第5話 惨劇の始まり
人類紀四九七年――〈プロセルピナの暦〉二八の日。
正義の使者たち一同はとある東のジュナの森へ訪れていた。
とある行商人が森の道中で魔族の集団を見つけたとジュナの森の管轄を持つアーテル王国へ進言され、調査及び排除を依頼に【アストレア・ディア】は広大な森ジュナの森を歩いている。
「確かこの先の古代集落だったよね」
「そうよ。古代の建築をそのままにした集落ね。……商人の話しでは魔族たちが周辺一帯を徘徊していたらしいけど……」
「魔族の一匹もいないわね」
セルナの言葉に続いたのは
今回セルナと同じ部隊であり【アストレア・ディア】の古株の彼女はセルナからすればお姉さん的存在だ。性格は少し捻くれているが。
「はぁー無駄な脚とか最低ね。これだから人の眼は信用ならないのよ」
捻くれているというか、愚痴まみれな女だ。……うん。
そんなシルヴィアのことは置いておいて、セシーナが首を傾げる。
「それって、古代集落の周辺ってことだよね?集落はどうなの?」
「魔族の数が多かったらしく、行商人は慌てて逃げたそうでそれ以上の情報は何もないわ。情報は事前に共有した通りこれだけね」
大した情報量はないが、近年活発化してきている魔族の活動に裏で悪魔が策略しているのではないかと疑惑が上がっており、事が大きく進む前に情報を手に入れるのに万進状態だ。
しかし、ここ数ヶ月毎日のように魔族の情報が舞い込んでくるだけで、悪魔は形も気配も見せない。勘違いなのかと安易な考え方はできず、こうして頼りない情報でも出向かずにはいられない。
上層部では緊迫と切迫した状態が続き、他国との情報共有や悪魔出現時による対策や対抗における協力体制などの議論が慌ただしく右往左往している。毎日のように任務続きでさすがに団員たちの疲労の色が見えてきており、早急に何か対策を考えないと、とセルナは団長として考えながらも、途方もない違和感に冷や汗を流してしまう。
「この森はこんなに静かなものだったか?」
同じ違和感を感じとったらしい精悍な体躯の良いエテオクレスの疑心にセシーナは首を傾げる。
「こんなものじゃないの?」
「それにしても魔物もいないわね。明らかに不自然ね。あー魔物も魔族もいなくなればいいのに」
シルヴィアにセルナは頷く。
「エテオクレス。後方をお願い。ノクスには外での待機と言っておいて。ハルバとアルメリアは中央部隊の支援をして。指揮はガナトンに託しておいて」
「承りました。セルナ様」
「わかったよ!ハルバ行こ」
「…………うむ」
セルナの指示で陣形が変化していく。今回は戦馬は途中で乗り置き、脚での調査。もちろんセルナの愛馬もおらず、愛馬ステラは剣となってセルナ右腰の鞘に収まっている。
木々茂る森ゆえ右翼左翼ではなく、前方中央後方と縦列。それぞれに
前方部隊にはセルナとセシーナ、あと数人の
中央後方と比べて明らかに少ない編成だが、攻撃は主にセルナとセシールと
なんと説明すれど、セルナの心情などわかりきっている。
「私だけでいい、なんて思ってる?」
「…………!」
「わかるよ。だからわたしはここに残ったんだし」
「…………」
「もうダメだよ。わたしはセルナとずっと一緒に戦うし、セルナを一人にしないもん」
「セシーナ……」
「あはは、まーわたしは弱いから支援しかできないし、いざって時はセルナにすべてを放り投げるから!」
いい話しだったのにその言葉で茶番も甚だしい所だ。
思わず大きく息を吐いてしまったセルナの手をセシーナはぎゅっと握りしめた。熱が込み上げ、温もりが満たし、それすらも彼女の瞳の意志の前に弱弱しく感じてしまう。
セシーナの瞳がセルナの胸を突き、次の言葉は世界を欲した。
「セルラーナ――あなたは『正義』よ。だから――光をもたらして」
「――――」
恐らくセルラーナ・アストレアが求めてやまない正義たらん言葉であり、そしてそれは――
「着いたわよ」
シルヴィアの声にはっと前方を見れば聳え立つ集落への壁門。石工で出来上がった建物の頭部が伺え、本当に異国か古代の雰囲気そのものを肌に感じさせる。現代の技術と衰退がまるでない完璧な建築技術。これが数千年前の古代に作られたものなど感じられない。
