国技館の妖精

渚 孝人

第1話

僕は子供の頃から相撲を見るのが大好きだった。今でも相撲中継を見ると、あの頃の純粋な気持ちが蘇る。画面越しに伝わってくる大男たちの渾身のぶつかり合い、攻防、そしてあっという間の決着。観客はその全ての瞬間に注目している。一瞬の静寂が流れた後、やがて大歓声が会場を包み込む。興奮は、しばらくの間人々の中に余韻となって残り続ける。中継が終わってニュースが始まった後の家の中にも。大相撲は他のスポーツにはない、独特のうねるような熱気を持っている。


僕が小学生だった頃は貴乃花と武蔵丸が覇を争っていたような時代で、かの有名な小泉首相の名言が生まれた時でもあった。学校から帰ると煎餅をかじりながら緑茶をずずっとすすり、テレビで相撲中継を見ていたことを思い出す。中学生になると相撲界は朝青龍の独壇場になり、あまりにも強くて本当に憎たらしかった。


大相撲は年6場所あるうちの一月場所、五月場所、九月場所の3場所が両国にある国技館で行われる訳だが、その朝青龍の時代に国技館のテレビ中継があるとたまに映る女性がいた。

彼女は見た目の年齢で言うと16か17歳くらい。茶色か紺色のワンピースを着ていることが多く、長い黒髪を胸のあたりまで伸ばしていた。ひと場所に15日あるうちの平日の2、3日しか登場しないのだが、周りが高齢者ばっかりなのと、遠くから見ても明らかなくらいの美人なのでとにかく目についた。


当時中学生だった僕は、国技館から中継があるたびに彼女のことを自然に探すようになっていた。そしてその姿を見つけると何だか嬉しい気持ちになった。ある意味ファンだったと言えるかも知れない。今から考えると不思議だけれど、10代の女の子にも関わらず彼女には一緒に来ていると思しき家族の姿は見当たらなかった。それでも彼女はいつも真剣な眼差しで、目の前で繰り広げられる一瞬の攻防を見逃すまいと集中しきっていた。


しかし高校生になって白鵬がすごい勢いで台頭してきて朝青龍と争うようになった頃、気が付くと彼女はテレビに映らなくなっていた。画面に映らない席に座るようになったのか、テレビ観戦に切り替えたのか、はたまた相撲そのものに興味を失ってしまったのかその原因は分からない。それで僕は結構がっかりしてしまった。今で言うところの「~ロス」というやつである。


でも多忙な高校生の頃のことだったから、僕はそのうちに彼女のことを忘れてしまった。部活とか恋愛とか受験とか、やるべき事が当時の僕にはあまりにも多すぎた。相撲もいつの間にか結果をニュースで見るだけになっていた。



それから時は流れ、僕は地元の高校を卒業して都内の大学に通うようになった。その頃相撲界では、白鵬がかつての朝青龍を凌ぐほど圧倒的に強くなっていた。日馬富士や稀勢の里もまだ対抗馬と言えるほどの存在ではなく、僕は大相撲への興味を失っていた。


夏休みのある日、僕は家庭教師のアルバイトを終えて高円寺駅のホームで中央線の快速が来るのを待っていた。茹だるように暑い日で、遠くの方の線路を見るとゆらゆらと蜃気楼が立ち上っていた。昼下がりのラッシュの合間の時間帯でホームにいる客はまばらだった。

頭上のスピーカーから、車両点検のために電車の到着が15分ほど遅れるというアナウンスがあった。僕はあーあ、とため息をついてiPodで音楽を聴き始めた。


向かい側のホームのベンチにはぽつんと女の子が座っていた。彼女は淡い黄色のブラウスと水色のスカートを着て、夏物のサンダルを履いていた。そして大きな麦わら帽子をかぶったまま、何かの文庫本を熱心に読んでいた。


僕は周りの人に聞こえない位の音量で鼻唄を歌いながら、額に滲んでくる汗を袖で拭っていた。暑い、いくらなんでも暑すぎると僕は思った。容赦のない日差しとホームの照り返しのせいで、体感温度は40度を超えていただろう。


遠くの方から、向かいの総武線の各駅停車が大きくなってくるのが見えた。蜃気楼のせいでぼんやりとではあったけれど。ベンチに座っていた女の子も立ち上がって、かぶっている麦わら帽子を上げてそちらを見ていた。どこかの木では、ミンミンゼミがやけにゆっくりと鳴いていた。そののんびりとした鳴き声のせいか、時の流れが遅くなって行く感覚があった。まるで軋む音を立てながらゆっくりと減速する電車みたいに。僕の見ている世界は、急激に現実感を失いつつあった。どこか遠くの世界を映した映画を見ているような、不思議な気分だった。


その女の子の顔には何だか見覚えがあるような気がした。でも誰なのかが上手く思い出せなかった。僕は人の名前を覚えるのが極度に苦手なのだ。誰かと久しぶりに会うと顔は覚えているけど名前が思い出せなくて、いつもなんとなく話を合わせてその場をやり過ごしている。

