群がってきた黒の軍隊に青い亀裂が入り、黒の叫喚が合図となった。


『キャっキャキャ、ギャキャキャキャギャギャギャァアアアッッッ!!』


 戦闘音に人間の匂いに惹きつけられた魔族の大群が欲望のままにその身を光の下に晒した。

 しかし、その光は青を包んでは黒を浄化する。瞬間の死に唖然とする魔族は理解できない空っカスの脳で食べ残す。


「死ね」


 そんな端的な一言が如実に未来を決めつけた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る