「初めて来たけど……なんかこー圧巻!って感じだね」
「そうね。古代にはロマンがあると言うけど、少しわかったかも」
そんなセシーナとシルヴィアの感慨はセルナの一歩で掻き消える。
「行くわよ」
「うん」
「はいはい」
セルナを先頭に前衛部隊がゆっくりと先行。敵の気配を感知し、魔力の流れを探り、罠がないか警戒する。
城門を押すとぎぃぃーっと引きずる音が鳴り、けれどいとも容易く門は開いて歓迎した。
「…………」
不吉な予感がこれでもかとひしひし神経を撫でる異様な感覚を感じながら、セルナは集落へと脚を踏み入れた。
…………
しかし、辺りを見渡し感覚、感知、視力、聴覚の限りに探れど情報に聞いた魔族の集団はおらず、それよりも一匹として魔族も人間もいない。
「誰もいないね」
「…………あー嫌ね。本当に嫌な感じよ。帰っていい?」
「ダメだよ!」
二人の茶番を他所にセルナは撤退するか捜索を続行するか思慮した上、不自然さが拭えないままここで撤退するなどできず、中衛部隊にゴーサインを送りながら恐らく集落よりもずっと遠くにいるであろうノクスに連絡用の魔道具の結晶を取り出して連絡を入れる。
「ノクス聞こえる?」
『聞こえます。どうかしましたか?』
「いえ、少しばかり怪しいというところよ。何があるかわからないからノクスはしばらく外で待機しておいて。不審な動きがあればすぐさま連絡か勝手に対処してくれてもいいわ」
『わかりました。私も警戒しておきます。セルナはくれぐれも気を付けて』
「ええ、あとはよろしくね」
そうして連絡を終えると後衛部隊も壁門をくぐり終えたところ。
「やっぱり魔族の一匹もいないわ」
「それと、ここに住んでた人たちはどこいったんだろう?逃げたのかな?」
「それなら、魔族もその人間たちを追っていったんでしょ。ほんと怖いほどに平和ねぇ。やっぱり帰りたいわ……」
「…………」
「へ、平和ならいいけど、魔族がここにいた人たちを追いかけて行ったんなら早く追いかけないと!」
「…………」
「セルナ?」
セルナの脳に疑問が沸き上がる。そう、シルヴィアの言った通り怖いほどに平和なのだ。可笑しいほどに静寂で無音に満ちている。それはおかしいと、状況と情報を交差しては重ね網羅する。
(不正然すぎる。そもそもこの古代集落に戦闘の痕跡が何一つとしてないわ。血の跡も損害も。いくら直ぐに逃げたとしても魔族が攻撃を仕掛けないはずがない。つまり、ここでは何もなかった?商人の見間違え?それならいいけれど、もしも隠蔽されたなら…………。
それに、静かすぎるわ。森でも思ったけれどあまりにも生命の香りがしない。この時代、魔物はダンジョンだけでなく平地にものさぼっているのは普通のことよ。もしも奇跡的にここに魔物も魔族もいない森だとして、ならどうして安全圏に純粋動物がいないの?こんな安全な廃虚に動物が住み着かないなんておかしいわ!やっぱり何か――)
セルナの思考は加速する。疑問が疑問を呼び、それらはすべて巧妙な手口へと繋がっていく。
(つまり、ここには動物たちが近づけない何かがある。それはここに住まう民を消し、魔族の存在を隠蔽し、あったであろう破壊や死体の痕跡を消し去った不可解な存在。それが何者による仕業から知らないけれど、隠蔽を行う理由はなに?バレないため?それならここまで奇妙なままにしていないはずよ。ならどうして?そもそも商人はなぜ魔族を見て……違う。どうしてこんな深く危険な森の中を通った?…………っ⁉まさか――)
辿り着いた。セルナはその巧妙な手口が招く事象に最悪の状態が浮かび上がり、その脚を無意識に止めた。覗き込んでくるセシーナの気配にすら気づかず。加速した思考は導きだす。
セルナは本能のままに叫び声を上げた。
「――撤退っ‼」
その声が届き渡り誰かが反応をする前に、嗚呼――破滅が訪れる。
その『悪魔』の声は悍ましいほどに純正だった。
「さあ!〝明星よ、魂血の呪いに支配しろ〟!――〈