ホームには生暖かい風が吹いて、彼女は麦わら帽子を取って長い髪をかき上げた。はっきりした目元と高い鼻筋が、向かい側のホームからもよく見えた。


誰かが、僕の記憶の扉を力強い拳で叩いていた。何をしているんだ、早く思い出せよと。もしかして小学校の時の同級生だろうか?いや、彼女はどう見ても自分より年下だ。僕はしばらくの間、答えの出ない自問自答を続けていた。その間に、総武線がホームに近づく音が少しずつ大きくなってくるのが聞こえた。浮かんでいた額の汗が、頬を伝って着ていたTシャツに小さな染みを作った。


そして彼女が前を向いて目が合った時、やっと僕は思い出したのだ。彼女が中学生の時にいつもテレビの中に探し求めていた、あの少女だった事を。

急に、心臓の音が耳元でバクバクと聞こえ始めた。異常な暑さのせいか、喉は砂漠の旅人みたいにカラカラに乾いていた。僕はギュッと目を細めて、その女の子の顔をもう一度よく見た。そんなハズはない、どうせ他人の空似だろうと僕は自分に言い聞かせた。イヤホンを外して、心を落ち着かせるように大きく息を吐いた。でも目の前にいるその女の子は、どう見ても彼女以外にはあり得なかった。やっぱり間違いない、あの頃相撲中継で探し続けていた彼女だ。


奇妙なことに、彼女の見た目はあの頃と全く変わっていなかった。一体全体、そんなことがあり得るだろうか?中学生だった僕が大学生になっているというのに、彼女だけが16か17のままでいるなんてことが。僕は口を半開きにしたまま、呆然として彼女のことを見つめていた。まるでユニコーンのような伝説の生き物を目撃してしまった人みたいに。


彼女は僕と目が合うと、少しだけ微笑んだように見えた。そしてまた向かってくる総武線の方を見た。気がつくと総武線は、もうすぐホームに入るところまで近づいていた。


その瞬間、何故かは分からないが僕は走り出していた。ホームの階段を駆け降りて、彼女がいる向かい側のホームをひたすらに目指していた。きっと自分はどうかしているのだと思ったけれど、その時の僕は自分を制御することがまるで出来なかった。


大体、彼女になんて声をかければいいんだろうと走りながら僕は思った。

「昔よく国技館に相撲を見に来られてましたよね?実はずっとあなたのファンだったんです。気がつくとあなたを探していました。」とでも言えば良いのだろうか。

いやいや、そんな事を言ったら頭がおかしいと思われるのが関の山だろう。彼女はアイドルではない。相撲が好きな一般人に過ぎないのだ。


向かい側のホームに駆け上がった時に総武線はすでにホームに到着していて、まばらな乗客がゆっくりと乗り込んで行くところだった。僕は彼女が座っていたベンチの辺りをみたけれど、そこにもう彼女はいなかった。

頭上からは発車が近いことを知らせる音楽が流れていた。僕は慌てて電車の中を探したのだけれど、どこにも彼女の姿はなかった。乗客は数えるほどしか居なかったから、見逃したとは考えにくい。頭を抱えている僕を尻目に、ドアは機械的な音を立てて一斉に閉まった。彼女は消えてしまったのだ。僕がこちらのホームへ走ってくるまでのほんの僅かな間に。


電車が走り去った後にふとベンチの方を見ると、彼女が座っていたあたりには小さな蝶が止まっていた。丁度彼女が着ていたブラウスと同じように、淡い黄色の羽をした蝶だった。

僕が肩で息をしているうちにその蝶はひらりと舞って、総武線が消えて行った方向に向けてゆらゆらと飛んで行った。遠くの方では、ミンミンゼミが間延びした声でいつまでも鳴き続けていた。



あの不思議な出来事が起きてから10年の月日が流れて、数々の偉大な記録を打ち立てた白鵬は現役を退いた。圧倒的な実力を持った横綱が居なくなってしまうのは、何だかんだ言っても寂しいことだった。僕は同世代のスターである照ノ富士が、少しでも長く現役を続けられることを願っている。


それから僕は会社で働くようになり、相撲好きの上司とも何人か出会うことになった。昼休みの時間に相撲の話題が出た時、僕は彼らにそれとなく聞いてみた。昔、朝青龍の時代に国技館に来ていた少女のことを覚えていませんかと。でも彼女のことを覚えていた上司は一人としていなかった。それはよく考えてみれば実におかしな話だった。あれだけ異彩を放っていた少女のことを相撲ファンが誰も覚えていないなんて、そんな事あり得るだろうか。


最近になって僕はまた家族と一緒に相撲を見るようになった。国技館から中継があると、たまに画面の中に彼女を探してしまうことがある。だけどまだその姿を見つけられたことはない。恐らくこれから先も、彼女が僕らの前に現れることはもうないのだろう。根拠はないのだけれどそんな気がする。あるいは彼女がテレビに映らなくなった原因は、ネットが発達し過ぎてしまった今の時代そのものなのかも知れない。


そして僕はこんな風にも思うのだ。相撲中継をぼんやりと眺めながら。

彼女はきっと、国技館の妖精だったのだと。

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