それがあったことに誰も気づいていなかった。
天空に浮かぶ血のようの赤い球体。正しく魂血のそれを想像させ酷似させるそれは赫々と輝き始め、大地に四つの魔法陣が浮かび上がた。東西南北。
そして儀式は始まる。
赤星から魔法陣に向けて四つの楔が伸び、魔法陣と繋がり古代集落は結界に覆われた。
それは進出不可にして『明星の領域』。天空は赤く世界は支配された。
「なっなにこれ……?どうなってるの⁉」
「……!まさか、〈権能〉⁉」
「じゃ、じゃあ……あれって……?」
「うそぉ……?」
どよめく正義の使者たち。混乱と驚愕と畏怖が混じり合い、理由もわからず真髄は忌避感をこの領域に抱く。
魂が冒涜される感覚に何人者戦士がその場に蹲り、嘔吐しては
状況確認、退避確保…………なんて指示を飛ばす前にその悍ましい声は天から降り注いだ。
「さあ!始めようさ。ボクのボクが為す野望の始まりをッ!」
セルナが目にしたのは、腕を広げる白い羽を背中から生やした聖者の衣を纏う青年の醜い笑みだった。
「さあ死ね!死んでボクの礎となれェ‼ボクの野望の邪魔になる君たちの死に場所はきっとここがお似合いさ」
「――悪魔っ!」
セルナの叫びすらも嘲笑うかのように精悍な顔立ちの美青年は慈悲の笑みで歓迎して、刹那、赤星から赤き棘が展開されて領域に降り注いだ。
「ぐぁうああああああああああああ‼」
「――っァァァァァァァァァァァァ⁉」
「やっッッッッ!」
穿つ穿つ穿つ。赤棘は人間に償いも愛も弁解も与えず殺戮のままに絶対死を与える。吹き出る血潮、弾ける肉片、喚声すら上げられず絶声が呻吟する。
「はぁぁぁ――っっっっ‼」
セルナは咄嗟に絶好のスピードで棘に向かって剣を振るった。その光すら赤の前に姿を濁し、希望になり得ない。この領域内は紅雨によって蹂躙された。
「ふふふ、ふはっ!あははははははハハハハハハハハハハッッッ‼死ね!死ねッ!消えろォ人間ども!君たちはボクらの家畜だァ!ボクのために死ね!それがキミたち劣等種以下の豚の使命なのさァ!あははははははハハハハハハハハハハ‼」
そんな悪性が赤一色に染まった世界に響き、止んだ雨の空にそいつは人間ども見下ろしていた。誰もが見上げ、誰かの喘鳴が空気の温度を知らせた。
恐怖と怒気と憎悪の視線を浴びたそいつは、嬉しそうに楽しそうに愉快に笑みを浮かべ、こう名乗った。
「初めまして正義の使者たち。ボクの名はルシファー。天使より堕落した【明星】の悪魔さぁ‼」
「悪魔ルシファー……ッ‼」
エテオクレスの吠えにうんうんと奴は頷く。
「と、君たちと悠長に話している時間はないんだ。なんたってこれはただの序章に過ぎない。いや、君たちを殺す催しさ。だから早速死んでもらおうか?」
それが奴が残した最期の言葉であり、絶望の始まりでもあり時代の巡りを確たるものにする悪性であった。
「バイバイ」
刹那、赤星が悪魔の言葉に共鳴し、その
死んだ者たちの魂が真っ赤に輝きだし、それはおどろおどろしい黒赤に染まりだし死体が立ち上がった。その身体は黒粒子を纏い、その心臓は脈拍することなく、その魂は歪みに
仲間だった者の死体が――エテオクレスの身体を貫いた。
「ぐふぉ……!き、貴様ァァ……」
『ゥゥゥゥゥゥゥゥゥ――ッッ‼』
すべての死体が蘇り、黒粒子を纏ってかつて仲間だった者にその刃を向けた。
友討ち――正義の使者だった者たちの魂は冒涜され、奇跡の所業と思われる屍の上に立っては狂喜爛漫に己の獲物で狩りを始める。
腰を抜かし恐怖に支配さた仲間を無惨に引き裂き、逃げまとうかつての友を焦熱させ、その胸から臓器が垂れ流れ血が噴水の如き辺りを穢し、頭部が拉げ腕脚が散らばり首から上が転がり、絶叫と絶鳴がただ染められた赤よりもなお闇染みて『監獄』を『地獄』と称していた。
その光景を、その仲間の攻撃を、剣で防ぎ目に留め喉の奥から震える何かを吐き出すように、セルナは晒してはいけない眼光を揺れを晒しては声に出してしまう。
「どう、なってるの……?」
本当に何がどうなって、私は仲間を斬っているの?
「こんなの…………悪夢じゃない」
どうして死んだ仲間をもう一度殺さないといけないの?
どうして仲間が虐殺されていく瞬間をまじかで見届けないといけないの?
どうしてこんなにも恐ろしいの?
嗚呼、正しく悪夢。悪夢以外の何物でもなく、答えるのならこれは正しく絶望であり、悪魔の行進だ。
「なんで⁉どうしてッ!」
「セルナっ!」
駆け出そうとするセルナに慌てて声をかけるセシーナの意思は突如現れたそれらによって崩された。
古代集落の奥地からざわざわと雑踏の中のような音が空全体覆いながら近づいてきて。生きている者たちは見上げ、その正体を知る。
「魔族⁉……なんでっ⁉どうなってるの⁉魔族はいないんじゃ――!」
アルメリアの混乱に背後から死んだ仲間が襲い掛かり、間一髪でハルバの槍が胸を貫いて絶命させる。
「はぁーはぁーはぁー……」
「ハルバ……!」
荒い息から様々な感情を抱いていることが心臓の拍動よりなお強く伝わり、泣きそうになりながらアルメリアも錫杖を握りしめる。
空を覆ったのは黒き斑点。奇声の嘲笑だけを常に漏らし続ける人類の敵。魔族と『亡者』は一心不乱に狂戦赫々とセルナたちに襲い掛かった。
「いやぁぁあ!」
「だっ、誰か⁉たすけ――ぐぅふっ!」
「いやぁああああ!しに、死にたくないぃぃぃぃ」
「なんでなんだッ⁉なんで出られねーんだよっって来るなぁああああ――ごほっ……しにぃ、ぃ――」
明星の領域がまるで『監獄』のように、そして彼らは囚人のように外界との接触を阻み阻まれた。
出ることの叶わない、逃げることのできない戦場で仲間の死とその仲間からの攻撃に恐慌に陥り一人、また一人と殺されていく。殺されては悪魔ルシファーの権能によって魂は冒涜され死者として蘇る。
そして仲間だった、友だった者へと刃を向け死を手向ける。
まさに絶望。これ以上の言葉などつけようがない。殺し愛いの連鎖。
そんな最低最悪な戦場を眼に、セルラーナ・アストレアの感情は爆発する。
「ぁああっっハァあああああああああああッ‼」
「セルナ――っ!待ってっ!」
セルナは駆ける。仲間を葬り魔族を殺し、せめて生きている仲間を助けんと、情動に衝動に駆けては血を噴き上げる。
命を奪い命が奪われるのを焼きつけられ、それでも誰かを救わないといけない焦燥に熱されながらその脚はどこか冷静な【正義】の
情動のままに情熱とは言い難い情に【正義】すらも放り投げて、セルナは恐らく初めて自分の脚で戦野を駆けた。
「許さないっ許さないっ!許さないぃ‼」
もはやそこにいたのは【正義】ではなかったのかもしれない。
一人、また一人と仲間が死んでいき。
「待って!死なないでッ⁉い、今、助けに行くからァ――!」
この蹂躙された集落が絶望の沼だとしても――
「ハァァァッっ邪魔っ!私がっ……っ私が今――」
死んだ人間に構う心の余裕はない。今もまさに断末魔が耐えることなく畢竟を唱える。
「やめてぇぇぇぇ――!まっ――――」
セルナの剣が腕が伸ばした指先が、エテオクレスに届く前に彼は複数の亡者によって串刺しにされた。消えていく生気の眼がセルナのなんという瞳を見て。
――そんな顔、しないでください
声にならない唇の動きが空気を振動させて、そんなありうべき言葉がセルナに届いた。
幻想の類。理想の妄想。違う。だって――
「エテオクレスーーーーっっっっ!」
エテオクレスは生命を絶ったのだから。
泣き崩れてしまいそうな震える脚。いつまでも伸ばして手繰って探す藻掻く指先の向こう側。
仲間が死ぬのは初めてではない。だけど、何年も共に戦場を駆け抜け、正義の使者として、そして友として長い時間を過ごしてきた家族のような彼の死は、セルナに空白と暗闇を味合わせた。
しかし、それも一瞬のことだ。この領域において死者は蘇る。どのような奇跡か外法から知らないけれど、彼らの魂は蘇る。全く違う生物として奇跡は起こる。
エテオクレスは串刺しにされ穴の開いた身体を持ち上げ、囚われた
エテオクレスだった者は地面に落とした愛用の大型剣を持ち上げ、放心状態に陥りかけているセルナになんの容赦もなく降り落とした。
燃える眼光に自我はなく、虚ろに激情に殺戮を行う。
セルナの反応が一瞬遅れ、それは強戦士の前に命取りとなる失態であった。故に遅れたステラの剣は大型剣を打ち据えることできず弾き飛ばされ、二撃目の横凪が容赦なくセルナを吹き飛ばした。
「~~~~~~っっっっ⁉」
迅速迅雷の一撃はセルナを集落端の一際大きな建物に練り込ませ、全身に超絶な打撲が骨の髄まで痺れさせては激痛の灼熱が襲う。
「セルナーーっ⁉」
遠くから亡者と交戦するセシーナの声が耳朶を踏み現世に引き留めた。
なんとか身体を起し、激痛に抗いながら揺れる視界はだんだんと鮮明になっていき、ステラの剣がないことに気づきもう一つの愛用の聖剣を抜いて立ち上がる。
セルナが生きている理由は経験の為せる本能と才覚の現れだ。
横凪の一撃は確実にセルナを腹の刃で両断していた。肉は引きちぎられ臓器はミンチに骨は粉々になっていたはずだった。しかし、何千と戦野を駆け抜け生き残ってきたセルラーナ・アストレアは戦いの天才であり、瞬時に渾身の神速をもってしてむやみに集めた膨大な魔力で防いだのだ。けれど、死者から蘇ったかの力は壮絶であり、まるで今までのエテオクレスとは一線を画していた。
「っっ撤退!みんな!逃げてェ!」
そう叫ぶが精一杯。これ以上みすみすと生きている者たちを殺されていくわけにはいかない。セルナの心に残るのは【正義】でも『欲望』でもなく、意地汚いほどの『情』だった。
逃げて――生きて――死なないで――それは無理な話しだ。
セルナの声は戦場においてもよく通り、皆がみな心を苦しませた痛みを覚えながら涙を流してはその地が濡れ染まってしまう前に駆け出す…………ことはなく、怒号が響き渡る。誰かの泣き叫び声。
「出れねーんだよッォ!」
その意味を理解することは今のセルナでは叶わなかった。
「なんで出れないの⁉出してよ!」
「どうなってるんだ……⁉」
どうしてもこうしても、ここは悪魔に支配された『監獄』。悪魔以外の人権は認められず、悪魔の意思のみによって生きることを許される『地獄』だ。
そこからのことは多くは語るまい。
圧倒的な数量の前に彼らは成す術なく命を蹂躙され冒涜され奇跡の代償として征服される。
その地は赤で溢れていた。
その床は臓器と肉欠片で埋もれていた。
しかし、死体は一つとして残らず、『奇跡』によって死者は『亡者』となり
正炎ではなく邪炎。正義の炎は悪性によって穢された。
多くの魔族が領域から外へと放出され、奴等はアーテル王国の方へと飛んでいく。
仲間との殺し愛いの果てに人は精神を病み、みな命を手放していく。
このひと時に言葉として与えるなら『破滅』。もしくは『粛清』。
正義が悪性の前に破滅を迎えた。
悪が正義を粛清した。
ただそれだけの話し。
次々に人は命を絶え、誰でもない誰かは誰にもなれず誰とも知らず立ち上がる。
その一部始終を見ていた『旅人』は一言――悍ましいと吐き捨てるあまり。いや、あまりにもままならない。口にしたくない事象の前に拒絶否定するのが精いっぱいの拙く悍ましく醜悪に駆られた破滅だった。
何が破滅した?――知っている。
――正義の破滅だ。
時間は一時間にも及ばず、三百を超える死地に残るは七人の風然の灯火のみ。
セルナの身体は血だらけに染まり、それが返り血なのか己が流す源であるか最早判断できない。黒と青の服装はその純正を失い、白のマントは赤いマントと成り下がった。
セシーナはセルナの援護をするので精一杯。交戦の交戦の果てに襤褸になってしまった衣の合間から生肌に孵化したような赤い傷口が無数に柔肌の意味を消しては、死を客観させていく。震える腕で剣を持ち、折れそうな脚を気合いで立たせ唇の端から赤い雫が落ちていく。
シルヴィアの顔色は蒼白を通り越して最早真っ青。生命力の一部も感じ取れないほどに、彼女は瀕死の状態。魔法で攻撃をし、治癒で皆を癒し、戦場を常に把握しては危険な状態である人のもとに逸早く駆けつける。その身体は悲鳴を上げ、魔力は枯渇寸前。後一度魔法を使えばその身体は意識を手放し、生命をも脅かすことだろう。
ハルバとアルメリアは互いに支え合いながらなんとかセルナたちに合流したが、ハルバの左腕は消息し、アルメリアの腹部から途絶えることのない血液がぼとぼとと滝のように落ちていく。
グレンの左目は潰れ、ミラリーは親友のアミランの最期に枯れない涙を流しその場で膝を崩し慟哭が生きる彼らを体現をする。
逃げ場はない。勝ち目もない。戦う気力も生き残る力もだんだんと消えていく。深すぎる闇の前に、大きすぎる絶望の傍に、遠すぎて見えやしない光の音に、失笑する他ない。
「ふぅ……ふぅ……ふぅ……」
それでも、そうであってもただ一人だけはその剣を手放すことはしなかった。
決して挫けない。決して諦めない。決して逃げ出さない。
怒りが彼女を染める。憎悪が彼女を高める。だけど――『情』が彼女を『愚直』に在らせる。
旅人は語る――英雄とは愚直である者を指す、と。
セルラーナ・アストレアは皆を背にただ一人絶望に憚った。
「私はっ……!諦めないッ!絶対に生き延びてみせる!私がっ!…………っ私は【正義】アストレア様の剣よ――ッッ‼」
やはりセルラーナ・アストレアだけが『希望』であり『光』であった。
「私の剣があなたたちを裁く。私のっ光が悪を滅する!
そしてその『光』は『正義』であり、『強さ』だった。抗い続ける『輝く強さ』。
「はぁアアアアアアアアァァッッ――――ッッ‼」
正義は駆けた。赤い大地に僅かな光を持って駆け出した。
けたたましい奇声と狂声。死者の大群と魔族の大群が突貫するセルナに飛び掛かった。
血が舞う。剣が踊る。声が猛る。光が走る。命が迸る。魔力が爆ぜる。肉が拉げる。悲鳴が震撼する。意思が激情する。足が加速し、意識以上に無意識に感情のままにその光の剣が悪を滅し、少女は絶望に反抗した。
魔族の爪牙を身体を逸らして躱し、背後からの亡者の剣を剣で迎え撃っては弾き返し、そのまま乱舞が辺り一帯を切り殺す。血の花が乱れる頃には光は声と共に花びらを運ぶ。
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああっっ‼」
その声は痛かった。心が罅割れそうな痛哭に似た奮闘の声。抗う彼女の心の叫び。
セシーナたちは感じる。彼女が独りで自分たちを救おうとしているのだと。自分を救うのではなく、仲間のためにその命を賭している。
自分が強いから、自分が守るから、私は――【正義】だから。
「セルナ……っ」
「痛いわ……」
「……っ」
「ハルバ……」
セシーナの声は狂戦士の耳に届かない。シルヴィアが感じる痛みの何倍もの痛みをセルナは感じている。足手纏いにしか、これ以上戦うことができない己をハルバは憤り、そんなハルバにかける言葉を見つけられないアルメリアは己の無能さに俯くのみ。
「隊長……っァァァっ……クソッ!」
「…………アミランっ……あみらんぅぅっ~~~~~っっ‼」
グレンの左目は何も映さない。平衡感覚も取れない彼に戦う術はなく、戦場にこれでも駆け出せば一瞬で殺されるだろう。
ミラリーは悲しみに打ちひしがれ、何もできないし何も考えられない。そんなミラリーでさえ、セルナは助けるために血を流し死に近づき命を燃やしている。その事実に彼女が気づくことはない。
そして、セルナ一人で相手できるはずもなかった。
「っ‼ミラリーっ!」
「……?」
瞬間のできごと、伏兵していた魔族の愉快な笑い声と共に煌めいた爪がミラリーの首を抉り切った。
グレンが見た最期の顔は、間抜けな涙を流した相貌であり、そんな顔がグレンの足元に転がってはその瞳がグレンを見上げる。
――どうして助けてくれなかったの?
そんな幻覚に襲われ、それと同時に怒りに荒ぶり視界が狭まり平衡感覚のない身でグレンは声を荒げて駆け出した。
「あ、ァァァァァァああああああ――ッ⁉オマエぇェェェッッ‼シネがァァァァァァ――‼」
グレンのストレートが魔族の顔面に練り込み吹き飛ばす。それが合図となり、セルナの間を抜けた魔族たちが一斉にセシーナたちに襲い掛かった。
「――みんなっ!」
―――――――――――
「ふはっ、あーそうさ。死ね」
振り返ったセルナは見た。そして聞いた。目にしてしまった。耳にしてしまった。
セシーナがグレンを守って愉悦の笑みを浮かべる悪魔ルシファーに、輝く剣で胸を貫かれた瞬間を。
そして瞳が重なり合う。セシーナの翡翠色の瞳が微笑む。
――ごめんね。大好き。ありがとう
なんて幻聴で理想擬きな勝手な解釈。
「ハハハハハハハハハハッ‼なんの無様なことかァ!やはり人間は脆く弱く柔いさ。君の絶望は見れなくて残念だったけど……正義の絶望は――嗚呼、最高に気分がいいよ」
うっとりと正義の絶望を見て悦に入り酔いを回し妖艶と言えるほどに顔をほころばすルシファーに、血の涙と慟哭の剣光がとある感情を驀進させた。
セルナは叫んだ。
――叫んだ叫んだ叫んだ叫んだ叫んだ叫んだ叫んだ叫んだ叫んだ――――
「っっウァアアアアアアああああああああああああああああ――――ッっッッ‼」
――――――――――――――――
そして、最後に戦場に立っていたのは、孤独な正義の殻を被った、ただの人間だった。
正義の滅亡。悪魔の嘲笑。
この戦争を誰もが『正義失墜』と呼び、『悪魔行進』と恐怖を伝染させた。
確実に人類の反抗へと流れていた世界の運命は、ただ一夜の惨劇によって世界は修正された。
人類は悪魔たちに勝つことはできない。
誰しもの心に当たり前だった考えが再び発芽し、それは消せぬ愚豹として『勇気』も『誇り』も『正義』も喰い殺した。
旅人は綴る。詩にすることのできない正義の赤い涙のそれを。
――嗚呼、正義は駆けた。
――嗚呼、死者は踊った。
――嗚呼、その赤い涙を知るのは誰なのか。
あの慟哭と死闘の意味を僕だけが残しておこう。
――正義の哭き声は赤く、そして痛かったと。
これが、一年半前に起こった悲劇の始まりだ。
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